2024年02月16日

生態系ネットワークとミティゲーション




 生態系ネットワークという言葉はあまり馴染みが無いかもしれませんが、「もともとあった自然が、開発などで人間によって分断、孤立してしまった状態を、緑地や水辺による面的ネットワークによって、生物の移動や避難のための道をつくることで、生態系の創造や保全につなげること」とされています。

 そのための具体的な手法の一つが、「まちなかビオトープ」という考え方です。

 そもそも、ビオトープとは、Bio(生き物)とTop(場所)からくる造語で「それぞれの地域の、野生の生き物の生息空間」を意味する言葉です。そこに「まちなか」という言葉がつくことで、「目の前の環境に生物を呼び込む・・・」という意味に対して、特定の種について分断された生息環境を「つなぐ・・・」という意味が込められてきます。

 例えば、誘鳥木という考え方があります。誘鳥木とは、特定の種の鳥が好む実や花をつける果樹や、周りを見渡しやすい高木などを上手く配置し、野鳥が集まりやすい樹木の植栽を促すという方法です。

 特に鳥の誘引については、植物の種子や、水辺であれば水生生物の卵も一緒に運んでくれるということもあり、大きなビオトープをつくる際には、鳥類の誘引を意識的に行われることはよくあります。また、トンボのような昆虫であれば産卵用の簡単な水槽のような水辺に止まり木をつくるだけで誘引することができますので、庭先やベランダで簡単にビオトープをつくることも出来ます。

 ここで、重要なのは「飼育」と「ビオトープ」との違いを理解することです。

 飼育の場合は、閉鎖された空間で給餌をするということが前提になりますが、ビオトープでは、この二つを行わないことが原則になります。

 給餌をしないということは、誘引したい生物種の性質や捕食の嗜好に合わせた空間づくりをしていく必要がありますので、誘引したい生物が好む植物を植栽したりすることも方法のひとつになります。

 また、外界との空間的な分断をしないということが、生物種の避難先や生息域の拡大につながることで生物多様性にとっても大きなメリットにつながるとともに生態系ネットワークの一部にもなるのです。

 特に、まちなかと言われる市街化されたようなところでは、生物にとって過酷な環境になってしまいます。たとえ、公園のような緑地があったとしても種固有の移動可能距離圏内に居場所がなければ、「孤立した環境」ということになってしまいますので、庭先やベランダにもちょっとした生物の居場所を意識していくことが生物多様性の保全につながるという考え方を大切にして欲しいのです。

 また、「つなぐ・・・」だけでなく、棲み分けが必要な場合もあります。

 里山を利用する生活をしなくなった、現代では人間の生活圏と大型野生動物の生活圏の境界線の緩衝帯が無くなりつつあることに対する懸念が高まっています。
 熊の生活圏内への侵入の問題についても、熊の捕食するための団栗の不足という問題が議論されていますが、団栗不足の原因の一つは鹿の増加であり、鹿の増加は過疎化による猟師の減少という、野生動物の環境の問題だけでなく、人間社会の問題でもあるのです。

 これらのように、一見、自然環境の問題のように見えていても、過疎化や限界集落によって地域コミュニティが崩壊し始めている結果のひとつである、とすれば社会的なアプローチによって解決の方向性を示していく必要があります。

 フランスのように「住民の移動の権利」を法律的に保障するという考え方によって過疎地の公共交通インフラに対して、従業員やその家族の通勤などで利益を享受している企業などが広く薄く支え合うことでインフラを支えているように、大型野生動物の生活圏への侵入についても同様の考え方が必要なのかもしれません。

 大型野生動物との緩衝帯をつくり直す活動として、大型野生動物が捕食するために団栗が生るような落葉広葉樹を植樹するような活動もありますが、これらの活動が、一部の善意によって支えられる活動ではなく、人間の生活圏を維持するための必要な措置として、より多くの人たちが仕組みにのっとって関わっていかないと手遅れになる、という考え方で対応していく必要があるのです。

 外来生物や絶滅危惧種の問題も同様です。「外来種」=「悪者」という図式により「いけないものは敵視するのが当たり前・・・」という短絡的な発想を植え付けることの影響については考え直さなければならないことは前提として、人間社会を中心とした生態系に具体的に及ぼす悪影響は、最小限に留める必要があります。

 そこには、「種」の人気や可愛らしさ・・・によって左右されるものではなく、その環境における「種」の保存の妥当性を正当に評価することが大切かと思います。
 
生態系というシステムは、複雑かつ絶妙なバランスによって支えられています。それ故に、人間の文化的で快適な生活と生物多様性との両立はなかなかうまくいかない現状があることも事実で、とくに大規模開発に伴う、森林の消失などは地球規模の脅威になっています。

 そこで、その両立のための方策のひとつとして提案されているのが、ミティゲーション(mitigation)という考え方です。
ミティゲーションとは、英語で「緩和する」「軽減する」「鎮静する」「低減する」などを意味する言葉で、環境分野では、人為的行為が自然環境に与える影響を緩和するための保全措置を意味します。

 企業や行政が関わるような開発行為に対しても愛知県では「あいちミティゲーション」という考え方で、開発などにおける自然への影響を回避、最小化し、それでも残る影響を代償するという順番に則って検討・実施する方針を示しています。

 そこで、大きな期待を寄せるのが、企業の存在です。
 企業が、生態系の保全に関わることには二つの意味があると思います。

 一つ目は、「企業には、人を育てる力がある」ということです。SDGsの考え方が浸透していきつつある中、自らの収益性のみではなく、社会全体での役割を考える企業も多くなってきました。そのような中、地球環境全体を考えることが出来る人材育成も企業としての役割になりつつあります。

 二つ目は、「企業は、経済的かつ空間的な資産を持っている」ということです。その資産に対して生態系ネットワークの視点を取り入れることで生態系のバイオキャパシティ再生にも大きな影響を与えることが出来るのです。

 環境問題は、人間が考える以上、「人の気持ち」というものに大きく左右されます。だからこそ、日常生活の様々な場面で「自分自身も生態系の一部である・・・」という視点を持ち続けることが重要になってきます。

 そういう意味でも、企業の役割をはじめ、自分自身の役割の一つとして、生態系ネットワークの創造は、今すぐにでも出来ることのひとつなのではないでしょうか。

  


2024年02月09日

「水の育て方」について考える



 「水」と言えば、「透明感がある・・・」、「清らか・・・」、「すべてを洗い流す・・・」というような生命の源としての幻想的なイメージがある一方で、治水という言葉に象徴されるように、「すべてを飲み込む・・・」ものであり、あらゆるものを壊していくのも「水」です。

 そもそも、多くの物質は液化、さらに気化するに従って体積が増加するという性質がありますが、「水」という存在は、液体から個体になるときに体積が増加するという特異的な性質を持っていると同時に、地球上のありとあらゆる生命体の源であるという、もっとも身近であり、そして最も不思議な存在のひとつでもあります。

 生物の体内にあるものを除いた、地球上にある水の内訳をみてみますと、海水97.5%、北極や南極の氷などの固体化された淡水1.75%、そして飲み水になる可能性がある淡水は1%しかないと言われています。
 その1%のうち97.5%が地下水、残りの2.5%が川や湖などの目にすることのできる水で地球全体からすると0.025%しかないのです。

 その中の地下水と言われる、帯水層や伏流水などの枯渇に対する危機感が高まっています。このような帯水層と呼ばれるものは地中に浸み込んだ雨や雪が長い時間をかけて蓄積したものです。

 この長い時間によって、ある時は水の浄化作用につながっていたり、ありとあらゆる微量元素を水と一緒に必要なところに運んでいく・・・という役割も同時に果たしてきました。

 水の循環ということで考えれば、大気圏の中では、水の存在する場所や状態が違うだけだから大丈夫・・・と考える人もいるのかもしれませんが、果たしてそれでいいのでしょうか。

 人間の生活を振り返ってみますと、衣食住全ての分野で地球上の様々な資源を活用し、発展を遂げながら富を蓄積してきました。言い換えれば、このような富の蓄積は、自然からあらゆる恩恵をいただき続けたわけなのです。その典型的な社会システムの一つが資本主義と言えます。

 生態系は、複雑なネットワークを成しており驚異的な恒常性と回復力を持っていますが、近年の種の絶滅の速度などを鑑みれば、人類の営みによってなされた犠牲は回復力の臨界点を越えてしまったと考える専門家も多くなってきているなか、ポスト資本主義に対する期待も高まりつつありますが、具体的な方向性を示しきれないのが現状です。

 生態系を中心とした地球の持続可能性を考えれば、回復力の臨界点を越えるまで痛めつけられても具体的な主張をできずに耐え続ける自然との関わり方を見直す時期なのかもしれません。

 確かに、日本国内での度重なる豪雨災害や、世界的にも問題になっている干ばつからくる山火事・・・、気候変動という枠組みをどのように捉えたらいいのかさえも判らなくなっているような脅威も多くなってきているような気がします。
 
 これらの現象を、「人類の社会生活に対する主張」と考えることも出来るかもしれませんが、人類が、この現実を主体的にとらえ、行動に移すまでには、大きなハードルがあることには変わりはありません。

 これらのような、気候変動についても大きな影響を及ぼしているのが「水」の存在です。

 地震大国と言われる、日本国内での地震の被害に、流動化や地盤沈下がありますが、これらのメカニズムについても、「水」の存在が大きく関わっています。

 現在、世界中で「川」や「山」などの自然環境に関する法人格化が進んでいます。「企業を法人と見なすのであれば、川やその流域に人格を与えてもいいはずだ・・・」という考え方です。
 実際に、2017年にニュージーランドのワンガヌイ川に法的人格を認める判決が下されています。このワンガヌイ川は、ニュージーランドで3番目に長く、 マオリ族が古くから神聖視してきた川で、1870年からこの川をめぐる権利を主張し続けた結果です。
 また、川だけでなく、同年ニュージーランドで同様の法的人格を、タラナキ山に対しても法人格を認める判決が下されたとともに、その数年前には、テ・ウレウェラ国立公園が法的人格を認められ、政府が管理する国有財産ではなく、自立した存在になっています。

 ニュージーランドでの判決に続き、インドではガンジス川とヤムナ川に法的権利として 「生きた人間に付随するすべての権利、義務、法的責任」を与えられ、コロンビアでは、最高裁判所がアマゾン川に法的権利を認めています。

 さらには、エクアドルで2008年に制定された憲法では、自然そのものに、「その重要なサイクルを存続、持続、維持、再生する」権利を認めています。
 そして2010年には、ボリビアで、「母なる大地の権利法」が制定され、「母なる大地とは、相互に関連・依存・補完し、運命を共有するすべての生命システムと生き物からなる不可分のコミュニティによって形成される動的な生物システムである」と認めています。

 ヨーロッパでも、フランスでロワール川に対して法律上の人格を持つと仮定し、環境保全団体が代理人となり国を相手取って訴訟が起きています。
 従来では、それぞれの種に対して様々な法律が存在し、その法規定によって判断していましたが、このケースは、「ロワール川」という固有の特徴をもった生態系全体を評価し、「川」を中心とした生態系全体が存続し続ける権利を認めるという、自然の法人格化という先進国での動きのひとつです。

 これらの権利は現実的でなく、「美辞麗句にすぎないのではないか・・・」というような問題を解決するためにも、動植物を含めた様々な生命の権利を適切に評価するとは、どういうことなのか・・・などの様々な議論をそれぞれの分野の専門家を交えて、地域一丸となって行っていく必要があります。

 そして、これらの法人格化によって、人間に害を及ぼす行為が起訴されるのと同様に、今後、これらの川に害を及ぼす行為はすべて起訴される可能性を有する国が実際に表れてきたのです。
 声を上げられなくても、地球には一つの人格として、「生きて存続する権利、尊重される権利、バイオキャパシティ(生物生産力)を再生し、その重要な循環とプロセスを維持する権利」があると考えられる社会の実現・・・。

 身近な、「水」の存在を通して、地球環境のみでなく人間社会全体を考える・・・
 そして、その考えをもとに、身近な「水」に対して自身のできることを実践する。

 「水を育てる・・・」という考えかたも次のステージにシフトしていくためにも、一人一人の小さな実践の積み重ねが必要なのだと思います。


  


2024年02月02日

「立派な原始人を育てる」を考える




 「立派な原始人を育てる」という言葉は、文教大学の成田奈緒子教授が著書「発達障害と間違われる子どもたち」で述べている言葉です。
原始人と聞けば、「野蛮で、粗悪な・・・」というようなイメージの方も多く、現代社会には適応できないと考えてしまう方も多いのではないでしょうか。

 しかしながら、動物として生きていくために必要な事・・・と考えれば、「日が昇ったら起きて、生きるためにしっかり食べて、日が沈んだら身を守るために安全な場所ですぐ眠る」 これは、まさに原始人の生活と同じともいえます。

 多くの人にとって、動物としての本来の姿、という視点で私たち自身を俯瞰的に見ることを忘れてしまっているのかも知れませんが、「寝る・食べる・動く」というスキルは、どれだけ社会が変化したとしても生きるスキルとして重要なスキルであり、本能と呼ばれるような、身体そのもののメカニズムとしても重要なものとして位置付けられていると考える必要があります。

 成田奈緒子教授によれば、脳の発達の段階においても、この「寝る・食べる・動く(逃げる)」のスキルの重要性について、「生きるために欠かせない働きをするからだの脳が育ったうえで、はじめて次に考えたり、想像するための脳やこころの脳の発達に繋がる・・・」と述べています。

 そして、からだの脳を育てるためには、早起きし、しっかり食べ、よく寝ることをくり返すことを大切にすることです。

 その中でも、生きていく上で本来必要なスキルは、自分自身の危険を察知し、逃げることも含めた対応を瞬時に行動に変換することです。まさに、「闘争か、逃走か・・・」という本能的なものです。

 知識としての脳が発達していて、勉強が出来たり、何カ国語もの言葉をしゃべれたとしても、からだの脳が育っていなければ「自分が今、危険ではないか、逃げるべきか逃げないべきか」の判断はできません。この判断ができなければ、死に至る危険を放置することに繋がってしまいます。

 仕事が忙しいからといって、ご飯を抜いてしまう。 寝る時間を削って仕事をしてしまい、睡眠時間を確保できないというような生活習慣が、直接的に自身に迫る脅威とつながるようなイメージにならないかもしれませんが、そのような環境から逃げずにそのままの生活を続けることでメンタルヘルスに影響を及ぼしてしまったり、ひどい場合には過労死というような最悪の顛末を迎えることもありえる、というイマジネーションが欠如してしまう原因も、「寝る・食べる・動く」を基本とする身体の脳がうまく育っていないことによって起きてしまうと考えられています。

 多くの人は、食べたり、寝たり、動く・・・ということは当たり前のように出来るはず、とおもっているかもしれませんが、その「当たり前・・・」には、周りの人の習慣や思い込みによるバイアスの上に成り立っているという認識が必要です。

 からだの脳の形成期と発達の関係を考えれば、周りの大人たちの当たり前によって、ヒトとしての基本的な感覚を形成していくのです。

 成田奈緒子教授は、「食べること、寝ることをきちんと教えてもらった子どもは、何が本当に危険なことかわかり、そこから逃げ出すこともできるようになるのです。」と述べるとともに、「自分のことがわかる力」の大切さを訴えています。

 発達障害の症候を示すような傾向の子どもには、自分がどういう状態で、どうしたいかがわかっていないこと、自分への感覚が乏しい子がおり、ここに自律神経のアンバランスさが加わると、自分の体調の悪さなどに気づけず、気がついたら倒れているというような事もあるようです。
 このような状況は、自分の心や体の状態に意識を向けるのが苦手であることが原因でもたらされるとも考えられています。

 自分の状況を把握する力、心や体の状態を感じ取る力は、自ら試行錯誤をくり返すことで成長しますが、親を含めた周りの大人が子どもの行動や失敗を予測して先回りしてしまうことで、子ども自身が自分で感じて考え、行動する機会を奪っていないかという可能性を意識する必要がありそうです。

現代社会に於いて、忘れ去られようとしている生物種の一つである「ヒト」の基本的な能力を育むことを、今一度大切にする・・・ことは、「原始人を育てる」に通じるだけでなく、現在のような不確実性の高い社会に適応していくためにも重要なことなのかもしれません。



  


2024年01月26日

睡眠と子どもの発達の関係を考える




 子どもの健やかな発達・・・は、誰もが願うことだと思います。子どもに気になる行動があったり、周りの子よりもできないことが多かったりすることで、自分の子と周りの子どもと比べて、「これが出来ていない」「発達が遅くて不安」と思うことは、当然の事かと思います。

 もし、発達障害と呼ばれるような症候であるのであれば、二次障害と呼ばれるような周囲の無理解による放置によって悪化することを避けるという意味で、早期に適切な対応をするということは大切なことの一つです。

 文部科学省は2000年に21世紀の特殊教育の在り方に関する調査研究協力者会議を実施し、その最終報告で、「通常学級にいる特別な教育的支援を必要とする児童生徒に積極的に対応することが必要」という見解を示しています。

 これを受け、2002年に小中学校の通常学級の中に発達障害の可能性を持つ、 特別な支援が必要な子どもがどのくらいいるのかを把握するため、教員に対してアンケート調査を行った結果、通常学級の中には6.3%、人数にして2~3名もの「特別な支援を必要とする児童生徒」がいるという報告がなされました。

 その2年後の2004年には、子どもが小さいうちに発達障害を発見して、適切な支援を行うことを推進する「発達障害者支援法」が成立しています。このような流れそのものは、適切な子どもの発達を社会で支えるという視点で見れば非常に良い事だと思います。

 しかしながら、文部科学省のある調査によると、2006年の時点では、発達障害児の数は全国で7,000人足らずであったのに対して、14年後の2020年には、発達障害児の数は9万人を超えたというのです。つまり、少子化で子どもの数が減り続けている中、この14年で発達障害児の数は反比例するように増え続け約14倍になったというのです。

 小児科専門医・医学博士・公認心理師でもある文教大学の成田奈緒子教授によれば、この14倍という数字に対して、「長年、多様な臨床現場を経験してきた立場からすると、この子どもたちのすべてが発達障害児にはどうしても思えません。この中に少なくない数で、発達障害の診断がつかないのに、発達障害と見分けがつかない症候を示している“発達障害もどき”と言えるような状態の子どもたちがいるのでは・・・」と疑問を呈しています。

 成田奈緒子教授は、「私自身の約35年にわたる研究・臨床経験を踏まえても、本当に発達障害と診断されるお子さんはそこまで多いわけではない・・・」と言います。

 この状況について、教師や親御さんの子どもを見る目の中に「発達障害」という選択肢が1つ追加されたことにより、「この子も、発達障害なのかもしれない」と思う方が増えてしまったという可能性を考えれば、「先生の話を無視して歩き回る子」、「みんなと同じ行動ができない子」、「すごく不器用な子」という、いままでは、少し手がかかるだけと思われていた子どもたちが、発達障害という枠に当てはめられるケースが増えてきたと考えることも必要になってきたと言うのです。

 発達障害は「先天的な脳の機能障害」と定義されるため、診断のためには「生まれたときからの生育歴」を含め診断基準に照らし合わせる必要があるのですが、生育歴にまったく問題はなくてもあたかも「発達障害のような行動」が見られる子どもが多くいるというのです。

 このような子どもたちによく見られるのが、生活リズムの乱れと、テレビやスマホ、タブレットなどの電子デバイスの多用です。

 生活のリズムに一番大切なものが、睡眠です。また、様々な電子デバイスは、光源を直接見るという行為につながることが多く、視神経を通じて脳をはじめとする多くの神経系に強い刺激を与えるために、睡眠にも大きな影響を与えると考えられています。

 特に、子どもの成長の過程においては発達段階によって必要な睡眠時間は異なってきます。従って、一緒に生活している大人と同じ睡眠時間では足りていないということを認識しておく必要があります。

 また、睡眠は脳の発達にも重要な役割をしています。睡眠不足が原因のイライラが、多動の症状に見えたり、不規則な食生活が原因で偏食に陥りイライラするなど、睡眠の質の低下につながるような不規則な生活のリズムがもたらす子どもへの影響が、発達障害と呼ばれる症候が似ている・・・ということも意識する必要があるというのです。

 とはいえ、子どもだけ先に・・・も難しいかと思いますので、一緒に生活する大人自身の生活リズムを見直すことで、子どもの状態の変化につながるというケースも実際にあるという報告もあります。

 家族や身近な人のために、自分自身の睡眠をもう一度考え直してみることも大切なことかもしれません。

  


2024年01月20日

怒るは知恵の行き止まり・・・とあたまかき



 「怒るは知恵の行き止まり・・・とあたまかき」は、私の知人の口癖でした。その中でも、最後の「頭かき・・・」という、力の抜け具合が頭に残っている言葉です。

 ハラスメントという言葉が、様々な場面で使われるようになり自身の感情をおもてに表すことに対して気にかけることも多くなってきたのではないでしょうか。

 また、「自分の機嫌は自分でとる・・・」という考え方も一般的になりつつあるなか、アンガーマネジメントという考え方も注目されるようになってきました。

 そもそも、怒りの感情とは動物としての自己防衛本能であり、自然界で身を守るための生存戦略としてもっとも大切なもののひとつです。
 「逃走か、闘争か・・・」という言葉は、危険回避に直結する行動を分かりやすく、表現されていると同時に、現代社会においては自身の生命の危機という捉え方は変化してきていると考える必要もあります。

 現代社会に於いては、幸いにして原始の時代のように、日常的に野生生物から身を守るというような危機意識をもって生活を送る必要が無くなってきたことや、社会情勢の大きな変化などを考えれば、危機意識そのものは、直接的な「身の危険」から、人間関係や社会に対する「不安」のほうが大きくなってきたと考える必要があるのかもしれません。

 「不安」に関する表現のひとつに、「どうしていいかわからない・・・」という言葉があります。
 この「わからない・・・」という不安に対して、様々な感情が沸き起こってくるかと思いますが、その一つが「怒り」なのかもしれません。

 また、世の中には、かつてのブラック校則に代表されるような「訳の分からないルール」が、たくさん残っています。その「訳の分からなさ・・・」に対しても、「自分の力ではどうしようもない・・・」という喪失感とともに、怒りの感情が湧いてくることもあるかと思います。

 また、別の視点で考えれば、自分の中に、明確な解決策や、具体的なロールモデルがあることで冷静に事に当たることが出来るという場面を経験しているかたも多いのではないでしょうか

 自分自身の喪失感によって、周りの人の言動が自分に対する批判に映ってしまうことで、被害者意識によって沸き起こる怒りの感情があるのだとしたら、怒りの感情は、自身のなかで、「万策尽きた・・・」という時に起こる感情と考えることも大切なのかもしれません。

 まさに、「怒るは知恵の行き止まり・・・」です。

 また、そのような状況に陥りそうになった自分の姿に対峙することも大切なことの一つだと思います。

 誰しも、自身のダメなところを受け入れることは難しいことだと思います。

 例えば、照れてしまう・・・、人の目が気になってできない、・・・ということもありますが、平常心を失ってしまうことで、恐怖や不安を感じ何も言えない状況に陥ってしまえば、客観的にみれば、「腹をくくれていない・・・」というように映ってしまうこともあります。

 このような状況におちいってしまわないためには、次の3つの要素が大切だと言われています、

 まず一つ目は、この状況で自分自身が目的に対して、なにをすれば良いのかを知っているということです。よく耳にする、「聞いていない・・・」「理解されていない・・・」という不満や怒りは、目的に対する認知の差によって起きてしまうと考える必要があります。

 二番目は、この状況で自分自身の責任に於いて、どうすれば良いか・・・という判断ができることです。これは、「自分で判断していいんだ・・・」という自認の意識と、周りとの信頼関係にも関わってきます。

 これらの二つは、知識や知恵につながるものになりますので、「知恵の行き止まり」のリスクを明確に表現しています。

 最後が一番大切なのですが、この状況を良くしていこう・変えていこう・・・という意志を行動に転換するチカラで、まさに「やろうとするチカラ」です。

 この三つのひとつでも欠けていると、うまくいかないというのです。

 さらにこの「やろうとするチカラ」も、次の三つの原因によって損なわれてしまうと考えられています。

 一つ目は、「闘争か逃走か・・・」不安や恐怖に対する、本能的な生体反応です。これに対する、対応策としては、肯定的に捉えることで脳をだますことや、ネガティブな反応を事前に認識し、対処方法を準備しておくことだと言われています。

 二番目は、過去の経験などから・・・失敗に対するイメージが先行してしまい行動に移せないパターンに陥ってしまう「ネガティブ思考」と言われるもので、具体的な行動目標に切替えることで目の前の事に集中しやすいとされています。

 三番目は、「自分がどのように見えているのか・・・」という俯瞰的な視点がないことで、自分自身のことを理解できていなかったり、自分自身の強み弱みが解らないために、具体的な対策がとれなかったり、客観的にみると「いつも同じパターンで失敗している・・・」ということにつながってしまいます。

 この俯瞰的な視点の難しさ・・・は多くの方が感じている事なのではないでしょうか。

 「自分を見つめなおす・・・」「自分に対峙する・・・」というような、力強い言葉に惑わされずに、「自分にも、こういうところあるからな・・・」というような、軽い気持ちで、出来ていない自分を認めることからでもいいのではないでしょうか。

 「怒るは知恵の行き止まり・・・とあたまかき」の「頭を掻く・・・」というこの仕草の中にある茶目っ気のようなものに、自身への向き合い方の一つのヒントがあるような気がします。



  


Posted by toyohiko at 11:22Comments(0)社会を考える

2024年01月12日

幸せにならなければいけないのか・・・を考える




 「生きづらさ・・・」という表現を耳にすることが多くなってきたと思う昨今・・・、幸福でなければならない、それゆえに「失敗が許されない・・・」「失敗させてもらえない・・・」という強迫観念や社会全体の閉そく感に苛まれてしまっていると感じることもあるのではないでしょうか。

 確かに、幸福は素晴らしいものであり、大切なものです。

 現実に幸福の利点に関する研究も多く、幸福な人たちは、社交的で、 探索好きで、独創的で、健康であることが多く、「人間のもっとも自然な安定状態だ・・・」とも言われています。
 特に健康面で言えば、幸福感の高い人は低い人に比べて、風邪を発症する確率が50%も低いというような報告もあり、 幸福感は免疫機能を高める効果があるとも言われています。

 このように、幸福感は非常に価値あるものと考えられていますが、実は、そうばかりとも言い切れない・・・というような研究報告もあるようです。

 そもそも、幸福には「感情」の要素が含まれており、喜び、情熱、満足感など、個人が主観的に体験するものと定義づけられています。そして、「誰かが幸せそうだ」と見える時は、その人が頻繁にポジティブ感情を表していて、ネガティブ感情を見せることが少ない状態とされています。

 京都大学こころの未来研究センター内田由紀子教授によれば、「幸福のネガティブ面」は主に二つあると言います。

 ひとつは、一人の幸福による影響が他者に及ぶことで、社会の調和を崩してしまうことです。

 幸福に関する実証実験によれば、「幸福になりたい・・・」という願いが最も強かった人たちほど、孤独感が強く、憂うつで、目的意識も低いという報告もあります。更に、ポジティブ感情も少なくなり、EQも下がっていたというのです。

 「幸福になりたい・・・」という願望は、視点を変えれば自己中心的な思考とも言えます。自分の幸福感とポジティブ思考だけを大事にすると、他者のことは二の次になるので、恋愛関係、家族関係、友人関係の質が損なわれていくということからすれば、ある意味当然の事なのかもしれません。

 仲間と一緒にいるときに「貴方だけ、特別なサービスをご用意します・・・」と言われたらどうでしょう・・・?

 「愛情」とは、人のために自分の幸せを喜んで犠牲にすること・・・
 「愛」とは、他者の視点を取り入れてものを考えること・・・

 とも言われています。誰かが愉快な話をしていたら、頭の中で「これをパートナーや友人に話してやろう。きっと楽しいだろう・・・」と思って、さらに楽しい気分になるかもしれません。
 自分の幸福に価値を置きすぎることはその妨げになり、その結果、孤独などの不幸な副産物が手元に残るというのです。

 もうひとつは、「幸福」という幻想にとらわれすぎることで、現実から目を背けてしまう「現実回避」の傾向が顕著になる事です。このように幸福感にむやみに高い期待をかけることは、別の形で、幸福や成功を損なうことにつながるというのです。

 世の中は予想もつかない動きの連続であることは多くの方が理解しているかと思います。だからこそ、あなたがたとえ礼儀正しく会話上手であっても、電車でたまたま言葉を交わした人が、挨拶もせずそのままさっさと、降りてしまうこともあります。

 コントロールできるのは自分の態度だけであって、相手の感じ方、行動、反応はその人次第であることは、理解していたとしても過去の成功が自分の実力だと思い、幸運や周りの協力のことは忘れてしまうのです。

 逆に失敗は状況のせいにして、どうしようもなかったのだと考える。こういう楽観的なバイアスがあると、幸福感とモチベーションを維持するには役に立ちますが、過去の過ちから学ぶことはできません。そしてさらに期待を膨らませて進んでいくことになるのです。

 さらに、幸福のための選択をする上で、考慮しなければいけないバイアスがあるとも言います。
「欲しい」と「好き」という、二つの感情を一緒のモノだと考えてしまい、「何かを欲しい」ということと、「何かを好き」ということの違いによって起きる「欲しい/好きバイアス」と言われるものです。

 脳神経科学の分野では、「欲しい」という心理と、何かが「楽しく感じられる」とか「好きだ」というのは、それぞれ別の部分の脳の働きであり、異なる心理プロセスであることが明らかになっています。

 「欲しい」「満足したい」という強烈な欲望に押されて買い物をしたり、人生の大事な選択を行ったりする時に、それが長期的に見てどういう結果になるかを予見する能力もなく、慎重に考えずに行ってしまうことはないでしょうか。

 幸福に関しては、この「欲しい」と「好き」の違いは特に重要と考えられています。

 私たちはこの2つを同じものだと思い込みやすいために、手に入れた後もそれをずっと好きなはずだと考えるのですが、何かを欲しいという想いや、満足をしたいという際限のない欲望は、さらなる次の欲求に変化していくのです。

 「欲しい」と思って何かを手に入れたその瞬間から、その高まった欲求は鎮まり、それを好きだという気持ちは変わらないが、かつてそれを求めた時ほどの強い気持ちはもうないという経験を多くの人がしていることからもいえることです。

 幸福を願うことは確かに大切な事だと思います。しかしながら、幸福感を求めすぎるゆえのデメリットを考えれば、やみくもに求めることも考え直す必要があるのではないでしょうか。
 
調査によると、人は誰でも自分は他の人間より出来がいいと思っているそうで、「人並み以上効果」と呼ばれています。言い換えれば、ほとんどの人が「自分は平均以上だと考えている・・・。」ということです。
 例えば、車の運転技術に関して尋ねた別の調査では、回答者の99%が、自分の運転の腕は平均以上だと答えています。

 このような「虫のいい思い込み・・・」があるからこそ、私たちは不確定でやっかいな現実に立ち向かう自信が持てることも事実であるということを考えれば、幸福感とは良い距離感を保ちながら付き合っていく事が必要なのかもしれません。

 かつて、P. ドラッカーが「幸福はもういいから、やるべきことをやれ」と皮肉にもとれるような言葉を残したと言われています。
 幸福という思考や感情は、現在自分自身がどのような状態なのかを示すシグナルのようなものと捉えることが大切です。
 そのシグナルそのものをコントロールするかのようなことを人生の目標にしてしまえば、自分自身のしていること自体の魅力が損なわれるばかりではなく、良い結果にもつながりません。

 もし、「幸せでありたい・・・」と思うなら、幸せになりたいと頭で考えることをやめ、身を入れて目の前の人生を生きることの方が、むしろ近道なのだと思います。
 ポジティブになろう、ネガティブを避けようと必死に頑張ることは無益なだけでなく、自分を取り巻く世界に見いだせるはずの喜びや関心、そしてその意味が、見えなくなってしまうからです。



  


Posted by toyohiko at 10:47Comments(0)社会を考える

2024年01月05日

認知機能と腸内細菌叢



 加齢による認知機能の低下は、本人のQOLのみならず周りの人たちへの生活への影響の大きさもあり、認知機能低下の予防や改善については多くの研究者を含め優先的社会課題の一つと考えられています。

 また、日本国内では、65歳以上の高齢者のうち、認知症と診断された人と、認知症ではないが、以前に比べて認知機能が低下してきており軽度認知障害といわれる人とを併せると約3人に1人とされているのが現状です。

 そのような中、脳腸相関など脳と腸や腸内の共生微生物である腸内細菌との関係と認知機能に関心をもつ研究者も多くなり、2011年には、「認知症の有無によって腸内細菌叢が大きく変化する」という知見についての発表があり、その当時は未解明であった認知症の前段階である軽度認知障害と腸内細菌との関係性についても徐々に解明されつつあるそうです。

 国立長寿医療研究センターもの忘れセンター客員研究員佐治直樹氏によりますと、認知症の有無によってエンテロタイプと呼ばれる食生活や生活習慣によって分類される腸内細菌叢の状態との相関関係について様々なことが分かってきたというのです。

 このエンテロタイプとは、性別や人種に関係なく、食生活や生活習慣によって分類され、バクテロイデス(Bacteroides)属が多いエンテロタイプⅠ型、プレボテラ(Prevotella)属が多いエンテロタイプⅡ型、そしてルミノコッカス(Ruminococcus)属やその他の菌が多いのをエンテロタイプⅢ型と3つに分かれています

 研究では、認知症がある人と認知症のない人を比較すると、認知症のない人のグループでは、45%がバクテロイデス属の多いエンテロタイプⅠ型だったのに対して、認知症のある人のグループでは、エンテロタイプⅠ型は15%で、種類の分からない菌が多いエンテロタイプⅢ型が85%を占めているという結果になりました。

 つまり、認知症の人にはエンテロタイプⅠ型の割合が少なく、エンテロタイプⅢ型の割合が多いというようにエンテロタイプが異なっていることが分かったというのです。

 また、「認知症の特効薬はないですか?」と聞かれれば、「残念ながら、現時点ではありません」という回答にならざるを得ません。
しかし、「予防につながる生活習慣はあります・・・。その一つが食事です。」腸内微生物叢や腸内細菌の代謝産物は食事と切り離せないことがその理由になります。

 これらの関連性に対するメカニズムについても、腸内細菌の代謝物に注目し、さらなる研究が進んでいます。

 腸内細菌は、大腸に届いた栄養源を代謝する過程で多種多様な代謝産物をつくります。どんな代謝産物が産生されるのかは、食事内容や腸にすんでいる腸内細菌によって異なります。
 代謝産物の中には腸内で有害菌の増殖や腐敗産物産生を抑制する良い働きをする酪酸や酢酸のようなものもありますし、腸内環境悪化の指標でもあり、おならの悪臭の原因で腐敗物質ともいわれているインドールやスカトールなどもあります。

 最近の研究では、腸内細菌の代謝産物は認知機能と関係性は大きく、認知症の人の便では、アンモニア、p-クレゾール、インドールなどの、いわゆる有害菌が産生する代謝物の濃度が高く、逆に、認知症ではない人においては、それらの物質はあまり見られないという報告もあります。

 また、認知症の人には少なく、認知症ではない人に多かった代謝産物は乳酸であるとの報告もあります。

 さらなる、統計学的な解析では、アンモニア濃度が1標準偏差(SD)上がると認知症リスクは1.6倍に高まり、乳酸濃度が1SD上がると認知症リスクは約0.3倍に抑えられるということも分かってきました。

アンモニアと乳酸について、少し補足しておきます。代謝物質の一部は腸管から吸収されて血液循環系を介して全身を巡りますが、血中アンモニア濃度が高くなると、認知障害やアルツハイマー病のリスクが高まるという研究報告もあります。

 有用菌によって産生される乳酸は、有害菌の増殖を抑えて腸の運動を活発にします。そして、食中毒菌や病原菌による感染予防や発がん性を持つ腐敗産物の産生を抑制する腸内環境をつくることが知られています。

 身体の健康には、腸内細菌叢における有用菌の占める割合を増やすことが重要です。腸内細菌の代謝産物と認知症の関係においても、有用菌を増やし有害菌を減らすことが重要であるということが見えてきました。

 また、高齢者を対象とした興味深い研究もあります。この研究は、食事を日本食パターン、動物性食品パターン、高乳製品パターンの3種類に分類し、認知症の関連を追跡したものです。

 東北大学で2016年に報告された内容では、日本食パターンの度合いが高い人で認知症発生リスクが低いとしていましたが、さらに、食事スコアを算出するにあたって加点する食事内容を、穀類・味噌・魚介類・緑黄色野菜・海藻類・漬物・緑茶を基本とする「伝統的日本食」と、これに豆類・大豆製品・キノコ 類・果物を加えた「現代的日本食」、さらにコーヒーを加えた「コーヒーを含む日本食」の3つに分類した結果によると、コーヒーを含む日本食のグループが優位に認知症に関して低リスクであるという報告がなされたいうのです。

 佐治直樹氏によれば、コーヒーについては世界中で認知機能に好影響とする研究がありますが、また、認知症のリスク評価には、外出や友人との交友などの社会生活も大きく影響することからしても、「コーヒーを飲みに友だちと出かける」という行動と、良好な腸内細菌叢との相乗効果による可能性についての指摘をしています。

 本人のみならず、周りの方々へのQOLに対して大きな影響をもつ認知機能・・・、脳腸相関という概念を取り入れた、腸内細菌叢からのアプローチと、孤立しないことを意識した、社会生活を大切にしていく・・・という双方からのアプローチは多くの面で大切なのかもしれません。



  


2023年12月28日

罪悪感と恥の意識




 「失敗は成長の糧である・・・」というような表現をよく耳にするかと思いますし、失敗から学ぶことが多いということも事実かと思います。とは言え、「失敗を素直に学びに変えられるか・・・」というと、「これは別の話・・・」という想いの方も多いのではないでしょうか。

 失敗をした時の心理状態を考えてみると、多くの人が「罪悪感」を感じてしまうと思います。

 アメリカの社会心理学者ロイ・バウマイスター氏は、「罪悪感によって落ち込んだ人は、そういう気持ちを和らげるために、パートナーや同僚のために尽くすようになる」と述べています。
 そして、罪悪感によって、「自分の行動が人にどういう影響を与えるかを学び、次からは気遣いができるようになると考えれば、失敗をした時に落ち込んだとしても、長い目で見れば自分の成長にとって、それがよかった・・・」という流れになればいいのですが、実際にはそう上手くはいかない・・・というのが現実です。

 人間関係などの分野を専門とし、その研究が高く評価されているジョージ・メイソン大学トッド・カシュダン教授らは、著書「ネガティブな感情が成功を呼ぶ」で、「罪悪感」の有効性を活かすために、「罪悪感」と「恥の意識」を分けて考える必要性を訴えています。

 つまり、同じ行為をしても、「罪悪感」ではなく、「恥の意識」を持ってしまうことで、問題はむしろ悪化するというのです。そして、恥をかかせればかかせるほど、その人の不安と攻撃性は増大し、周囲から孤立していき、さらに、「罰として恥をかかせるような行為が、悲惨な逆効果を生み、やめさせようとする行動を、かえって助長することにつながってしまう・・・」と考える必要があるというのです。

 ここで、「罪悪感」と「恥の意識」との違いについて考えてみましょう。
 それぞれに対する、心理的な状態を次のように表すことが出来ると言います。

 「罪悪感」とは・・・

 自分の行為とそれによって傷ついた人たちに注目する
 自分がしたことを不快に思う
 なぜ自分はあんなことをしたのかと自問する
 心の痛みはそれほど強くない
 悪い結果に対して自分には何かができると思う
 緊張感と後悔を覚える
 ダメージを修復し、 償いをしたいと思う
 悪かったのは自分だと思っている

 「恥の意識」とは・・・

 自分という人間全体に注目する
 自分自身を不快に思う
 なぜ自分はあんなことをしたのかと自問する
 強い苦悩と欠陥意識にさいなまれる
 悪い結果に対し、 自分は何もできないと思い込む
 身をすくめ、現実を避け、逃避したいと願う
 隠れたいと思い、 それができないと (自分あるいは他者に対し) 攻撃的になる
 他者を責める (スケープゴートを探す )

 この二つを比較してみますと、「罪悪感」は、「過ちに対する自責の念」であり、「自分の行動が不十分ないし誤りだったと感じることによる自己非難」としています。
 いっぽう、「恥の意識」は、別のものになります。人が恥の意識を覚える時には、単に自分の行為を過ちや悪行だったと考えるだけではなく、「自分自身を基本的に悪い人間と感じる」ことが大きな特徴と考えられています。
 つまり、「罪悪感」の場合は、悪かったという認識は特定の状況に限られるのですが、「恥の意識」は、自分という人間そのものをネガティブに捉えてしまうのです。

 ジョージ・メイソン大学の心理学教授であるジューン・タングニー氏は、犯罪抑止のカギは「罪悪感」を含めた道徳感情ではないかという仮説を、10年以上の長きに渡り研究し続けています。
 そして研究の結果、「罪悪感」を覚える傾向のある服役囚はそうでない人たちよりも、過去の過ちのために深く苦しんでいることを明らかに するとともに、 彼らは進んで罪を告白し、謝罪し、自分が起こした問題の後始末をしようとする。
 そして、出所後も、再び悪に手を染めて逮捕されることも少ないというのです。

 さらに、道徳心に罪悪感が加味されると、人は対人関係に気を配る思いやりのある人間になろうとし、他者への攻撃などをすることが少ないという調査結果が報告されています。
人格というのは「誰も見ていない時にその人が何をするか」に表れると考えると、「罪悪感」という道徳感情は人格の基礎を形作るものとして価値のあるものと考える必要もあるのかもしれません。

 そのためにも、その人を苦しめ、自分を嫌いになり、変わりたいとか身を隠したいと望み、時には自分を消し去りたいと思うような「恥の意識」ではなく、「罪悪感」のみを感じるために3つのアプローチがあるそうです。
 
 まずは、「何をめざすのかを常に考える」ことです。その失敗を当人の価値観の欠如、愚かしさ、欲深さなどの「性格的欠陥」と、ごちゃ混ぜにして個人攻撃をしてしまうことも多いと思いますが、誰もが、「欠陥人間・・・」というような扱いをされれば、「恥をかかされた・・・」ことになります。
 しかし、具体的な行為の間違いについての指摘であれば、心を開いて受け入れられます。更に、その人の強みや優しさについても折に触れながら、その長所を強調した上で、過ちの責任を指摘することで、相手も納得し易い状況になります。

 次に、「共通の理解を持つことから始める」ことです。誰かが間違いを犯したら、まずその人の価値観や目標を理解していることを示す。その上で、相手の行動はその価値観に合わないもので、別のもっと健全な行動がふさわしいと丁寧に説明する。
 そして、こちらの不快感を伝えて気持ちを共有することです。これは、そんなに簡単ではなく、相手の間違った行為を見逃してしまった方が楽だと思うかもしれませんが、 過ちを指摘することは、後悔している当人にとってはもちろんのこと、する側にとっても気分のいいものではありません。
 しかしながら、そのフィードバックを定着させて相手の今後の行動を改善させようと行動し、自分もいい気分ではないということを率直に伝えることは有効であると考える必要があります。

 最後に、「相手をコントロールするのではなく、自主性を持たせる」ことが大切になります。人は、「何かをしろ」と言われることに対して、一般に考えられているほど嫌がらないと考える必要があります。
 例えば、家族から「ゴミを出して」と言われれば、皆さんは気持ち良くできますが、ゴミ袋を置く位置が悪いと言われたら不愉快だし、それをどうやるかをこまごま指示されることについては、不快な気持ちになります。

 人々のモチベーションについて研究している多くの学者たちは、人間の基本的欲求のひとつで、衣食住のニーズと共に大事なものは、「自分の生き方を自分で決めたい」という欲求であると述べています。
 失敗を今後に活かすためには、この後どうするべきかまで指示せずに、行動を改めるためにどんなことができるかを、当人に考えさせることを大切にすることも有効なことの一つだそうです。

 「恥をかかされた・・・」という感情は、その相手のみならず、ひいては社会という実体のないものにまで広がり、肥大化する・・・ということなのであれば、「罪悪感」と「恥の意識」の違いをよく理解することは大切なことなのだと思います。


  


Posted by toyohiko at 16:45Comments(0)社会を考える

2023年12月22日

腸内細菌叢の変化について考える




 以前、師走の時期になると便秘薬が売れるようになる・・・という話を耳にしたことがあります。その理由の一つとして、風邪の流行にともない風邪薬の服用との関係があるのでは・・・という説があるようです。

 この便秘薬と風邪薬との関係には、腸内細菌が関わっていると考えられています。

 腸内細菌叢と呼ばれる、腸内細菌の構成は、一定ではなく様々な要因によって常に変化しています。

 その変化に対する大きな要因の一つと考えられているのが食習慣です。

 食習慣といっても、あまりピンとこない方もいるかもしれませんが、国や地域の違いで考えると理解できるかもしれません。

 日本とヨーロッパ、さらには米国や中国、インドなど世界中で考えれば、食習慣が違うということは、ある意味当たり前のことです。実際に、世界的な食習慣のデータベースを用いて分析した結果でも、各国同士の食習慣の類似性を示すようなものはないとも言われています。

 そして、各国の食習慣の類似性が無いということと同時に、腸内細菌叢の菌種などの組成も国ごとで大きく異なっていることが、12ヶ国の健常成人の腸内細菌叢をメタゲノム解析によって調査した研究でも次第に明らかになってきています。

 例えば、日本人の場合には相対的な存在比で多いのが、ビフィドバクテリウム属とブラウディア、バクテロイデスが上位3位を占める割合が多く、12ヶ国中もっともビフィドバクテリウムとブラウディアが多く、また、ペルーやベネズエラの人の腸内細菌叢はプレボテラ属が多く、ビフィドバクテリウムは少ないという結果になっています。

 このような、腸内細菌叢の国や地域毎の多様性は、食習慣からもたらされる、遺伝子の差によって様々な酵素の有無などにも関わる共生微生物との共進化という考え方になってきているそうです。

 よく知られているのが、海苔などの海藻類を分解するポルフィラナーゼという酵素の遺伝子の有無ですが、日本人の9割は保有していると言われています。
 その一方で、この遺伝子については、多くの国の人は、海産物の生食や海苔を食べる習慣が無かったことからほとんど保有していないとされてきましたが、寿司を中心とした世界的な日本食の普及によって保有率は上がってきたとされています。

 反対に、歴史的に乳製品を摂取する食文化ではない日本人が、ラクターゼの遺伝子が少ないために乳糖不耐症の症状が多く、結果腸管内の乳糖の比率が高くなるためにビフィドバクテリウムの割合が多いというようなことも言われています。

 これらのように、食習慣が、腸内細菌叢に対して大きく影響を与えることはお分かりかと思いますが、いっぽうで、食習慣のみでは説明がつかない類似性があるということも指摘されています。

 そこで、浮かび上がってきたのが、抗生剤を中心とした薬剤の使用です。順天堂大学医学部特任教授の服部正平氏によりますと、抗生剤使用のデータベースを食習慣と腸内細菌叢との関係性についてのデータベースと照合し分析した結果、抗生剤使用量の多い国とバクテロイデスの多いグループ、使用料の少ない国とプレボテラの多いグループとの相関性が高いことが分かったというのです。

 さらに、この分析結果から抗生剤の使用は食事よりも腸内細菌叢への影響が高い可能性も示唆されています。
 ニューヨーク大学医学研究科のMartin J.Blaser教授らの行った「ヒト細菌叢プロジェクト」でも紹介されましたが、抗生剤の使用量と肥満率が高い相関関係にある事などからも、薬剤による腸内細菌叢への影響は意識する必要があるのかもしれません。

 前出の服部正平特任教授によれば、腸内細菌叢への影響は薬剤の影響が最も大きく、続いて疾患、年齢・性別・BMIなどの身体情報で、食習慣は4番目となるそうです。5番目以降に、生活習慣(喫煙・飲酒など)に続いて、運動がもっとも低いという結果になったと報告しています。

 さらに、薬剤について、どの疾患治療薬が腸内細菌叢に大きな影響を及ぼすのかを検証したところ、 消化器疾患治療薬 糖尿病薬、抗生剤 抗血栓薬 循環器疾患薬 脳神経疾患薬、抗がん剤 筋骨格系疾患薬、 泌尿器・生殖器疾患薬、その他 (呼吸器系疾患薬や漢方薬) の順で影響が大きいという報告もあります。
 なかでも特徴的だったのは、胃酸分泌抑制薬のプロトンポンプ阻害薬 (PPI) 糖尿病治療薬のα-グルコシダーゼ阻害薬 (α-GI) との併用で、単剤使用と比較して腸内細菌叢の多様性が低下したというような事例もありますので、多剤による影響も考慮する必要がありそうです。

 食習慣の改善を中心とした「腸活」や「育菌」という言葉も最近では耳慣れた言葉になりつつありますが、今回の研究結果のような状況を考えますと、食習慣はともかくとして・・・日頃からの体調管理に気を付けて、薬に頼らなくても良い生活を心掛けることが大切であるということになります。

とはいえ、日頃からの体調管理は食事・睡眠・適度な運動ということになりますので、これはこれで、「ニワトリと卵のような関係」なのかもしれません。



  


Posted by toyohiko at 12:50Comments(0)身体のしくみ

2023年12月15日

乳糖不耐症とビフィズス菌




 「牛乳などの乳製品を食べたり飲んだりすると、どうもお腹の調子が・・・」というかたも多いのではないでしょうか、この症状は乳糖不耐症と云われ、小腸から分泌されるラクターゼという消化酵素が不足しているために、乳糖を分解することができず、乳製品を摂取すると下痢等の症状を起こすもので、日本人には多いと言われています。

 乳糖不耐症の症状に悩まされている方については、ラクターゼが分泌されない遺伝子型を持っているとされています。
よって、牛乳などを飲んで乳糖が小腸に入ってくると、小腸で消化吸収されることなく乳糖がそのまま大腸に到達することになります。
 その結果、大腸内に乳糖がたくさんたまるので、乳糖を好むビフィズス菌の仲間が増えていくのです。

 その一方で、 ラクターゼが分泌される遺伝子型を持つ割合が多いといわれるヨーロッパ系の人たちは、乳糖が小腸で分解吸収され、大腸には乳糖が届きません。必然的に、ビフィズス菌のエサが減り、他の菌が増えてしまうというような違いがでてくるというわけです。

 近年、ラクターゼを産生する遺伝子 「ラクトース」 の遺伝子型を見ると、腸内のビフィズス菌量を予測できるというような知見が、 複数の国や研究グループで報告されていますがこのようなメカニズムが関係しているとされています。

 アリゾナ州立大学の鈴木太一助教によりますと、乳糖不耐症の遺伝子型に関するような場合は、ヒトと菌が糖を巡って取り合いをしているような競争関係にあることで、ヒトの遺伝子型と菌量の関係が維持されているという共進化の事例と言えると説明しています。

 このように「取り合い・・・」という関係に対して、協力関係の事例もあるようです。

 唾液に含まれるアミラーゼという消化酵素がありますが、このアミラーゼは唾液アミラーゼ遺伝子によってつくられますので、この酵素が多ければ多いほど、唾液による炭水化物の分解が進みます。

 従って、アミラーゼの分泌が多い人ほど、 唾液では分解されない複雑な糖が大腸に届き、 アミラーゼの分泌が少ない人ほど複雑な糖だけでなく単純な糖も大腸に到達することになりますので、アミラーゼの分泌が多い人ほど複雑な糖を好むルミノコッカス属の菌が増えていくというような関係性ができあがってきます。

 そのために、アミラーゼ遺伝子型を確認することで、ルミノコッカスの量を推測できることが分かるということにもつながるのです。

 人間の生活は、狩猟採集から農業や畜産へと発達し、乳糖や炭水化物からエネルギーを得ることがヒトの生存にとって重要な存在になったことは、既に多くの人がご存知の事と思います。

 今回紹介したような、乳糖不耐症とビフィズス菌との関係や、唾液とルミノコッカスとの関係のように、様々な環境の変化に対応するサイクルの早い、体内の腸内細菌をはじめとする共生微生物の変化が、ひょっとするとヒトの遺伝子の変化につながり、ヒトの進化に貢献しているというような、「ニワトリと卵」の関係なのかもしれないとおもうと、目に見えない共生微生物をもっと注目する必要がありそうです。




  


Posted by toyohiko at 16:32Comments(0)身体のしくみ