身体のチカラ › 2024年12月26日

2024年12月26日

「責任」と変わりたくない心




 慣性の法則という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、これは物理学の基本的な考え方のひとつで、「止まっているものは止まり続けようとし・・・、動いているものは、その方向も含め、動き続けようとする・・・」という自然界の基本的な法則です。

 この慣性の法則は、物理学の世界だけではなく人間社会の中でも数多くみられる現象であることはご存知でしょうか、「このままで大丈夫・・・」「このままの方が良い・・・」というような正常性バイアスや、「変わりたくない・・・」という変化への恐れなど原因は様々だとは思いますが、社会に於いても慣性の法則に似通った状況は多くの場面で見られるのではないでしょうか。

 「変わる」ということをのみを考えてみた時には、「変化のための変化」を信じて追及してしまうような状態も、「動き続けようとする・・・」慣性の法則に当てはまっているのだと思います。

 社会ということを考えた場合には、自身に関わる多くの事柄についてそれなりの責任がついて回ってきます。
 対人関係においても、相手が一方的に悪いということは少なく、双方の関係性によって成り立ってきますし、有形・無形の文化的価値や自然環境に関しても、水、土、大気・・・それに関わる微生物を土台とする壮大な生態系はお互い複雑に絡み合うことでバランスをとっていますが、誰かが整えてくれるものではなく、多くの人たちの行動の積み重ねによってはじめて成り立っているという意味では、自身も主体者のひとりであり、その責任を負う一人です。

 しかしながら、その責任負う一人として行動に移すことが出来る人は残念ながら少数派であることも現実です。

 正常性バイアスは、人間が健やかに生きるために必要な心のメカニズムとして、日常的な変化や新しい出来事に対して過剰に反応しないよう、心の平穏を保つ働きとして必要だとされている一方で、「現状で、大丈夫・・・」というような、多くの事態に対して過小評価してしまうというデメリットとして使われることが多い言葉です。

 こうした、「現状で、大丈夫・・・」という心理状態は、事態を真剣に捉えている立場からすれば、「変わりたくない心の持ち主・・・」に見えるのだと思います。
そして、その「変わりたくない心」は誰もが持っている心なのだと思います。

 しかしながら、自身の「変わりたくない心」に気付くことが出来る人はどのくらいいすのでしょうか・・・?
 その心に気付き向き合えることが出来る人はどれくらいいるのでしょうか・・・?

 自分自身はその心に気付けないとしても、周りの人たちは気付いていたり、気付いた人たりは、「変わらない・・・」態度に対して、モヤモヤ感を抱いていたり、「反対派」というような認識を知らず知らずのうちに抱いていることは多いのかもしれません。

 フランスの哲学者のジャン・ギトンは、目の前の仕事について、「天職」と「野心」に区別し、天職か野心のどちらに従おうとしているかを次のように問いかけるべきだとしています。

 野心は不安です。 天職は期待です。
 野心は恐れです。 天職は喜びです。
 野心は計算し、失敗します。
 そして成功は、野心のすべての失敗の中で最も華々しいものです。

 チーム人とって自身の果たすべき役割や責任を常に考えている人であれば、「この仕事を誰が引き受けてくれるか」と問われた時に、ためらうことなく「ハイ、私がします」と応えることができます。そのような姿勢で自らが取り組んだ仕事は、その目的に応えた「天職」になるとジャン・ギトンは説明しています。

 反対に、その呼びかけに応えたくないと思いつつ、他に引き受ける人がいないのでやむをえず引き受ける仕事は天職とは感じられないでしょう。しかしながら、積極的に仕事を引き受ける人が、自分の仕事を天職になるかと言えば必ずしもそうとは言えないことも現実です。

 野心が「不安」であり「恐れ」である最大の理由は、他者に認められようとする承認欲求です。
そのような人の使う「野心」という言葉は、自分をよく見せようとする、自分を大きく見せようする「虚栄心」からの言葉であることが多いために、「結果につながらないかも・・・」「認めてもらえないかも・・・」という不安にいつも苛まれているともいえるのです。

 自分が認められるためだけにした仕事の結果は、一見成功に見えたとしても実は失敗なのかもしれないということなのです。

 そのように考えれば、「変わりたくない心」は不安や恐れの表れであり、その「不安」や「恐れ」を悟られたくないという気持ちが、相手に対しての不敬な態度につながってしまうのであれば、責任のある行動としては周りの人からは見てもらえないという結果になってしまうのだと思います。

 本来の課題に向き合うことなく、相手に矛先を向けてしまうことでマイクロアグレッションと呼ばれるような自覚のない差別的行動や不敬な態度につながり、さらに分断という事態を引き起こしてしまうリスクさえあるのです。

 感情と行動をしっかりと区別した上で、自分とは異なる価値観や考え方を尊重し、相手の感情や思考を想像して上で・・・、

自分自身の態度や行動が、誰のためであるのか・・・
その行動が独りよがりでなく、周りの人たちとの意思疎通が出来ているか・・・
行動の結果、周りの人たちの「幸せ」にどのようにつながっているのか・・・

を、常に意識することで、「大きく見せたい故に結果への不安や恐れ」から少しでも遠ざかることが出来るのかもしれません。


  


Posted by toyohiko at 09:34Comments(0)社会を考える