身体のチカラ › 地球を考える
2025年02月14日
マイクロプラスチックとリーキーガット

マイクロプラスチックに関する社会的な課題については、生物への影響というような生態系に関する環境問題から、人体からの検出事例の報告が上がり続ける中で、人体の影響に関する健康リスクへと広がりつつあります。
日本国内においても、2024年2月に東京農工大学の高田秀重教授らの研究グループによって、人の血液から1000分の1ミリ以下の微細なプラスチックが検出されたという、国内では初めての研究事例の報告がなされています。
海外では、既に脳をはじめ様々な臓器からのマイクロプラスチックの検出事例が報告されており、認知症をはじめ多くの疾患との関連性に対する研究も多くなり関心の高さが伺えます。
高田秀重教授によれば、プラスチックは環境中で非常に細かくなっていくことで、「粒子を取り込んだ魚などの海洋生物の食事による摂取」、「大気中に舞っている粒子の呼吸時などの吸引」など、様々な過程を経て、体内に摂取されている可能性があると指摘しています。
更に、「プラスチックに含まれる添加剤の中には、人の健康や生殖に影響を与えるような成分が含まれている。細かくなってマイクロプラスチックになっていくと簡単に溶け出して生物に取り込まれてしまうようになる。有害性の高い物質は今までも国際条約で規制が行われてきたが、プラスチックにはまだ有害性の検討が不十分な物質が無数に含まれている。このため、使用量と生産量全体の削減が非常に大事だ」とも述べています。
世界では年間3億5300万トンあるとも指摘されるプラスチックごみですが、マイクロプラスチックということで考えれば、洗濯排水に含まれる微細な化学繊維片、走行する様々な車両にから排出される微細なタイヤ片など削減に対する課題が多いことも事実です。
その一方で、多くの生物の消化器官には外界からの異物を取り込まないための仕組みが備わっています。嘔吐や下痢などの排泄の仕組みや消化管に集中している免疫システムなどもその一つです。
一部の化学合成によって作られた人工添加物もそのような意味では、マイクロプラスチックと同様に、人体の本来持っているメカニズムによって体内に入り込み、血液中や様々な臓器に蓄積されることなく腸管バリア機能によって排泄されるという考え方もあるかと思います。
そもそも腸管のバリア機能のなかに、腸管上皮細胞の隙間を密着させるという機能があるのですが、その機能に障害がおこることで、細菌や毒素が体内に流入してしまうことがあり、この現象を「リーキーガット(腸漏れ)」と呼んでいます。
この「リーキーガット」は、皮膚や腸管などの組織に存在し、外部からの刺激や異物の侵入を防ぐ役割であるタイトジャンクション機能と言われる細胞同士を密着させる細胞接着のメカニズムによるバリア機能の不全ともいわれており、腸内細菌の乱れによっておこされているともされています。
このような、リーキーガットのような状態に陥ってしまうことで、外界からの異物であるマイクロプラスチックの体内への流入や蓄積のリスクも高まってしまうとすれば、必ずしも良いことではありません。
このようなリーキーガットに陥る要因というものは、環境問題や食品に関わる様々なっ社会的背景によって、残念ながら高まりつつあります。その一方で、腸内環境を整えるような生活習慣を心掛けることで、リーキーガットのような症状の予防の可能性も指摘されています。
これは、ちょうど宇宙空間での感性症予防について、無菌状態を追求していくことへの限界という課題に対して、宇宙飛行士の免疫システム低下への対策という視点を同時に取り入れ、その手段のひとつとしてプロバイオティクスを利用するのと同じ発想なのかもしれません。
生活を取り巻く環境によって、様々な健康リスクが存在するとともに、一つ一つの要因が複雑に絡み合っています。
そのためには、一つだけに対するアプローチだけでなく、出来ることを総合的に対処していく事が大切です。その方法のひとつに腸活を含めた腸内環境の維持向上によって健康リスクの回避につながるということであれば、今すぐにでも始められる予防手段につながるのかもしれません。
2025年01月31日
ポスト化石資源としての微生物の可能性について考える

地球温暖化などの大きな要因といわれています石油などの化石資源について、一時は可採埋蔵量などという言葉があったように、持続可能性とは言えない枯渇性資源であるという現実があります。
とはいえ、産業革命以来、産業の飛躍的発展や豊かな生活と呼ばれるような生活の利便性向上に対して大きな役割を果たしてきたことは紛れもない事実です。
そのようななか、微生物などをもとにしたバイオ技術を活用することで、従来型の化石資源を利用しない形で製品や素材を循環させて利用するようなサーキュラーエコノミー型の持続可能性を模索する流れが進んできています。
近年、ポストバイオティクスと言われるような、微生物の代謝物などの産生物質の活用によって従来の環境負荷型の製造方法を改善することでより効率的に、さらには安価に提供するような事例は既に多く存在しています。
例えば、化粧品や食品などに利用されているヒアルロン酸についても、以前は鶏のトサカから成分を抽出することでしか手に入らなかったのですが、現在では、微生物を利用し、その代謝物などから生産が出来るようになることで、利用が広まったり、安価に提供できるようになった事例の一つです。
また、近年注目が集まっています生分解性プラスチックの原料となっているステレオコンプレックス型ポリ乳酸もシアノバクテリアと呼ばれるラン藻が光合成の過程で産生するD-乳酸という物質を原料にしていますし、このD-乳酸の産生には、大腸菌などを利用する方法もあり、試行錯誤をしている過程と考えられています。
神戸大学先端バイオ工学研究センターの蓮沼誠久教授によりますと、これらの事例のように、微生物を利用し、脱化石資源の方向性を示すことが可能になってきた大きなポイントは、AI技術などを融合することで、それぞれのゲノム情報の解析が劇的に早くなったと同時に、ゲノム編集技術によって効率よく精密な遺伝子操作が可能になったためとしています。
また、洗剤や合成香料、樹脂と言われる素材や農薬など様々な製品の生成に必要だとされているフェノールにおいても化石資源からの生産に依存しいてるのが現状になりますが、フェノール生合成経路の遺伝子を導入することで、フェノール産生酵母株をつくり、その結果、フェノールを生産することに成功した事例もあります。
そもそも、化石資源といわれる様々な物質も単なる経年変化によって生成されたのではなく、そこには多くの微生物と言われるような生命体が関わることで、現在、資源として活用できていると考えれば、改めて微生物たちのチカラを利用することで、地球資源や環境問題解決の糸口につながってくるのかもしれません。
2025年01月17日
身近な自然を知ることから始めよう

絶滅危惧種や生態系の保全など、私たちを取り巻くヒトを含めた生態系に関する変化は、目まぐるしいものがあります。
地球温暖化と言われるような気温の上昇によって、農産物や水産物にもいろいろな影響が出ていることは多くの方々がご存知かと思います。
今年は、果樹を中心とした越冬したカメムシの被害や熊などの大型哺乳類の人間社会への影響もその一つです。
生態系の変化は、自然環境だけのためではなく、農産物や水産物という視点で考えれば私たちの食糧の問題に直接影響します。そのためには環境の状況変化に合わせた個体数や種の変遷などの継続的な変化を把握していることで、はじめてその対処方法を考えることが出来ます。
また、その変化の因果関係などを考えた時には、どのような情報が必要なのかもわかりにくいのが現状ですし、その因果関係につながる仮説力が非常に重要になります。
そこで、多くの場面で行われているのが指標生物やその生息環境に関するモニタリング調査です。
例えば、特定の種が「減った・・・」とか、「増えた・・・」というような状況についても、発言者の印象や感覚と言われるものによって、全体を判断するということは良くない事になりますし、こと、自然環境というような対策の影響に対する答えが長いタイムスケールでしか得られないような場面では、対策の判断が間違ってしまうことで、現状の課題がより深刻になったり、新たなる負の影響を導き出してしまう恐れすらあります。
そのためにも、それぞれの環境に生息する指標生物やその他の可能性を持っている種の現状を的確かつ正確に把握した上で判断することが必要です。
そして、その把握したデータを出来る限り外部に公開していく事で、色々な立場の人たちを巻き込んでいく事も大切です。その一方で、希少生物については、商業ベースの発想になってしまう方も多く、生息域の情報についても慎重な姿勢にならざるを得ないという現実もあります。
とはいえ、生態系全体のことを考えていけば出来る限り全体を網羅するようなデータの蓄積は必要不可欠になります。
そこで、新たな手法として期待されるのが、環境DNAを活用した生態系の把握です。
環境DNAによる調査とは、海洋中や河川や湖沼などの環境中に溶け出した魚の糞や粘液などに含まれる生物由来の微量のDNAを抽出し、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)と呼ばれる方法で増幅させ分析することで、そこに棲む生物種を知ることが出来るという方法です。
更に、そこで検出されたDNAの量によって、そこの環境下での種の構成などが解るというメリットもありますし、生物から放出された環境DNAは長くて1か月ほどその環境中に存在するといわれていますので、時系列データとしての活用にも有効とされています。
このような手法については、魚類や甲殻類などの大型のものについては、一定のノウハウを構築しつつあるようですが、小型の水生昆虫や植物、さらに藻類などは、これからの課題でもあるようです。
よって、現在では環境DNAを活用した手法は、生態系の保全というよりも、食料としての水産資源の確保や現状食習慣の無いような種のマーケティングなど産業分野での可能性を模索しつつある中での活用が中心のようですが、「見えない世界としての水中」の様子がこうした技術を使って可視化出来つつあることで、より定量的な把握が可能になってくるということについては大きな意味があるかと思います。
土、水、大気をとりまく生態系は、私たちにとって食糧の確保も含めて大切であり、一方的に搾取するだけでなく保全していかなくてはならない環境そのものです。
そのために、断片的な情報や声の大きい人たちの印象に引きずられてしまうことで、間違った判断をしてしまった結果への責任は、次の世代への責任と考えれば自らの判断も変化してくるものです。
生態系の保全には、特効薬や起死回生の一手というような「これさえ、やっておけば・・・」という単純な答えはなく、一人一人の小さな日常の積み重ねの結果に他なりません。
だからこそ、「さいきん、昆虫を見かけなくなった・・・」という印象を、印象だけで終わらせる事ではなく、話題にすることで、他の人たちと意見を交換したり、専門的な知見と照らし合わせることで、見えてくるものも多いと同時に、その経験によって、行動が変化していくことが大切なのだと思います。
2025年01月10日
絶滅危惧種川ガキの再生とグリーンインフラ運動

「良い子は川で遊ばない・・・」という言葉を聞いた記憶がある方は多いのではないでしょうか、なるべく危険なところに近寄らないようにすることで、身の安全を守る・・・という意味では、確かに理にかなっているのかもしれません。
しかしながら、その発想が行き過ぎることで川のみならず自然から遠ざかり距離をとる・・・ことで、失ってしまうものは何なのかを考える必要があるのだと思います。
確かに、「安全・安心」や「個人の権利」も大切ですが、行き過ぎた責任回避にならないためのバランス感覚をそれぞれの個人が持ちうることが大切なのではないでしょうか。
都市部では、「子どもの声がうるさい」という理由で、幼稚園や保育園の園庭での遊びに配慮が必要だったり、ひどい場合には移転の検討が必要・・・という話までに発展してしまうことを考えると、発想の起点がその人にとっての正義感であったとしても「加減が解らず、折り合いをつけることが出来ない・・・」結果にも映ってしまいます。
このような状況に関して考えてみると、自然界では、昆虫にしても多くの哺乳類にしても、同じ種の間で互いに殺し合うような事は基本的にしません。
威嚇の段階で決着をつけることで、無駄に命を削らない・・・という習性を持ち合わせているということからすれば、私たちは自然から学ぶことが沢山あるのだと思います。
現在の世界各地で起きている様々な出来事を鑑みても、ヒト以外の種のほうが、「いい頃合い・・・」とか、「いい塩梅・・・」ということを理解しているのかもしれません。
お互いの着地点を見極めることなく徹底的に自身の主張を貫き「声を大きくしたものが勝つ」というようなロジックがまかり通るようになる・・・というような状況が当たり前になってしまうことは、未来を支える次の世代のためには、あまり良い社会とは言えないような気がすると同時に、「わがままのコストを善意で支える・・・」というような社会に近づいているような気さえしてしまいます。
我々人類は、かつて霊長類の仲間として自然の中で生き抜いてきました。本能ともいえる危機管理能力の多くは、その自然のなかで共存することで培われてきたと考えられています。
このように考えれば、「自然」というリアリティに触れるからこその良さは、人がヒトである以上必ずあるはずです。
「川ガキの再生」という考え方も単に、川で遊ぶ楽しさを・・・というだけではなく、自らが「自然」という壮大かつ本来もっとも身近である存在に触れることで、現代社会で多くの失いつつあるものを得て欲しいという気持ちも込められているのです。
自然と向き合う時間を積極的に多くとっていますと、気付くことがあります。それは、「自然界において人間が知っていることの方が少ない・・・」ということです。このことは、「学べば学ぶほど、世の中にはわからないことが沢山あることが解る・・・」というようなものです。
そして、何よりも自然と接していることで一番良い事は、「解」が無いということに対して平常心でいられるということです。「焦ってもはじまらない・・・」、「地道に続けていくしか方法がない・・・」ということをある意味思い知らされるからだと思います。
川ガキのようにいつも「自然」と近い関係を意識し続けられることは、「自然を愛する気持ち」を醸成してもらいたいだけでなく、白黒はっきりつけたり、「どっちの責任だ・・・」ということばかりに振り回される社会の中で、ネガティブ・ケイパビリティと言われるような「正解のない問題にも真摯に向き合えるチカラ」をつけていくことにもつながると考えているからです。
グリーンインフラという考え方による具体的な行動も、すぐさま結果の出ないことのひとつなのかもしれません。だからこそ、運動としての理念の共有と地道かつ継続的な活動が大切になるのです。
スローフード運動も同じですが、つねにそのような食材を食べるということではなく、「常に意識をしながら、なるべく・・・」ということが、長続きする秘訣であり、結果的に広がりにつながるという話を耳にしたこともあります。
「よい子は川で遊ばない」というメッセージには、「どうせやらかすに違いない・・・」という信頼関係の無さとしても読み取ることが出来ます。 このことは、次代を担う子どもたちの「答えのないものに立ち向かうチカラをそぎ落とすことにつながっているのではないでしょうか。
これは、大人たちのお互いを「頼れない」という状況にも責任があるのかもしれません。
頼るということは、恥ずかしいことではなく素敵なエンパワメントの一つであるという価値観が出来ていけば変化していくのです。
子どもたち自身も自らの意志で、未来のことを考えています。その意志を尊重し、そのチカラを発揮していくためには、まず大人自身が多くの人を頼り、そして子どもを信頼し・・・
結果に拘り過ぎずチャレンジするという姿を見せていく事からなのだと思います。
2024年11月29日
マイクロプラスチックの人間の身体への影響を考える

海洋中のマイクロプラスチックについての問題は、環境問題の一つとして取りあげられてきており、「鳥類や魚類の消化器官の内容物の中にプラスチック片が発見された・・・」というようなセンセーショナルな映像などが報道されており、大きな反響があったことなども記憶に新しい方も多いかと思います。
近年では魚類などの水産物に蓄積された、ナノレベルの微細なマイクロプラスチックや、水中に溶けこんでいるものや大気中に浮遊しているものも存在してることが明らかになるにつれて、人類の健康問題へと変化しつつあります。
そのような中、ニューメキシコ大学のマシュー・キャンペン教授が、「平均年齢が45〜50歳の正常な人の脳組織で確認されたマイクロプラスチックの濃度は1グラムあたり4800μgで、脳重量基準で0.5%だった」というような研究報告がなされたというのです。
この報告は、マシュー・キャンペン薬学教授が率いる研究チームによって、2016年から2024年までニューメキシコ州アルバカーキの検死所で採取された人間の肝臓、腎臓、脳の前頭葉皮質の剖検サンプルを分析した結果、脳で発見されたマイクロプラスチックの量が他の臓器と比較して最大30倍の濃度が検出されたことによるもので、アメリカ国立衛生研究所を通じて公開されています。
さらに、この研究チームによれば、アルツハイマーを含む認知症で亡くなった人々の脳サンプル12個を調べた結果、健康な脳よりも10倍多くのプラスチックが含まれていたことから、脳内のマイクロプラスチックの増加が、認知症発症率の増加と関連があることも示唆しています。
近年、様々な研究報告でマイクロプラスチックなどが、人体の様々な臓器で発見されているというような事例も多くなってきました。
このような現状に対する健康被害についても、センセーショナルに受け取り、反応することなく冷静に見守る必要があるのではないかと思います。
既に、社会生活の中で我々は、多くのプラスチック製品の恩恵を受けており、切っても切れない現状にあります。そして、プラスチックの存在が悪いということではなくプラスチックが不用意に環境中に放出されることに問題があるという視点に立ち、課題を切り分けることが大切なのだと思います。
現状での環境中のマイクロプラスチックの流出には、水が大きく関係しています。
日常の洗濯による化学繊維の微小片を含んだ排水や、自動車や自転車などのすり減ったタイヤ片の排水溝への流入や粉じんによる大気中への飛散、そしてポイ捨てゴミの河川からの海洋への流出など・・・、自身が生活を送る中においても、ありとあらゆる日常でマイクロプラスチックの環境中への流出に関わっているのも現実です。
また、ポリバケツの紫外線による劣化も環境中への放出のリスクの高まりと関係していることを考えれば、身近なプラスチック製品の保管や取り扱いも関係していることになります。
最近話題になりつつある、水道水中のPFASの問題も人体への健康被害などの悪影響が叫ばれる中、汚染源の保管や処理の方法などの課題が表面化してきており、法整備が追い付いていないことなども指摘されています。
更には、近年高まりつつある動物愛護の観点から広がる、天然毛皮からフェイクファーへの流れもマイクロプラスチックの環境中への放出という視点で考えれば、両者は両立しない関係であり、一つの答えに収束しにくい課題であるという側面も浮き上がってきます。
プラスチックという既に社会生活に大きな恩恵をもたらしており、生活の中で切り離して考えることは出来ない存在に対する新たなる課題にどのように付き合い、対峙していくのか・・・というような社会課題は、身の回りも数多くあるはずです。
このような課題だからこそ、一つの正解を求めるのではなく、正解のない問題として受け入れ、一人一人の行動変容を促しながら、分断や対立を煽るような事の無いよう・・・、お互いの立場を尊重しつつ、自身が出来ることを考え実行していくしか方法はないのかもしれません。
2024年09月20日
グリーンインフラの実践と地域コミュニティ

グリーンインフラという考え方は、前回ご説明させていただきましたが、実際にどうすれば良いの・・・という問題が出てくるかと思います。
「水」に関する防災や生物多様性に関することは、行政機関のすることで個人や小規模な企業が介入できるような問題でないと思う方もいるでしょうし、「これは、行政の仕事なんだから・・・なんで自分たちがやらなければいけないのか・・・?」と疑問を持つ方も多いのかもしれません。
しかしながら、多くの災害においてボランティアと呼ばれる自らの意志をもって復旧・復興に関わる人たちの存在は欠かせないものであり、被災地にとっては大きな心の支えになっているという現実もあります。
そうした考え方にしていく事によって、身近にも出来ることが沢山あることに気付くこともあるのではないでしょうか。
例えば、アスファルトやコンクリートで覆いつくされた雨水の流れる枡を覗き込んだことはありますでしょうか・・・、雨水桝は言ってみれば台所の排水溝と同じなので、排水溝にゴミや泥があれば、当然のように流れにくくなり道路に溢れ出す確率は高くなります。
天気予報を見ながら、雨水桝のゴミや落ち葉などを気にしてみたり、定期的に枡に溜まった土砂を取り除くことで水の流れは随分スムーズになります。
私の知人に、大雨の予報の時は必ず駐車場の乗り上げに使用している段差プレートを外して雨水桝に水が流れやすいようにしている方がいますが、それも減災という意味では大切なことの一つです。
このように、ちょっとした工夫で雨水の流れをスムーズにすることは誰にでも出来ることの一つです。
更に、既存のコンクリートをはがすことはなかなか難しいかもしれませんが、出来る限り表土を残すことも出来る工夫の一つですし、少し高価にはなりますが敷地内の舗装を透水性のものにすることも同じです。
そして、もっとも有効な手段と考えられているのが、大小にかかわらず「庭」と呼ばれるような環境を屋外に作っていく事です。
もちろん、草取りなどの日常的な手間はかかりますが、地表全体で考えれば地中の保水能力の一助となる事は間違いありませんし、そのような面積が増えていく事でヒートアイランド効果の減少にも大きな効果をもたらしてくれます。
また、愛知県では開発という名のもとに自然環境が失われるようなケースに対して、その損失を最小限もしくは、損失をしないようにしようという代償ミティゲーションという取り組みをしています。
いずれにしても、身の回りの利便性を一切損なうことなく身の安全を確保することは難しい・・・という発想が必要なのかもしれません。
地域コミュニティの持続可能性についても様々な議論がありますが、自然災害という視点で考えていけば、近隣の人々の協力は無くてはならないものであることは多くの方がお気づきの事でしょう。
流域全体という広域的な治水という視点で考えていけば、本来、湿地帯や田んぼを中心とした農地が大半を占め、多くの保水量を担っていた下流部が、都市化してきていることで、中流部や、さらには上流部に至るまで負荷が掛かってきているという状況も考える必要があります。
そのような状況からすれば、水に関連する大規模災害は都市部だけ・・・ということでは無くなってきているのかもしれません。
予防医学という言葉がありますが、予測される身の危険に対する予め準備するということで考えれば、社会的には「交通安全も立派な予防医学である・・・」ということにもなります。
ましてや、「水」から自身の身を守るということからすれば、「自分だけに降りかかる問題・・・」ということは無く、「一人一人の立ち振る舞いの結果が、その地域全体に降りかかる・・・」ということになります。
だからこそ、自治会や地域のNPO活動などの地域コミュニティの根幹である近隣の人たちとの関係性を今一度見直したうえで、グリーンインフラにつながるような身近に出来ることを学んだり、実践してみることも、自分自身の「予防医学」につながるのかもしれません。
2024年09月11日
グリーンインフラという流域治水の考え方

異常気象という言葉が、日常的に聞かれるようになりつつある昨今、異常という言葉を使用することそのものが問われるような、気象現象による風雨災害や、それに伴う土砂災害がここ数年非常に多くなってきています。
このような状況を解決するためにも、自分たちでも出来ることは少しずつ進めていく事がますます必要になって来ています。
豪雨による道路の冠水や内水氾濫と言われる下水などへの過剰な流入によって起こる様々な被害もその一つです。
これは、車に例えれば一般道と高速道路の違いのような事が、生活圏内での水の流れで起きていると考えることが出来ます。
例えば、高速道路の降り口での渋滞は、排水溝の数や溜枡の詰まりになります。更にその後の一般道まで渋滞していれば高速道路の降り口の付近まで渋滞が広がり、高速道路そのものまで渋滞してしまうようなものです。
ここで、ポイントなのは地表に降り注いだ雨水などの水は、都心部を中心にアスファルトの舗装路やコンクリートで覆われた地表を、高速道路を走るように排水溝にいち早く向かうしかなくなってきているということです。
よく、「現行の排水設備の許容量を超えている・・・」という話を耳にしますが、このような現状のなか排水効率を上げるには、下水管をはじめとする様々な排水設備の口径を広げるということになります。
しかしながら、このような災害インフラ投資が現実的かといえば、膨大な予算が必要なことも含めて現実的だとは思えません。
ここで、着目しなければいけないのが、「降水量が増えたのか・・・」、「地表の高速道路化によって排水設備への流入量が増えた結果なのか・・・」ということです。
そこで、近年あらためて注目されつつあるのが、水の流れの高速道路化を防ぐためのグリーンインフラという考え方です。
このグリーンインフラという概念は、米国で発案された社会資本整備手法で、自然環境が有する多様な機能をインフラ整備に活用するという考え方を基本としており、近年欧米を中心に取組が進められているとされています。
日本国内では、平成27年度に閣議決定された国土形成計画、第4次社会資本整備重点計画で「国土の適切な管理」「安全・安心で持続可能な国土」「人口減少・高齢化等に対応した持続可能な地域社会の形成」といった課題への対応の一つとして、グリーンインフラの取組を推進することが盛り込まれています。
しかしながら、様々な学説や考え方による賛否が分かれる中、「我が国が直面する様々な課題を解決する上で示唆に富むもの・・・」というような方針に留まり、社会資本整備や国土利用等、国土交通行政分野における取組の方向性を示したものにはならず、都市部を中心に水の逃げ場のないコンクリートだらけの都市インフラ整備の方向性が続いているのが現状です。
近年の自然災害の多くは、「水」によってもたらされています。豪雨による洪水や土砂災害にしても結果的には水がどのように立ち振る舞うか・・・であって、コンクリートなどによる構造物で完全にコントロール可能なものであるはずがありません。
しかしながら、「コントロールできると思い込みたくなる・・・」のです。
その大きな理由の一つは、目先の利便性です。
モータリゼーションが進めば進むほど、舗装路の利便性が実感できます。「ホコリは立たないし、音もうるさく無い・・・、草も生えないから草取りしなくていい・・・、何よりも、車の動きもスムースだし汚れない。」未舗装であれば、全て真逆ですが、水の逃げ場は排水溝しかありません。
逆の視点で見れば、未舗装の場合は、「草も生えるけど昆虫も含めたいろんな生物が身近にいる・・・、マイクロプラスチックの原因の多くを占めると言われるすり減ったタイヤの海洋流出の減少・・・、地球温暖化までとはいかないが、ヒートアイランドの緩和にもつながる・・・」など、人間生活の利便性に対して生態系の持続可能性に寄与する部分が多いことも事実です。
これが、天秤の両端にぶら下がっているものだとすれば、もう少し足元の自然を大切にして一人でも多くの人が「ひと手間かける・・・」ことを惜しまない社会にしていくことで、水に関する災害についても少しずつ変化させていく可能性が残っていると考えることはできないでしょうか。
少し前に、大手企業が除草剤を使って街路樹を除去しようとしたことが話題になりましたが、その行為について多くの人たちが、利己的かつ身勝手な行動であると思ったでしょう。
さらに除草剤をつかうことで、「その周りの土もダメにしてしまう・・・」と感じた方もいたでしょう。
しかし、現実には表土が出ていれば雑草が繁茂します。その雑草の除去も大変な作業になりますし、場合によってはそれなりの経費も掛かります。
そのひと手間を誰かが担わない限り・・・、そのひと手間を掛ける意味を感じない限り・・・、「自然が有する多様な機能」を享受するグリーンインフラという考え方によって、持続可能性に近づくことは難しいのです。
地形によって降った雨や溶けた雪が水系に集まる範囲、または集水域とも呼ばれる地域を示す「流域」という概念がありますが、河川や池に対してだけに注意が行きやすいですが、ありとあらゆる水が、地形の高低差を利用して海に向かおうとします。
つまり、非常に広い範囲での保水力は地球というエコシステムにおいて重要な役割を果たしているのは、治水という視点においても同じことです。
山林の保水機能があってこそ、河川が存在するのと同じことです。
一時的な治水対策として、貯水タンクを利用することもありますが、そこには下水などから流入する細菌やウィルスに汚染された汚水を貯留することにもなりますので、衛生面でのリスクは否めないという現実もありますし、流入量の予測に誤りがあれば税金の無駄遣いにもつながってしまいます。
グリーンインフラという概念は、「自然環境を守る」という概念とはあえて一線を画し、「自然の機能を利用する」と考えることで、社会活動と環境保全の調和を目指す仕組みです。
それには、目の前の利便性を最優先するだけではなく、一人ひとりが「面倒な事・・・」に対しても少しずつ持ち出しをすることが普通になっていく事からなのかもしれません。
2024年08月09日
自然との関わり方をあらためて考える

コロナ禍の生活スタイルの中で、ソーシャルディスタンスという言葉がよく聞かれたのは記憶に新しいかと思います。そのような中、キャンプや釣りなどのアウトドアに関する楽しみ方に注目が集まり、「この機会に始めた・・・」などという方も多いのではないでしょうか。
「不要不急の外出を控えましょう・・・」という状況の中、多くの人がそのような状況を続けるのではなく、工夫した結果が、自然環境に身を置く・・・という選択につながったのだと思います。
そして、それが、リチャード・ループ氏が提唱した、「自然欠乏症候群」という考え方にもつながるような、行動変容のひとつだったのかもしれません。
リチャード・ループ氏は、ヒトが社会生活の中で、自然と遠ざかることの身体的リスクという視点から警鐘を鳴らしてきました。
その多くは、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚と言われる五感の衰えによる怪我や事故に対する対応力に関するものだったかと思います。長い人類史の中で培ってきた、五感を通じての自然との関わりを考えれば確かにそうなのかもしれません。
その一方で、ヒトが社会的動物である以上、五感も含めて身体が順応していくチカラも大切ですが、同じ種であるヒト同士の関わりである社会性という視点で考えてみることも必要なのではないでしょうか。
確かに、人類は道具を使うことで大きな進化を続けてきましたし、文化や文明も培ってきました。
しかしながら、技術や学問の進歩とあいまって、自然という空間に自身が身を置いた状況を考えた場合においても「何もかもが、お膳立てされている状態・・・」になりつつあります。
この「お膳立て・・・」には、便利な道具もあれば、場所を選ぶことの無いよう進化した食べ物などもその一つなのかもしれません。
その「お膳立て・・・」があることで、自分が置かれた環境のなかで、「身の回りのあるものを利用して乗り切るチカラ」という、社会的に大切なチカラを育む機会からは、現代の日常生活の中ではどうしても遠ざかってしまいます。
例えば、「電卓があるのに何故、算数を勉強しなければならないの・・・?」や、「スマホの自動翻訳機能を使えば良いのに、なんで英語を勉強しなければならないの・・・?」という問いと同じのように、あることが前提として、思考を巡らしていることに次第に気付かなくなっていることは無いでしょうか。
子どもの遊びも同じです、場所や道具をはじめとする様々なものを、周りの大人がお膳だてしてしまえば、人工的な環境下で遊んでいるのと同じになってしまいます。
自然の中では上下左右あらゆるところから「何か」が起きるということが当たり前の世界です。たとえば、虫が飛んできたり、足元も建物の廊下のように平坦なわけではありません。ひょっとすると蛇が出てくるかも知れません。常に周りに注意を払っていないと怪我や事故につながることもあるというようなリスクへの対応力だけではなく、自分ではどうにもならないものに対峙するチカラを養うことにつながります。
しかし、人工の構造物に囲まれた環境ではそのような注意を払う必要はなくなるだけでなく、身の回りの多くのものに対して、コントロール可能なものというような感覚に陥りそうになり、その感覚が行き過ぎてしまえば歪んだ万能感にもつながってしまうかもしれません。
「自然」はあるがままの姿そのものであり、長いタイムスケールを経て、あらゆる問題に対する答えを私たち人間に突き付けてきます。
気候変動や地球温暖化と言われるグローバルスケールの問題、種の絶滅や地域における様々な災害もその一つであるとともに、そのチカラの大きさからすれば、私たちの存在は小さなものに過ぎません。
種の絶滅や生態系の問題への解決手法に関しても食物連鎖の上位種を移入することで解決した事例はほとんどなく、むしろ新たなるより大きな問題に繋がっている事の方が多いという現実もあります。
つまり、自然は私たちの思うがままへの「お膳立て・・・」はしてくれないのです。
確かに、失敗しないためのお膳立ては大切なものなのかもしれませんが、そのお膳立てによって、失敗を知らなかったり、失敗をなかったことにする癖がつくことの方が、将来への大きなリスクに繋がります。
だからこそ、あるがままに答えを出す自然に対して、抗うことなく寄り添っていくチカラを育む・・・という意識をもって自然と付き合うということを大切にしていく必要があるのかもしれません。
2024年05月17日
治水と経済社会との関係を考える

現代における治水の概念は、川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムから、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込み、汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」に変化してしまったことは、富山和子氏が著書「水の文化史」でも言及している通りなのだと思います。
ここで、考えなければならないのが「何故、このような変化を多くの人たちが望んできたのか・・・」ということです。
確かに、身近な生活の利便性ということで考えれば、どこにいても安全な水が蛇口から出てくるという状況は、今や日常生活の中で手放すことのできない生活基盤を支えるもののひとつです。
そのためには、中山間部に生活している方はまだしも、都市部に生活している人にとって、身近な河川から取水し飲料水にするということは、衛生的にも科学的にも非現実的であり、遠く上流部のきれいな水を大規模なインフラ設備を利用することで、水の恩恵を得ることが出来ているという現実もあります。
日本では、江戸時代を境に城下町というまちづくりが盛んになってきました。そして、城を中心に多くの人たちが、生活ができるようなインフラ整備が進んできたのです。
その中でも、重要視されたのは物流であり、その当時、物流の主役であったのは河川を中心とした水です。このように水運と呼ばれるモノの流れができあがることで上流部から、食料や絹や綿などの衣食住に関わるものが集まるようになり、下流部に富が形成される・・・という流れが出来上がってきたのです。
そうなってくれば、その「富」を上流からの水害から守るために・・・、という発想が大きくなってきます。
そして、明治時代に入ると新たに鉄道という物流インフラが登場し、水運がどんどんすたれてきます。さらに、鉄道の敷設に伴う建設ブームも起き、木材需要の増加とともに山林の伐採が進み治水の元である治山もままならなくなってきます。
しかしながら、下流部の富の集中と鉄道への物流インフラの転換などの理由で、世界中の治水の基本的な考えの一つである、「川の緩やかさの確保・・・」という概念はなくなり、降水を一刻も早く、海へ流すための連続堤防方式や高水工事と呼ばれる大きな転換が起きてしまったのです。
そのような、水は河川敷内に閉じ込め海まで一刻も早く流すという考え方は、明治29年の河川法制定を機に決定づけられたとされています。
利根川を例にとって考えれば、東京という大都市圏の富を守るために、経済という取引のシステムのもと中山間地域の水、土、そしてその恵みの果実である農産物をさしだすことで成り立つシステムがすでにその時代に出来上がっていたと考えることもできます。
かつての氾濫原がコンクリートで固められてしまったいま・・・、都市部には、水によって肥沃な大地をつくり上げたり、土壌によって、水を浄化するという生態系本来が持っている基本的な循環機能は破綻してしまっています。
だからこそ、その機能が残っている中山間地域からの恩恵を得るしかないのです。
このような治水の影響は、海にも影響を与えています。
下水道が発達した現在では、河川から海に流れ込む水は、「荒廃した山から流れる水・・・」に変わりつつあります。かつての栄養豊かな水が育んだ海の恵みも漁獲高の変化という直接的な影響を与えつつあるなか、漁業従事者による山林での保全活動も増えつつあります。
確かに、人々は、生活の利便性を追求していく過程で、河川との付き合い方を転換し、河川敷付近での居住も含め、多くの富を手に入れてきました。
しかし、その決断は、「人間自身が様々なものを天秤にかけながら自ら下した・・・。」という認識を、自然災害の脅威が高まりつつある今だからこそ、考える必要があるのだと思います。
2024年05月10日
治水と環境の持続可能性について考える

防災・減災という言葉があちこちで言われる中、私たちの命を水から守るという考え方は重要な位置を占めています。そして、豪雨災害や台風、さらには河川の氾濫など様々な気象現象によってもたらされる水の脅威は直接的に私たちの生活に影響を及ぼします。
日本の治水の歴史を考えた時に、代表的な治水事業は利根川の事例です。
ご存知の方もおられるかもしれませんが、そもそも利根川は太平洋へ直接注ぐ川ではなく、現在の江戸川、中川筋を流れて東京湾に注いでいました。
そのために、関東平野は、荒川、利根川 渡良瀬川などの洪水が多く起きてしまう、不毛の低湿地だったとされています。戦国の世に豊臣秀吉が徳川家康を現在の首都圏である関八州に領地替えをし、そこに封じたのも関東平野がそうした不毛の地であったからだといわれています。
現在の利根川が関東平野を横断して、銚子まで東へ向かうその流路は、江戸時代の治水の足跡であり、江戸文化の象徴とも言われています。
そもそも、森林面積の割合が大きい日本の河川には、急峻で短いという特徴があります。
それゆえに、降り注いだ雨が、一気に海まで到達してしまうのです。その一方で、雨が降らない時には枯れてしまうことも多い「暴れ川」とも言われてきました。
その「暴れ川」の両岸に位置する比較的平坦で低い土地には、洪水時に河川が氾濫して流れ出した水が浸水してしまう氾濫原と言われる地域が広がるという特徴があります。
その氾濫原であるがゆえに、そこには豊かな水資源が約束され、その一方で、氾濫原であればこその水害が宿命的ではありましたが、日本人はその暴れ川を巧みに治めて、そこに独特な文化を築きあげ、主たる土地利用を求めてきたのです。
交通や水を中心に都市問題や環境問題に取り組んできた富山和子氏は、著書「水の文化史」で、「治水」について、「日本の近代化の基盤であり、同時に現代人と自然とのつきあいかたの象徴でもあった。治水を抜きにして日本の文化は語れないが、治水を見ればその時代の文化の体質は理解できる。治水とはそれほどに重い意味をもつ。」と述べています。
古くは、治水=川を氾濫させないための護岸工事ではなく、降った雨を土に返そうとする思想であったとされています。
かつて、武田信玄が霞提で、また加藤清正が越流堤で治水に卓越した技術を用い、洪水時に水を川の外へあふれさせることで、下流を鉄砲水の被害から救ったという逸話は現代にも語り継がれています。その考え方も、降水を可能な限り土に返し、あるいは土に留めようとするものでした。現在でも豊川河口域で残っている霞堤もその考え方による治水の一つです。
水の恐ろしさは、水の量そのものではなく、水の勢いによる破壊力と、濁りと共に流れ来る土砂になります。「治水は治山にあり」という言葉があるように、かつては、治水の一環として、森林や竹やぶは、あふれ出る水の勢いを弱め、同時に土砂を渡すために山の保全が明確に重視され、遊水林、遊水地、遊水田などを配することで、急流河川を、ゆるやかにすることが人々の生活を守る行為そのものだったのです。
また、水田も治水にとっては大きな役割を果たしてきました。
水田は、降水を貯える遊水地として・・・、さらに、その水は地下水となり、やがて下流へ流れ出て川の水になります。また、川から引いた水も、やはり地下水となり、川の水となり、その水は更に下流でも使われるのです。
これが、水を使わない畑作ではなく、水田だったからこその理由があるような気がします。
このように、水は水田を通じて川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムそのものなのです。
今日のように都市化が進み、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込んで汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」という水循環に変化していることに多くの人たちは気付いているでしょうか。
人々は、生活の利便性を追求するあまり、かつては肥沃な土の源になっていた氾濫原の土地を切り開いたり、河川の縁辺地に居住するようになり、現代における治水の概念は、水を河川敷の中に閉じ込める・・・という方向に大きく舵を切られています。
現在の中小河川の多くは、土砂の逃げ場がなく、放置することで河床に土砂が堆積してしまい、場合によっては、定期的な浚渫工事が不可欠となりつつあります。
その浚渫工事によって、もとに戻りようのない生態系の攪乱が起きている可能性があるのです。
また、水田には動植物含めて5,470もの種が存在するといわれています。
こうして、治水という視点で考えてみても、私たちの水との関わり方の変化の大きさは、生態系の持続可能性に大きな影響を与えていることを考える必要があるのかもしれません。