2025年01月10日
絶滅危惧種川ガキの再生とグリーンインフラ運動

「良い子は川で遊ばない・・・」という言葉を聞いた記憶がある方は多いのではないでしょうか、なるべく危険なところに近寄らないようにすることで、身の安全を守る・・・という意味では、確かに理にかなっているのかもしれません。
しかしながら、その発想が行き過ぎることで川のみならず自然から遠ざかり距離をとる・・・ことで、失ってしまうものは何なのかを考える必要があるのだと思います。
確かに、「安全・安心」や「個人の権利」も大切ですが、行き過ぎた責任回避にならないためのバランス感覚をそれぞれの個人が持ちうることが大切なのではないでしょうか。
都市部では、「子どもの声がうるさい」という理由で、幼稚園や保育園の園庭での遊びに配慮が必要だったり、ひどい場合には移転の検討が必要・・・という話までに発展してしまうことを考えると、発想の起点がその人にとっての正義感であったとしても「加減が解らず、折り合いをつけることが出来ない・・・」結果にも映ってしまいます。
このような状況に関して考えてみると、自然界では、昆虫にしても多くの哺乳類にしても、同じ種の間で互いに殺し合うような事は基本的にしません。
威嚇の段階で決着をつけることで、無駄に命を削らない・・・という習性を持ち合わせているということからすれば、私たちは自然から学ぶことが沢山あるのだと思います。
現在の世界各地で起きている様々な出来事を鑑みても、ヒト以外の種のほうが、「いい頃合い・・・」とか、「いい塩梅・・・」ということを理解しているのかもしれません。
お互いの着地点を見極めることなく徹底的に自身の主張を貫き「声を大きくしたものが勝つ」というようなロジックがまかり通るようになる・・・というような状況が当たり前になってしまうことは、未来を支える次の世代のためには、あまり良い社会とは言えないような気がすると同時に、「わがままのコストを善意で支える・・・」というような社会に近づいているような気さえしてしまいます。
我々人類は、かつて霊長類の仲間として自然の中で生き抜いてきました。本能ともいえる危機管理能力の多くは、その自然のなかで共存することで培われてきたと考えられています。
このように考えれば、「自然」というリアリティに触れるからこその良さは、人がヒトである以上必ずあるはずです。
「川ガキの再生」という考え方も単に、川で遊ぶ楽しさを・・・というだけではなく、自らが「自然」という壮大かつ本来もっとも身近である存在に触れることで、現代社会で多くの失いつつあるものを得て欲しいという気持ちも込められているのです。
自然と向き合う時間を積極的に多くとっていますと、気付くことがあります。それは、「自然界において人間が知っていることの方が少ない・・・」ということです。このことは、「学べば学ぶほど、世の中にはわからないことが沢山あることが解る・・・」というようなものです。
そして、何よりも自然と接していることで一番良い事は、「解」が無いということに対して平常心でいられるということです。「焦ってもはじまらない・・・」、「地道に続けていくしか方法がない・・・」ということをある意味思い知らされるからだと思います。
川ガキのようにいつも「自然」と近い関係を意識し続けられることは、「自然を愛する気持ち」を醸成してもらいたいだけでなく、白黒はっきりつけたり、「どっちの責任だ・・・」ということばかりに振り回される社会の中で、ネガティブ・ケイパビリティと言われるような「正解のない問題にも真摯に向き合えるチカラ」をつけていくことにもつながると考えているからです。
グリーンインフラという考え方による具体的な行動も、すぐさま結果の出ないことのひとつなのかもしれません。だからこそ、運動としての理念の共有と地道かつ継続的な活動が大切になるのです。
スローフード運動も同じですが、つねにそのような食材を食べるということではなく、「常に意識をしながら、なるべく・・・」ということが、長続きする秘訣であり、結果的に広がりにつながるという話を耳にしたこともあります。
「よい子は川で遊ばない」というメッセージには、「どうせやらかすに違いない・・・」という信頼関係の無さとしても読み取ることが出来ます。 このことは、次代を担う子どもたちの「答えのないものに立ち向かうチカラをそぎ落とすことにつながっているのではないでしょうか。
これは、大人たちのお互いを「頼れない」という状況にも責任があるのかもしれません。
頼るということは、恥ずかしいことではなく素敵なエンパワメントの一つであるという価値観が出来ていけば変化していくのです。
子どもたち自身も自らの意志で、未来のことを考えています。その意志を尊重し、そのチカラを発揮していくためには、まず大人自身が多くの人を頼り、そして子どもを信頼し・・・
結果に拘り過ぎずチャレンジするという姿を見せていく事からなのだと思います。