身体のチカラ › 社会を考える

2025年03月13日

プライベートライフの充実について考える




 ワークライフバランスという言葉を当たり前のように耳にする一方で、そのバランスの状況については、様々な現実があります。
 当然、それぞれの「大切にしたいこと…」が、ありますので、その大切にしたいことにかける時間や熱量もそれぞれ異なるのは当たり前です。
 しかしながら、自身の生きてきた社会的背景を他の人に対して押し付けるような、行為や態度となるとこれは別の話になります。

  「ワーク」ということで考えれば、「仕事のために生活をしているのではなく、生活のために仕事がある」ということについても、冷静に立ち止まって考えれば、当たり前と思う方も多いのかと思いますが、現実にはその二つの関係がつながらなくなってしまう方も多いのではないでしょうか。

 生きるためには働く必要がありますが、友人や家族、パートナーとの時間も仕事と同じくらい重要です。 人間関係には、仕事上の対人関係、交友関係、家族やパートナーとの関係の三つの関係があるとされていますが、この三つのどれか一つだけにエネルギーや時間を注ぐのは望ましくないと言われています。
 実際、友人や家族と過ごす時間を犠牲にしてまで働くことを良しとする人は少ないでしょうが、友人や家族と過ごす時間は減らせると考え、家族からの批判を承知で仕事を優先するという人もいるでしょう。

 この三つを両立させるのには、どうすればいいのでしょうか。

  「家族のために仕方なく働いているのだ」と考える人もいるでしょうが、そのような人は、仕事の時間を減らそうとすることのストレスと家族や友人との時間を天秤にかけた上で、仕事が忙しいことを友人や家族を大切にしない理由にしているとも考えることが出来ます。

 しかしながら、仕事の時間は調整可能です。 それができないと思うのは、一生懸命仕事をすることで「これだけ頑張ったのだから、たとえ結果を出せなくても仕方がない」と自分を納得させたいからということも言えます。
 また、始める前から、ネガティブなことを言ったりするのも失敗に対する不安を解消するための保険そのものなので、これも同じ心理状態と言えます。

 ワークライフバランスを考えた時に、大切なことはプライベートライフになります。そのためにも、一日の中で少しでも「プライベートな時間」を意識的に確保することが重要なのです。
 そもそも、 プライベート (private) という言葉の語源はラテン語の「privare」からだとされていますが、「奪う」という意味があります。
言い換えれば、 プライベートな時間は「奪い取る」必要があるのです。ただし、「仕事の時間を減らして、友人や家族との時間に「充てる」という意味ではありません。「自分のための時間」は、仕事の時間、友人や家族との時間から「奪う」のではなく、時間の「質」を変えることで「作り出す」ことが必要なのです。

 ワークライフバランスとは、仕事や交友関係、家族との付き合いにおいて時間とエネルギーのバランスを取ることを意味します。 しかし、それぞれを「ほどほど」にするのでは充実したプライベートライフにはつながりません。だからこそ、仕事中は仕事に集中し、遊ぶ時は仕事を忘れる。その「切替え」が重要なのです。

 例えば、「今晩、子どもの誕生日だから、家族と一緒に会食の予定がある・・・。」というような時は、前もって計画的に仕事を整理し、時間通りに終わるように段取りをするし、場合によっては、周りの仲間にも理解や協力をしてもらうようにするのではないでしょうか。

 大切な人や家族との時間を大切にしたいからこそ、スケジューリングを重要視する必要があるし、頼り…頼られる関係性としてのチームワークが必要となってくるのです。
 
 その一方で、単身赴任の上司が、子育て中や介護がある部下に対して頻繁に食事に誘うということがあるとします。このような状況は、「私は、大切にしたい相手は居ないから…関係ない」という人が、一定の権威をもって他者のプライベートに介入すると感じる場面もあるかもしれません。
 その結果チームワークはバラバラになり、チームとしてのまとまりは愚か、結果を出せないチームになってしまうのではないでしょうか。
もちろん、子育てや介護というような時期だからこそ息抜きしたいということもありますので一概には言えませんが、その息抜きをしたい相手としてふさわしいかは、普段の関係性によりますし、もし、仮に大切にしたい相手が居なくても…そういう想いを大切にしている人が居ることを認め、自身も未だ気付いていない存在に気づくキッカケにすれば良いだけなのです。

 ワークライフバランスの3つのアプローチにつながる動機としてのプライベートライフはもっとも大切にしないといけないもののひとつなのかもしれません。






  


Posted by toyohiko at 15:37Comments(0)社会を考える

2025年02月21日

機嫌と記憶の関係を考える




 かつて、ドイツの詩人ゲーテは「人間の最大の罪は不機嫌である」という言葉を残したとされていますが、普段、生活を送っている中で、平穏かつ機嫌よく過ごすということは意外に難しいものです。

 特に、機嫌についての周りへの影響力は、言語化されているものとは異なり、表情やしぐさ、さらには声のトーンなどの非言語的コミュニケーションと言われる要素によって周りに伝わるものであるとともに、コミュニケーション要素の9割以上ともされている影響力の強いものであることも大きく関係しているかと思います。

 そのためには、自分なりの上手なストレスリリースが大切なことは言うまでもありませんが、そのストレスリリースの手段として多くの方が使ってしまうのが、「愚痴を言う・・・」事ではないのでしょうか。

 今では、昭和と揶揄されてしまう飲みにケーションといわれるコミュニケーション手段についても、多くの人が、そのような場面が嫌いなわけではなく、「お互いの愚痴の言い合い・・・」や「上司の愚痴や自慢話を聞く・・・」場面というイメージが強くなってしまったからなのではと考えれば、愚痴というストレスリリースの手法も「聞かされる立場」という視点に立てば考え直す必要があるのかもしれません。

 多くの場合、会話の内容は、「悪いあの人」「可哀そうな私」「これからどうするか」の3つに分類できると言われています。

 この中の前の2つは、聞かされる方の立場からすれば、ただの愚痴でしかありません。そう考えれば、「聞かされている苦しい時間」でありますし、これがビジネスなどの課題解決の場面で多くなってしまえば、生産性の低下などに直結することは誰もが容易に想像がつくものなのですが、実際にはこの2つの話題に引きずられてしまうことが多いのも現実です。

 心理学博士でMP人間科学研究所代表の榎本博明によれば、「愚痴の多い人は、けっして嫌なことばかりを経験しているのではなく、良いことも経験しているのに、嫌なことばかり思い出してしまう心のクセを身につけている。」と述べています。

 このような傾向は、「落ち込みやすい人」にも当てはまると考えられ、記憶との付き合い方も含めた思考の癖に大きく関わっていると考えられています。

 つまり、「嫌なこと」を思い出すことで気分が落ち込み、そして気分が落ち込むと、その気分に関連する記憶を自然と検索するようになり、嫌なことばかりを思い出すという悪循環によって、更に気分が落ち込むという訳です。

 落ち込みやすい人の話は、他人からしてみると「よくもまあこんなにつぎつぎと嫌なことばかり思い出すものだ・・・」とあきれるほどに、ネガティブな出来事について繰り返し反芻しているという特徴があるとされています。
 その繰り返しの結果、自分は何をやってもダメだなあと自己嫌悪に陥ってしまったり、周りの人の言動に対して「責められている」と感じてしまうことで、周りに対して敵対的な態度や卑屈な態度になってしまうことにもつながり、「面倒くさい人」として映ってしまうこともあります。

 確かに、「面倒な人」になってしまうきっかけは、「面倒くさがられた経験」の結果によるところが多いために、すべてをその本人のせいにすることについては、異論もあるかと思います。

 とはいえ、このような経験をどのように捉えるかは、その人の意識次第とも言えます。この経験の記憶を過去のどのような記憶と紐づけるかが大きな分かれ道にもなるのです。

 例えば、客観的に見てかなり悲惨な目に遭っていると思われる人が、意外に明るい出来事を語るという経験も良くあるのではないのでしょうか。そのような人は、ポジティブな気分を維持することで、その気分に合わせて、ポジティブな出来事が想起されやすいし、ポジティブな出来事が記憶に刻まれ易いという好循環のサイクルを意識して回しているともいえます。

 このようなサイクルは、ポジティブな出来事を思い出すことで嫌な気分を中和する気分緩和効果と呼ばれており、心理学実験によって科学的にも実証されているというのです。

 まだ起きてもいないネガティブなことを想像することで、一歩を踏み出せないということは誰にでもあると思いますが、その一歩を踏み出さないことで、別のもっと大きなネガティブな結果を引き起こすリスクを想像することが出来なくなるということはよくあることなのかもしれません。
 しかしながら、その別の大きなネガティブな結果は、本人以外の多くの人には見えてることが多いため、次第に「口だけの人・・・」「変えたがらない人・・・」「なんでも反対する人・・・」というようにとしか映らないようになっていくだけでなく、そこに関わる人にも影響が及んでしまうという現実がある以上、周りからすれば「放っておいてはいけない問題」に発展してしまうケースも起きかねません。

 表情フィードバックという考え方があるように、思考と表情は同期し、「機嫌」という形で可視化されていきます。他人や過去は変えられませんが、過去の記憶との付き合い方である自身の「思考の癖」であれば修正していくことは可能です。

 むりやり、ポジティブに・・・という発想になる必要は無いと思いますが、「出来て当たり前・・・」から、「多くの人は、わかっていても出来ないことは、意外にも多く・・・、だからこそ、意識し続けるための工夫をしてみよう・・・」に転換していく事からスタートしていく事で「思考の癖」の修正の入口に立てるのかもしれません。




  


Posted by toyohiko at 11:42Comments(0)社会を考える

2025年02月14日

マイクロプラスチックとリーキーガット




 マイクロプラスチックに関する社会的な課題については、生物への影響というような生態系に関する環境問題から、人体からの検出事例の報告が上がり続ける中で、人体の影響に関する健康リスクへと広がりつつあります。

 日本国内においても、2024年2月に東京農工大学の高田秀重教授らの研究グループによって、人の血液から1000分の1ミリ以下の微細なプラスチックが検出されたという、国内では初めての研究事例の報告がなされています。

 海外では、既に脳をはじめ様々な臓器からのマイクロプラスチックの検出事例が報告されており、認知症をはじめ多くの疾患との関連性に対する研究も多くなり関心の高さが伺えます。

 高田秀重教授によれば、プラスチックは環境中で非常に細かくなっていくことで、「粒子を取り込んだ魚などの海洋生物の食事による摂取」、「大気中に舞っている粒子の呼吸時などの吸引」など、様々な過程を経て、体内に摂取されている可能性があると指摘しています。

 更に、「プラスチックに含まれる添加剤の中には、人の健康や生殖に影響を与えるような成分が含まれている。細かくなってマイクロプラスチックになっていくと簡単に溶け出して生物に取り込まれてしまうようになる。有害性の高い物質は今までも国際条約で規制が行われてきたが、プラスチックにはまだ有害性の検討が不十分な物質が無数に含まれている。このため、使用量と生産量全体の削減が非常に大事だ」とも述べています。

 世界では年間3億5300万トンあるとも指摘されるプラスチックごみですが、マイクロプラスチックということで考えれば、洗濯排水に含まれる微細な化学繊維片、走行する様々な車両にから排出される微細なタイヤ片など削減に対する課題が多いことも事実です。

 その一方で、多くの生物の消化器官には外界からの異物を取り込まないための仕組みが備わっています。嘔吐や下痢などの排泄の仕組みや消化管に集中している免疫システムなどもその一つです。

 一部の化学合成によって作られた人工添加物もそのような意味では、マイクロプラスチックと同様に、人体の本来持っているメカニズムによって体内に入り込み、血液中や様々な臓器に蓄積されることなく腸管バリア機能によって排泄されるという考え方もあるかと思います。

 そもそも腸管のバリア機能のなかに、腸管上皮細胞の隙間を密着させるという機能があるのですが、その機能に障害がおこることで、細菌や毒素が体内に流入してしまうことがあり、この現象を「リーキーガット(腸漏れ)」と呼んでいます。
 この「リーキーガット」は、皮膚や腸管などの組織に存在し、外部からの刺激や異物の侵入を防ぐ役割であるタイトジャンクション機能と言われる細胞同士を密着させる細胞接着のメカニズムによるバリア機能の不全ともいわれており、腸内細菌の乱れによっておこされているともされています

 このような、リーキーガットのような状態に陥ってしまうことで、外界からの異物であるマイクロプラスチックの体内への流入や蓄積のリスクも高まってしまうとすれば、必ずしも良いことではありません。

 このようなリーキーガットに陥る要因というものは、環境問題や食品に関わる様々なっ社会的背景によって、残念ながら高まりつつあります。その一方で、腸内環境を整えるような生活習慣を心掛けることで、リーキーガットのような症状の予防の可能性も指摘されています。

 これは、ちょうど宇宙空間での感性症予防について、無菌状態を追求していくことへの限界という課題に対して、宇宙飛行士の免疫システム低下への対策という視点を同時に取り入れ、その手段のひとつとしてプロバイオティクスを利用するのと同じ発想なのかもしれません。

 生活を取り巻く環境によって、様々な健康リスクが存在するとともに、一つ一つの要因が複雑に絡み合っています。

 そのためには、一つだけに対するアプローチだけでなく、出来ることを総合的に対処していく事が大切です。その方法のひとつに腸活を含めた腸内環境の維持向上によって健康リスクの回避につながるということであれば、今すぐにでも始められる予防手段につながるのかもしれません。



  


2025年02月06日

男性更年期障害と腸内細菌




 歳とともに更年期障害によってQOLの低下に悩んでいる方も多いのではないでしょうか、以前であれば更年期障害と言われるような症状は、女性特有のものとされていましたが、男性にも加齢やストレスによるホルモンバランスの乱れによって、更年期障害というような症状が現れるのはご存知でしょうか。

 順天堂大学医学部泌尿器科学講座の堀江重郎教授によりますと、男性の更年期障害では、テストステロンの低下により倦怠感、集中力の低下、不眠、筋力低下、体重増加などが生じ、また、精神面ではイライラ、不安感、落ち込みが見られるとされています。

 女性の更年期障害は閉経という遺伝的要因が大きいとされていますが、堀江重郎教授によれば、男性の場合、社会的環境の変化やストレスによる影響が大きく、退職、転職、社会的なつながりを失うことでテストステロンの低下を招きやすくなるというのです。

 また、症状についても個人差が大きく、まったく症状がない方もいれば生活習慣病やうつ症状などにつながってしまうようなケースもあるようなので、男性とはいえこのようなことが起こりうるということを認識しておくことは大切かと思います。

 また、動物実験の段階なので直接的な因果関係については明らかではないものの、一部の腸内細菌がテストステロンの分泌に関与しているという報告もありますので、腸内環境に対するアプローチも効果的な予防対策のひとつになる可能性もあると考えられています。

 現在の研究においては、様々な腸内細菌が産生するポストバイオティクスと呼ばれる代謝物質に注目が集まりつつあります。そして代謝された物質が身体のあらゆる機能を支えていたり、恒常性に寄与している可能性についても様々な研究が行われています。
 その様々な機能のひとつにホルモン物質の生成に関することもあるとされていることが、男性の更年期障害に対する効果と言われているのだと思います。

 また、有酸素運動や筋力トレーニングなどの運動を取り入れるような生活習慣の改善によって、テストステロンの自然な分泌を促すことも有効な手段のひとつともされています。

 とはいえ、社会的な要因が大きいとされていることからすれば、趣味やコミュニティへの参加がストレス軽減につながり、ホルモンバランスの維持には効果的であると考えることも出来ます。
 そして、社会的つながり=仕事という状態だけではなく、早いうちから地域コミュニティとの関係づくりや趣味などを通じた仕事以外の人間関係を大切にすることで、長い意味での自身の孤立につながらないような準備も必要なのかもしれません。

 男性の場合は、自分の身の回りのことが出来ないことに対して無関心な方も多い傾向があると言われています。
 
 その状態が、仕事中心の生活によって「偏った価値観でも不自由せず、周りの人たちが何とかしてくれる・・・という想い」からくるものだったとすれば、早いうちから、お腹の中の多様性のみならず、人間関係の多様性を意識しながら準備していく事も男性にとっての更年期障害の予防につながるのではないのでしょうか。


  


Posted by toyohiko at 14:52Comments(0)社会を考える

2025年01月31日

ポスト化石資源としての微生物の可能性について考える




 地球温暖化などの大きな要因といわれています石油などの化石資源について、一時は可採埋蔵量などという言葉があったように、持続可能性とは言えない枯渇性資源であるという現実があります。

 とはいえ、産業革命以来、産業の飛躍的発展や豊かな生活と呼ばれるような生活の利便性向上に対して大きな役割を果たしてきたことは紛れもない事実です。

 そのようななか、微生物などをもとにしたバイオ技術を活用することで、従来型の化石資源を利用しない形で製品や素材を循環させて利用するようなサーキュラーエコノミー型の持続可能性を模索する流れが進んできています。

 近年、ポストバイオティクスと言われるような、微生物の代謝物などの産生物質の活用によって従来の環境負荷型の製造方法を改善することでより効率的に、さらには安価に提供するような事例は既に多く存在しています。

 例えば、化粧品や食品などに利用されているヒアルロン酸についても、以前は鶏のトサカから成分を抽出することでしか手に入らなかったのですが、現在では、微生物を利用し、その代謝物などから生産が出来るようになることで、利用が広まったり、安価に提供できるようになった事例の一つです。

 また、近年注目が集まっています生分解性プラスチックの原料となっているステレオコンプレックス型ポリ乳酸もシアノバクテリアと呼ばれるラン藻が光合成の過程で産生するD-乳酸という物質を原料にしていますし、このD-乳酸の産生には、大腸菌などを利用する方法もあり、試行錯誤をしている過程と考えられています。

 神戸大学先端バイオ工学研究センターの蓮沼誠久教授によりますと、これらの事例のように、微生物を利用し、脱化石資源の方向性を示すことが可能になってきた大きなポイントは、AI技術などを融合することで、それぞれのゲノム情報の解析が劇的に早くなったと同時に、ゲノム編集技術によって効率よく精密な遺伝子操作が可能になったためとしています。

 また、洗剤や合成香料、樹脂と言われる素材や農薬など様々な製品の生成に必要だとされているフェノールにおいても化石資源からの生産に依存しいてるのが現状になりますが、フェノール生合成経路の遺伝子を導入することで、フェノール産生酵母株をつくり、その結果、フェノールを生産することに成功した事例もあります。

 そもそも、化石資源といわれる様々な物質も単なる経年変化によって生成されたのではなく、そこには多くの微生物と言われるような生命体が関わることで、現在、資源として活用できていると考えれば、改めて微生物たちのチカラを利用することで、地球資源や環境問題解決の糸口につながってくるのかもしれません。


  


2025年01月17日

身近な自然を知ることから始めよう




 絶滅危惧種や生態系の保全など、私たちを取り巻くヒトを含めた生態系に関する変化は、目まぐるしいものがあります。

 地球温暖化と言われるような気温の上昇によって、農産物や水産物にもいろいろな影響が出ていることは多くの方々がご存知かと思います。
 今年は、果樹を中心とした越冬したカメムシの被害や熊などの大型哺乳類の人間社会への影響もその一つです。

 生態系の変化は、自然環境だけのためではなく、農産物や水産物という視点で考えれば私たちの食糧の問題に直接影響します。そのためには環境の状況変化に合わせた個体数や種の変遷などの継続的な変化を把握していることで、はじめてその対処方法を考えることが出来ます。

 また、その変化の因果関係などを考えた時には、どのような情報が必要なのかもわかりにくいのが現状ですし、その因果関係につながる仮説力が非常に重要になります。

 そこで、多くの場面で行われているのが指標生物やその生息環境に関するモニタリング調査です。

 例えば、特定の種が「減った・・・」とか、「増えた・・・」というような状況についても、発言者の印象や感覚と言われるものによって、全体を判断するということは良くない事になりますし、こと、自然環境というような対策の影響に対する答えが長いタイムスケールでしか得られないような場面では、対策の判断が間違ってしまうことで、現状の課題がより深刻になったり、新たなる負の影響を導き出してしまう恐れすらあります。

 そのためにも、それぞれの環境に生息する指標生物やその他の可能性を持っている種の現状を的確かつ正確に把握した上で判断することが必要です。

 そして、その把握したデータを出来る限り外部に公開していく事で、色々な立場の人たちを巻き込んでいく事も大切です。その一方で、希少生物については、商業ベースの発想になってしまう方も多く、生息域の情報についても慎重な姿勢にならざるを得ないという現実もあります。

 とはいえ、生態系全体のことを考えていけば出来る限り全体を網羅するようなデータの蓄積は必要不可欠になります。

 そこで、新たな手法として期待されるのが、環境DNAを活用した生態系の把握です。

 環境DNAによる調査とは、海洋中や河川や湖沼などの環境中に溶け出した魚の糞や粘液などに含まれる生物由来の微量のDNAを抽出し、ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)と呼ばれる方法で増幅させ分析することで、そこに棲む生物種を知ることが出来るという方法です。

 更に、そこで検出されたDNAの量によって、そこの環境下での種の構成などが解るというメリットもありますし、生物から放出された環境DNAは長くて1か月ほどその環境中に存在するといわれていますので、時系列データとしての活用にも有効とされています。

 このような手法については、魚類や甲殻類などの大型のものについては、一定のノウハウを構築しつつあるようですが、小型の水生昆虫や植物、さらに藻類などは、これからの課題でもあるようです。

 よって、現在では環境DNAを活用した手法は、生態系の保全というよりも、食料としての水産資源の確保や現状食習慣の無いような種のマーケティングなど産業分野での可能性を模索しつつある中での活用が中心のようですが、「見えない世界としての水中」の様子がこうした技術を使って可視化出来つつあることで、より定量的な把握が可能になってくるということについては大きな意味があるかと思います。

 土、水、大気をとりまく生態系は、私たちにとって食糧の確保も含めて大切であり、一方的に搾取するだけでなく保全していかなくてはならない環境そのものです。
そのために、断片的な情報や声の大きい人たちの印象に引きずられてしまうことで、間違った判断をしてしまった結果への責任は、次の世代への責任と考えれば自らの判断も変化してくるものです。

 生態系の保全には、特効薬や起死回生の一手というような「これさえ、やっておけば・・・」という単純な答えはなく、一人一人の小さな日常の積み重ねの結果に他なりません。

 だからこそ、「さいきん、昆虫を見かけなくなった・・・」という印象を、印象だけで終わらせる事ではなく、話題にすることで、他の人たちと意見を交換したり、専門的な知見と照らし合わせることで、見えてくるものも多いと同時に、その経験によって、行動が変化していくことが大切なのだと思います。

  


2025年01月10日

絶滅危惧種川ガキの再生とグリーンインフラ運動




 「良い子は川で遊ばない・・・」という言葉を聞いた記憶がある方は多いのではないでしょうか、なるべく危険なところに近寄らないようにすることで、身の安全を守る・・・という意味では、確かに理にかなっているのかもしれません。

 しかしながら、その発想が行き過ぎることで川のみならず自然から遠ざかり距離をとる・・・ことで、失ってしまうものは何なのかを考える必要があるのだと思います。
 確かに、「安全・安心」や「個人の権利」も大切ですが、行き過ぎた責任回避にならないためのバランス感覚をそれぞれの個人が持ちうることが大切なのではないでしょうか。

 都市部では、「子どもの声がうるさい」という理由で、幼稚園や保育園の園庭での遊びに配慮が必要だったり、ひどい場合には移転の検討が必要・・・という話までに発展してしまうことを考えると、発想の起点がその人にとっての正義感であったとしても「加減が解らず、折り合いをつけることが出来ない・・・」結果にも映ってしまいます。

 このような状況に関して考えてみると、自然界では、昆虫にしても多くの哺乳類にしても、同じ種の間で互いに殺し合うような事は基本的にしません。
 威嚇の段階で決着をつけることで、無駄に命を削らない・・・という習性を持ち合わせているということからすれば、私たちは自然から学ぶことが沢山あるのだと思います。

 現在の世界各地で起きている様々な出来事を鑑みても、ヒト以外の種のほうが、「いい頃合い・・・」とか、「いい塩梅・・・」ということを理解しているのかもしれません。

 お互いの着地点を見極めることなく徹底的に自身の主張を貫き「声を大きくしたものが勝つ」というようなロジックがまかり通るようになる・・・というような状況が当たり前になってしまうことは、未来を支える次の世代のためには、あまり良い社会とは言えないような気がすると同時に、「わがままのコストを善意で支える・・・」というような社会に近づいているような気さえしてしまいます。

 我々人類は、かつて霊長類の仲間として自然の中で生き抜いてきました。本能ともいえる危機管理能力の多くは、その自然のなかで共存することで培われてきたと考えられています。

 このように考えれば、「自然」というリアリティに触れるからこその良さは、人がヒトである以上必ずあるはずです。

 「川ガキの再生」という考え方も単に、川で遊ぶ楽しさを・・・というだけではなく、自らが「自然」という壮大かつ本来もっとも身近である存在に触れることで、現代社会で多くの失いつつあるものを得て欲しいという気持ちも込められているのです。

 自然と向き合う時間を積極的に多くとっていますと、気付くことがあります。それは、「自然界において人間が知っていることの方が少ない・・・」ということです。このことは、「学べば学ぶほど、世の中にはわからないことが沢山あることが解る・・・」というようなものです。

 そして、何よりも自然と接していることで一番良い事は、「解」が無いということに対して平常心でいられるということです。「焦ってもはじまらない・・・」、「地道に続けていくしか方法がない・・・」ということをある意味思い知らされるからだと思います。

 川ガキのようにいつも「自然」と近い関係を意識し続けられることは、「自然を愛する気持ち」を醸成してもらいたいだけでなく、白黒はっきりつけたり、「どっちの責任だ・・・」ということばかりに振り回される社会の中で、ネガティブ・ケイパビリティと言われるような「正解のない問題にも真摯に向き合えるチカラ」をつけていくことにもつながると考えているからです。

 グリーンインフラという考え方による具体的な行動も、すぐさま結果の出ないことのひとつなのかもしれません。だからこそ、運動としての理念の共有と地道かつ継続的な活動が大切になるのです。

 スローフード運動も同じですが、つねにそのような食材を食べるということではなく、「常に意識をしながら、なるべく・・・」ということが、長続きする秘訣であり、結果的に広がりにつながるという話を耳にしたこともあります。

  「よい子は川で遊ばない」というメッセージには、「どうせやらかすに違いない・・・」という信頼関係の無さとしても読み取ることが出来ます。 このことは、次代を担う子どもたちの「答えのないものに立ち向かうチカラをそぎ落とすことにつながっているのではないでしょうか。

 これは、大人たちのお互いを「頼れない」という状況にも責任があるのかもしれません。

 頼るということは、恥ずかしいことではなく素敵なエンパワメントの一つであるという価値観が出来ていけば変化していくのです。

 子どもたち自身も自らの意志で、未来のことを考えています。その意志を尊重し、そのチカラを発揮していくためには、まず大人自身が多くの人を頼り、そして子どもを信頼し・・・
 結果に拘り過ぎずチャレンジするという姿を見せていく事からなのだと思います。


  


2025年01月03日

不安と共感を考える



「失敗したらどうしよう・・・」「人に嫌われたらどうしよう・・・」と言うようなことをいつも考えてしまうというようなことはありませんか。
 このように、まだ起こっていないことに心が囚われてしまったり、ストレスがかかるなど、潜在的なものに対する生体反応を不安と表現しています。

 老後の生活設計、自身の健康、今後の収入や資産の見通し、さらには、SNSの評判など・・・様々な要素の不安と常に隣り合わせでいるという感覚の方も多いのではないでしょうか。

 このような状況から逃れられないのは、ヒトには、「長期的な将来を予測」したり、色々と、想像を巡らせることで準備する能力そのものであるからで、これらは、不安要素をつくり出すという側面もあれば、その予測するチカラを使うことで進化を遂げてきたとも言えます。

 東北大学 河田雅圭名誉教授によれば、人の場合は他の霊長類と比較して、不安を抑える神経物質の放出量が少ないことで、不安を強く感じるようになっているそうです。これは、狩猟生活時代に捕食者から逃れられない不安を感じたり、食物を確保しなければという不安を増大させることで生存に有利な働きをしていたとも言われています。

 また、自身の危機管理能力の一つとして、不確かさに対して、不安を覚えるメカニズムが存在するとも言われています。不確かさについては、 ポジティブな面では好奇心、ネガティブな面では危険回避能力というような「不確かさ」が起因する2つの要因のなかでバランスを取りながら葛藤しているというのです。


 さらに、多くの霊長類にも「不安」という情動があるとされていますが、ヒトは他者の不安を、自分の不安として引き受けることが出来るというヒト特有の特徴をもつことで、社会形成の基盤にしてきたと考えられています

他者の感情に影響を受ける・・・といような情動によって、他者に対する「思いやり」を感じることができるという仕組みが脳の前帯状皮質に存在するそうなのです。

 京都大学ヒト生物学高等研究拠点 雨森賢一准教授によれば、前帯状皮質には不安に関わる24野と共感に関わる32野が存在し、ヒトは他の霊長類と比較して32野の領域が大きいことによって、他者の不安を自分の不安として引き受け、結果的に他者の感情に影響を受けるという特徴を持つようになったとしています。

 このように、脳の共感を司る部分が不安に影響をあたえるというような、不安と共感が相互作用することでヒトの意思決定に関わっている仕組みが存在することで他者と関係性において社会的コンセンサスを得るための重要な役割をしている可能性があるというのです。

 このような仕組みからすれば、人間関係は脳科学的にも大きな影響をもたらすことになります。

 帝京大学医学部精神神経科学講座 功刀浩主任教授は、そもそも100%確実なコミュニケーションというような手段は持ち得ないという前提がある中で、コミュニケーションの不確実さを理解しているということが相手に伝わることで、親しみにつながると述べています。

 そして、もっとも伝わるメッセージが、非言語的コミュニケーションである、会話の中での「間・・・」や、「考えているしぐさ・・・」だとしています。

 「間・・・」は、相手にとっては「考えている・・・」というメッセージとなり、その時間は「聴いているよ・・・」という明確なメッセージにもつながります。

 そして、「考える仕草・・・」は、「貴方のことを、ちゃんと考えていますよ・・・」「自分の考えを押し付けていません」というメッセージとして伝わるのです。

 「傾聴」という言葉がありますが、この二つの非言語的コミュニケーションは聴き手が相手の気持ちに共感しながら話を聴くことに対して、有効かつ具体的な手段の一つとして意識することが大切です。

 そして、「聴いているよ・・・」というメッセージが伝わることで、コミュニケーションが深まり、そこを起点に、「この人のことをわかろう・・・」という気持ちにつながっていきます。
 コミュニケーションがうまくいくかどうかの不安は大きいいっぽうで、その不安が相手に伝わることでコミュニケーションの潤滑油的な働きをしていくと考えることができれば、不安をポジティブに活用するということにもなってきます。

 不安が無ければ前に進めないし、前に進もうとするから不安があるということからすれば、不安があった時には、「自分は、何か新しい変化をしようとしている・・・」と考えることで、不安といい関係をつくることで、不安を燃料にすることもできるのです。
  

Posted by toyohiko at 19:44Comments(0)社会を考える

2024年12月26日

「責任」と変わりたくない心




 慣性の法則という言葉を聞いたことがあるかと思いますが、これは物理学の基本的な考え方のひとつで、「止まっているものは止まり続けようとし・・・、動いているものは、その方向も含め、動き続けようとする・・・」という自然界の基本的な法則です。

 この慣性の法則は、物理学の世界だけではなく人間社会の中でも数多くみられる現象であることはご存知でしょうか、「このままで大丈夫・・・」「このままの方が良い・・・」というような正常性バイアスや、「変わりたくない・・・」という変化への恐れなど原因は様々だとは思いますが、社会に於いても慣性の法則に似通った状況は多くの場面で見られるのではないでしょうか。

 「変わる」ということをのみを考えてみた時には、「変化のための変化」を信じて追及してしまうような状態も、「動き続けようとする・・・」慣性の法則に当てはまっているのだと思います。

 社会ということを考えた場合には、自身に関わる多くの事柄についてそれなりの責任がついて回ってきます。
 対人関係においても、相手が一方的に悪いということは少なく、双方の関係性によって成り立ってきますし、有形・無形の文化的価値や自然環境に関しても、水、土、大気・・・それに関わる微生物を土台とする壮大な生態系はお互い複雑に絡み合うことでバランスをとっていますが、誰かが整えてくれるものではなく、多くの人たちの行動の積み重ねによってはじめて成り立っているという意味では、自身も主体者のひとりであり、その責任を負う一人です。

 しかしながら、その責任負う一人として行動に移すことが出来る人は残念ながら少数派であることも現実です。

 正常性バイアスは、人間が健やかに生きるために必要な心のメカニズムとして、日常的な変化や新しい出来事に対して過剰に反応しないよう、心の平穏を保つ働きとして必要だとされている一方で、「現状で、大丈夫・・・」というような、多くの事態に対して過小評価してしまうというデメリットとして使われることが多い言葉です。

 こうした、「現状で、大丈夫・・・」という心理状態は、事態を真剣に捉えている立場からすれば、「変わりたくない心の持ち主・・・」に見えるのだと思います。
そして、その「変わりたくない心」は誰もが持っている心なのだと思います。

 しかしながら、自身の「変わりたくない心」に気付くことが出来る人はどのくらいいすのでしょうか・・・?
 その心に気付き向き合えることが出来る人はどれくらいいるのでしょうか・・・?

 自分自身はその心に気付けないとしても、周りの人たちは気付いていたり、気付いた人たりは、「変わらない・・・」態度に対して、モヤモヤ感を抱いていたり、「反対派」というような認識を知らず知らずのうちに抱いていることは多いのかもしれません。

 フランスの哲学者のジャン・ギトンは、目の前の仕事について、「天職」と「野心」に区別し、天職か野心のどちらに従おうとしているかを次のように問いかけるべきだとしています。

 野心は不安です。 天職は期待です。
 野心は恐れです。 天職は喜びです。
 野心は計算し、失敗します。
 そして成功は、野心のすべての失敗の中で最も華々しいものです。

 チーム人とって自身の果たすべき役割や責任を常に考えている人であれば、「この仕事を誰が引き受けてくれるか」と問われた時に、ためらうことなく「ハイ、私がします」と応えることができます。そのような姿勢で自らが取り組んだ仕事は、その目的に応えた「天職」になるとジャン・ギトンは説明しています。

 反対に、その呼びかけに応えたくないと思いつつ、他に引き受ける人がいないのでやむをえず引き受ける仕事は天職とは感じられないでしょう。しかしながら、積極的に仕事を引き受ける人が、自分の仕事を天職になるかと言えば必ずしもそうとは言えないことも現実です。

 野心が「不安」であり「恐れ」である最大の理由は、他者に認められようとする承認欲求です。
そのような人の使う「野心」という言葉は、自分をよく見せようとする、自分を大きく見せようする「虚栄心」からの言葉であることが多いために、「結果につながらないかも・・・」「認めてもらえないかも・・・」という不安にいつも苛まれているともいえるのです。

 自分が認められるためだけにした仕事の結果は、一見成功に見えたとしても実は失敗なのかもしれないということなのです。

 そのように考えれば、「変わりたくない心」は不安や恐れの表れであり、その「不安」や「恐れ」を悟られたくないという気持ちが、相手に対しての不敬な態度につながってしまうのであれば、責任のある行動としては周りの人からは見てもらえないという結果になってしまうのだと思います。

 本来の課題に向き合うことなく、相手に矛先を向けてしまうことでマイクロアグレッションと呼ばれるような自覚のない差別的行動や不敬な態度につながり、さらに分断という事態を引き起こしてしまうリスクさえあるのです。

 感情と行動をしっかりと区別した上で、自分とは異なる価値観や考え方を尊重し、相手の感情や思考を想像して上で・・・、

自分自身の態度や行動が、誰のためであるのか・・・
その行動が独りよがりでなく、周りの人たちとの意思疎通が出来ているか・・・
行動の結果、周りの人たちの「幸せ」にどのようにつながっているのか・・・

を、常に意識することで、「大きく見せたい故に結果への不安や恐れ」から少しでも遠ざかることが出来るのかもしれません。


  


Posted by toyohiko at 09:34Comments(0)社会を考える

2024年11月29日

マイクロプラスチックの人間の身体への影響を考える




 海洋中のマイクロプラスチックについての問題は、環境問題の一つとして取りあげられてきており、「鳥類や魚類の消化器官の内容物の中にプラスチック片が発見された・・・」というようなセンセーショナルな映像などが報道されており、大きな反響があったことなども記憶に新しい方も多いかと思います。

 近年では魚類などの水産物に蓄積された、ナノレベルの微細なマイクロプラスチックや、水中に溶けこんでいるものや大気中に浮遊しているものも存在してることが明らかになるにつれて、人類の健康問題へと変化しつつあります。

 そのような中、ニューメキシコ大学のマシュー・キャンペン教授が、「平均年齢が45〜50歳の正常な人の脳組織で確認されたマイクロプラスチックの濃度は1グラムあたり4800μgで、脳重量基準で0.5%だった」というような研究報告がなされたというのです。

 この報告は、マシュー・キャンペン薬学教授が率いる研究チームによって、2016年から2024年までニューメキシコ州アルバカーキの検死所で採取された人間の肝臓、腎臓、脳の前頭葉皮質の剖検サンプルを分析した結果、脳で発見されたマイクロプラスチックの量が他の臓器と比較して最大30倍の濃度が検出されたことによるもので、アメリカ国立衛生研究所を通じて公開されています。

 さらに、この研究チームによれば、アルツハイマーを含む認知症で亡くなった人々の脳サンプル12個を調べた結果、健康な脳よりも10倍多くのプラスチックが含まれていたことから、脳内のマイクロプラスチックの増加が、認知症発症率の増加と関連があることも示唆しています。
 
 近年、様々な研究報告でマイクロプラスチックなどが、人体の様々な臓器で発見されているというような事例も多くなってきました。

 このような現状に対する健康被害についても、センセーショナルに受け取り、反応することなく冷静に見守る必要があるのではないかと思います。

 既に、社会生活の中で我々は、多くのプラスチック製品の恩恵を受けており、切っても切れない現状にあります。そして、プラスチックの存在が悪いということではなくプラスチックが不用意に環境中に放出されることに問題があるという視点に立ち、課題を切り分けることが大切なのだと思います。

 現状での環境中のマイクロプラスチックの流出には、水が大きく関係しています。

 日常の洗濯による化学繊維の微小片を含んだ排水や、自動車や自転車などのすり減ったタイヤ片の排水溝への流入や粉じんによる大気中への飛散、そしてポイ捨てゴミの河川からの海洋への流出など・・・、自身が生活を送る中においても、ありとあらゆる日常でマイクロプラスチックの環境中への流出に関わっているのも現実です。

 また、ポリバケツの紫外線による劣化も環境中への放出のリスクの高まりと関係していることを考えれば、身近なプラスチック製品の保管や取り扱いも関係していることになります。

 最近話題になりつつある、水道水中のPFASの問題も人体への健康被害などの悪影響が叫ばれる中、汚染源の保管や処理の方法などの課題が表面化してきており、法整備が追い付いていないことなども指摘されています。

 更には、近年高まりつつある動物愛護の観点から広がる、天然毛皮からフェイクファーへの流れもマイクロプラスチックの環境中への放出という視点で考えれば、両者は両立しない関係であり、一つの答えに収束しにくい課題であるという側面も浮き上がってきます。

 プラスチックという既に社会生活に大きな恩恵をもたらしており、生活の中で切り離して考えることは出来ない存在に対する新たなる課題にどのように付き合い、対峙していくのか・・・というような社会課題は、身の回りも数多くあるはずです。

 このような課題だからこそ、一つの正解を求めるのではなく、正解のない問題として受け入れ、一人一人の行動変容を促しながら、分断や対立を煽るような事の無いよう・・・、お互いの立場を尊重しつつ、自身が出来ることを考え実行していくしか方法はないのかもしれません。