2025年02月21日
機嫌と記憶の関係を考える

かつて、ドイツの詩人ゲーテは「人間の最大の罪は不機嫌である」という言葉を残したとされていますが、普段、生活を送っている中で、平穏かつ機嫌よく過ごすということは意外に難しいものです。
特に、機嫌についての周りへの影響力は、言語化されているものとは異なり、表情やしぐさ、さらには声のトーンなどの非言語的コミュニケーションと言われる要素によって周りに伝わるものであるとともに、コミュニケーション要素の9割以上ともされている影響力の強いものであることも大きく関係しているかと思います。
そのためには、自分なりの上手なストレスリリースが大切なことは言うまでもありませんが、そのストレスリリースの手段として多くの方が使ってしまうのが、「愚痴を言う・・・」事ではないのでしょうか。
今では、昭和と揶揄されてしまう飲みにケーションといわれるコミュニケーション手段についても、多くの人が、そのような場面が嫌いなわけではなく、「お互いの愚痴の言い合い・・・」や「上司の愚痴や自慢話を聞く・・・」場面というイメージが強くなってしまったからなのではと考えれば、愚痴というストレスリリースの手法も「聞かされる立場」という視点に立てば考え直す必要があるのかもしれません。
多くの場合、会話の内容は、「悪いあの人」「可哀そうな私」「これからどうするか」の3つに分類できると言われています。
この中の前の2つは、聞かされる方の立場からすれば、ただの愚痴でしかありません。そう考えれば、「聞かされている苦しい時間」でありますし、これがビジネスなどの課題解決の場面で多くなってしまえば、生産性の低下などに直結することは誰もが容易に想像がつくものなのですが、実際にはこの2つの話題に引きずられてしまうことが多いのも現実です。
心理学博士でMP人間科学研究所代表の榎本博明によれば、「愚痴の多い人は、けっして嫌なことばかりを経験しているのではなく、良いことも経験しているのに、嫌なことばかり思い出してしまう心のクセを身につけている。」と述べています。
このような傾向は、「落ち込みやすい人」にも当てはまると考えられ、記憶との付き合い方も含めた思考の癖に大きく関わっていると考えられています。
つまり、「嫌なこと」を思い出すことで気分が落ち込み、そして気分が落ち込むと、その気分に関連する記憶を自然と検索するようになり、嫌なことばかりを思い出すという悪循環によって、更に気分が落ち込むという訳です。
落ち込みやすい人の話は、他人からしてみると「よくもまあこんなにつぎつぎと嫌なことばかり思い出すものだ・・・」とあきれるほどに、ネガティブな出来事について繰り返し反芻しているという特徴があるとされています。
その繰り返しの結果、自分は何をやってもダメだなあと自己嫌悪に陥ってしまったり、周りの人の言動に対して「責められている」と感じてしまうことで、周りに対して敵対的な態度や卑屈な態度になってしまうことにもつながり、「面倒くさい人」として映ってしまうこともあります。
確かに、「面倒な人」になってしまうきっかけは、「面倒くさがられた経験」の結果によるところが多いために、すべてをその本人のせいにすることについては、異論もあるかと思います。
とはいえ、このような経験をどのように捉えるかは、その人の意識次第とも言えます。この経験の記憶を過去のどのような記憶と紐づけるかが大きな分かれ道にもなるのです。
例えば、客観的に見てかなり悲惨な目に遭っていると思われる人が、意外に明るい出来事を語るという経験も良くあるのではないのでしょうか。そのような人は、ポジティブな気分を維持することで、その気分に合わせて、ポジティブな出来事が想起されやすいし、ポジティブな出来事が記憶に刻まれ易いという好循環のサイクルを意識して回しているともいえます。
このようなサイクルは、ポジティブな出来事を思い出すことで嫌な気分を中和する気分緩和効果と呼ばれており、心理学実験によって科学的にも実証されているというのです。
まだ起きてもいないネガティブなことを想像することで、一歩を踏み出せないということは誰にでもあると思いますが、その一歩を踏み出さないことで、別のもっと大きなネガティブな結果を引き起こすリスクを想像することが出来なくなるということはよくあることなのかもしれません。
しかしながら、その別の大きなネガティブな結果は、本人以外の多くの人には見えてることが多いため、次第に「口だけの人・・・」「変えたがらない人・・・」「なんでも反対する人・・・」というようにとしか映らないようになっていくだけでなく、そこに関わる人にも影響が及んでしまうという現実がある以上、周りからすれば「放っておいてはいけない問題」に発展してしまうケースも起きかねません。
表情フィードバックという考え方があるように、思考と表情は同期し、「機嫌」という形で可視化されていきます。他人や過去は変えられませんが、過去の記憶との付き合い方である自身の「思考の癖」であれば修正していくことは可能です。
むりやり、ポジティブに・・・という発想になる必要は無いと思いますが、「出来て当たり前・・・」から、「多くの人は、わかっていても出来ないことは、意外にも多く・・・、だからこそ、意識し続けるための工夫をしてみよう・・・」に転換していく事からスタートしていく事で「思考の癖」の修正の入口に立てるのかもしれません。
Posted by toyohiko at 11:42│Comments(0)
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