身体のチカラ › 2025年04月18日
2025年04月18日
デジタル化と伝えるチカラを考える

人手不足や生産性の向上という社会的背景の中で、ICTをはじめとするDXの推進は、学校教育の場面でも、新型コロナウィルス感染症という新たな脅威という背景もあり、GIGAスクール構想のもと子どもたちが授業の中で電子デバイスを使いこなしているという姿も普通のことになっています。
その一方で、スウェーデンのように学校教育のなかで、ICT活用の見直しをしはじめ、紙の教材を推奨し始めている国が出てきているという現実もあります。
このような技術革新の潮流と人間通しのコミュニケーションへの課題、さらにはそれぞれのWell-beingとのバランスの中で、新たな課題として注目されつつあるのが「言語化するチカラ」です。
現代の科学では、人間が言葉を使える能力を明らかにするため、MRIなどを使って脳の反応を測定し、科学的に検証していくことも可能になってきたようです。
東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授によれば、言語化するプロセスにおいては、まず見たり聞いたりといった「入力」があり、その入力を「想像」で補ったうえで「構造化」をして、「理解」や「記憶」と照らし合わせた「解釈」を行い、適切な「表現」によって「創造」をして言語として「出力」されると述べています。
言い換えれば、「想像」と「創造」という二つの要素が、言語化というプロセスに多大な影響を及ぼしているという事です。
ICTの向上により、様々なインターフェースの変化が出てきています。そこでの大きな変化は、パソコンをはじめとした電子機器の普及による、手書きとされる自身の手で文字を書くという行為があらゆる場面、あらゆる世代にとって少なくなってきていることです。
この「手書き」という行為について、酒井邦嘉教授は、「紙の手帳への手書きのほうが、紙と書き込んだ文字の位置関係など、書いた内容を思い出す際の手がかりが豊富であるため、記憶の定着に有利である。」と自らの研究結果を元に見解を示しています。
また、「使用するメディアによって記銘に要する時間が異なり、想起時の成績や脳活動に差がある」事にも着目した上で、手書きなどの行為に対して、自分の考えをまとめ、それを批判的に見直すだけの時間的な余裕があることを指摘するとともに、その効果について、そこで発生したタイムラグを利用することで、脳は内容を吟味し、理解し直し、表現を改めて創造的に出力するという検証を繰り返していると述べています。
例えば、自身の考えを伝えようとした時に、脳は内容を吟味し、理解し直し、表現を改めて創造的に出力するという検証を繰り返すとされています。
その際に、字数制限が先立ってやり取りするようなSNSなどは、脳にとって不自然な入出力となり、本来の解釈や表現という大事な過程がおろそかになってしまうと同時に、上手く伝わらないことがきっかけとなり、「決めつけ」の応酬につながるリスクも高くなってしまうというのです。
さらに、酒井邦嘉教授は、学生のレポート作成というような場面においても、日本語として整っているとはいえず、言語化するチカラの低下についての危機感を感じているとしています。
このことについて、少子化の中で自分の考えが間違っていることを指摘された経験が少ないという環境の影響の可能性も併せて、自分の文章を客観視して冷静に見直すという経験がないまま成長してしまったのは、小さい頃からのスマホやインターネットの利用なども無関係ではないとの指摘もしています。
物事を伝えるには、自分自身が「何をどのように理解しているかを確認・検証する」ことは欠かせません。言語化するチカラは、その「理解」を前提に構築されているからです。
しかしながら、現在のインターネットの世界では、AIの介入によって情報の偏在化がますます進み、総合的に物事を考えて判断する機会が少なくなることで、言語化する前提としての「理解」も浅くなってしまいます。
その結果、人の意見を聞いて譲歩したり、折り合いをつけたりするという意識も低下し、自己主張や他者への批判ばかりが強くなってくることで社会の分断にもつながってしまいます。
こうした傾向はすでにSNSにおいて、大勢の人がフェイクニュースに流されてしまったり、「言ったもの勝ち」のような投稿が散見されたりといった形で、既に顕在化しているという現状もあります。
「怒るは知恵のゆきどまり・・・」という言葉がありますが、アンガーマネジメントの世界でも「怒りやすい」ということと、「語彙の量」や「言語化するチカラ」には、大きな関係があることが判っています。
確かにデジタル化によって、社会に対して生産性の向上や効率化などの大きな恩恵をもたらしてくれています。しかしながらこの方向性によって損なわれる負の側面が「言語化するチカラ」という事なのであれば、相手との関わり方という社会を構成する大きな基盤を揺るがしてしまうことにもつながってくるのではないでしょうか。
だからこそ、「デジタルか、アナログか・・・」「インターネットか、オールドメディアか・・・」というような二者択一ではなく、社会の安寧を基本とした上での良い付き合い方を、今だからこそ模索していく必要があるのかもしれません。