身体のチカラ › 2025年04月
2025年04月25日
プロバイオティクスは子どもにも良いのか?

プロバイオティクスに関する健康効果については、多くの研究がなされており現在では、脳腸相関や脳腸皮膚相関など、消化器官に対する効果のみならずメンタルヘルスやスキンケアにいたるまで、人が生活していく上でのWell-beingに関わる多くの分野に対する研究が進みつつあります。
しかしながら、それらの研究についての多くの臨床試験の対象としてきた多くの事例は成人であるという現状もあります。
このように研究対象に子どもが少ないことの理由として挙げられるのが加齢による腸内細菌叢の変化です。
その人がもともと持っている常在菌のなかでも、ビフィズス菌を中心とした善玉菌と呼ばれる腸内細菌の割合が加齢とともに減少してくることは、これまでも多くの研究で明らかになっています。
そのような状況があることで、「プロバイオティクスの利用によって、その割合を引き上げ、その結果健康の維持増進に役立てる」というニーズの高さによる影響もあるのではと考えられます。
成人と比較して、便秘や下痢などの排便障害の少なさや、肌のハリや艶などの良さを比較してみても、「子どもには腸内環境に対する課題が少ないのでは、・・・」と考えてしまう傾向があると同時に、加齢による健康課題が山積している状況によって後回しにされている可能性も否定できません。
もう一つの理由については、子どもを対象とする臨床試験の場合には、保護者からの同意取得が必要であることや、多感な時期に便の提出を求めることが難しいなどの理由で、参加者を集めることが困難だということもあるようです。
しかしながら、便秘や下痢などおなかの不調を訴える子どもは国内でも多く、世界的に見てみれば、小児の栄養状態の改善が課題となっている地域も残念ながら少なくないという現状もあります。
このような中、子どもを対象にした、L.パラカゼイ・シロタ株を含むプロバイオティクス飲料の継続飲用に関する調査研究がありますので、ご紹介させていただきます。
この研究は、順天堂大学医学部とヤクルトの共同研究において、保護者から同意が得られた日本の健康な小児23名を対象とし、L.パラカゼイ・シロタ株400億個を含むプロバイオティクス飲料を6ヶ月間飲用してもらい、飲用開始前、飲用開始からの1、 3、 6ヶ月後、飲用終了6ヶ月後の計5回分の糞便を解析するという方法で行われました。
報告によると、そもそも小児の機能性便秘の発生率は0.7~29.6%という状況であり、その要因と考えられるものとして精神的ストレス、食習慣の乱れ、 小児虐待などがあることからしても、腸内細菌叢の変化は心理的ストレスの影響も大きく受けるために、臨床試験に協力してもらった子どもに対する精神的負担を最小限にするためにも子どもとその保護者、担当医師との信頼関係が大切であるという事からしても、十分な配慮の元で実施されたようです。
今回の報告で特徴的なのは、悪玉菌と呼ばれるウェルシュ菌の検出率について、飲用開始前には43%であったのに対して、6ヶ月間飲用後には7%と有意な減少を示したことに加えて、 腸内環境の指標である糞便中の乳酸や酢酸、さらには酪酸などの総有機酸濃度および酢酸度は飲用3ヶ月後から有意に上昇し、糞便pHは飲用6ヶ月後に有意に低下したという事です。
その一方で、飲用を終了して6ヶ月経過した後には腸内細菌を構成する菌の数や検出率、 腸内環境指標のすべてが概ね飲用前の状態に戻ってしまったという事も同時に示されました。
今回の報告によって、健康な子ども腸内細菌の構成は成人と同様に有害菌が一定の割合で存在すると同時に、プロバイオティクス飲料の飲用により改善した腸内細菌叢のバランスや腸内環境は、飲用をやめることで子どもの場合においても元に戻るという事が示されたことになります。
小児期においては、成人と比較して善玉菌の割合が多いとされてはいるものの、免疫システムそのものの構築において未熟なことや、成人と比べて基礎体力が低いために、感染症へのリスクも高く、急激な体調の変化に陥り易いとも言えますし、子どもの体調の変化は、周りの大人の生活にも影響を与えてしまいます。
今回の報告のようにプロバイオティクスの継続飲用によって、腸内環境を整え続けることが出来るという事であれば、日常のWell-beingのためにもプロバイオティクスの活用も有効なのかもしれませんね。
2025年04月18日
デジタル化と伝えるチカラを考える

人手不足や生産性の向上という社会的背景の中で、ICTをはじめとするDXの推進は、学校教育の場面でも、新型コロナウィルス感染症という新たな脅威という背景もあり、GIGAスクール構想のもと子どもたちが授業の中で電子デバイスを使いこなしているという姿も普通のことになっています。
その一方で、スウェーデンのように学校教育のなかで、ICT活用の見直しをしはじめ、紙の教材を推奨し始めている国が出てきているという現実もあります。
このような技術革新の潮流と人間通しのコミュニケーションへの課題、さらにはそれぞれのWell-beingとのバランスの中で、新たな課題として注目されつつあるのが「言語化するチカラ」です。
現代の科学では、人間が言葉を使える能力を明らかにするため、MRIなどを使って脳の反応を測定し、科学的に検証していくことも可能になってきたようです。
東京大学大学院総合文化研究科の酒井邦嘉教授によれば、言語化するプロセスにおいては、まず見たり聞いたりといった「入力」があり、その入力を「想像」で補ったうえで「構造化」をして、「理解」や「記憶」と照らし合わせた「解釈」を行い、適切な「表現」によって「創造」をして言語として「出力」されると述べています。
言い換えれば、「想像」と「創造」という二つの要素が、言語化というプロセスに多大な影響を及ぼしているという事です。
ICTの向上により、様々なインターフェースの変化が出てきています。そこでの大きな変化は、パソコンをはじめとした電子機器の普及による、手書きとされる自身の手で文字を書くという行為があらゆる場面、あらゆる世代にとって少なくなってきていることです。
この「手書き」という行為について、酒井邦嘉教授は、「紙の手帳への手書きのほうが、紙と書き込んだ文字の位置関係など、書いた内容を思い出す際の手がかりが豊富であるため、記憶の定着に有利である。」と自らの研究結果を元に見解を示しています。
また、「使用するメディアによって記銘に要する時間が異なり、想起時の成績や脳活動に差がある」事にも着目した上で、手書きなどの行為に対して、自分の考えをまとめ、それを批判的に見直すだけの時間的な余裕があることを指摘するとともに、その効果について、そこで発生したタイムラグを利用することで、脳は内容を吟味し、理解し直し、表現を改めて創造的に出力するという検証を繰り返していると述べています。
例えば、自身の考えを伝えようとした時に、脳は内容を吟味し、理解し直し、表現を改めて創造的に出力するという検証を繰り返すとされています。
その際に、字数制限が先立ってやり取りするようなSNSなどは、脳にとって不自然な入出力となり、本来の解釈や表現という大事な過程がおろそかになってしまうと同時に、上手く伝わらないことがきっかけとなり、「決めつけ」の応酬につながるリスクも高くなってしまうというのです。
さらに、酒井邦嘉教授は、学生のレポート作成というような場面においても、日本語として整っているとはいえず、言語化するチカラの低下についての危機感を感じているとしています。
このことについて、少子化の中で自分の考えが間違っていることを指摘された経験が少ないという環境の影響の可能性も併せて、自分の文章を客観視して冷静に見直すという経験がないまま成長してしまったのは、小さい頃からのスマホやインターネットの利用なども無関係ではないとの指摘もしています。
物事を伝えるには、自分自身が「何をどのように理解しているかを確認・検証する」ことは欠かせません。言語化するチカラは、その「理解」を前提に構築されているからです。
しかしながら、現在のインターネットの世界では、AIの介入によって情報の偏在化がますます進み、総合的に物事を考えて判断する機会が少なくなることで、言語化する前提としての「理解」も浅くなってしまいます。
その結果、人の意見を聞いて譲歩したり、折り合いをつけたりするという意識も低下し、自己主張や他者への批判ばかりが強くなってくることで社会の分断にもつながってしまいます。
こうした傾向はすでにSNSにおいて、大勢の人がフェイクニュースに流されてしまったり、「言ったもの勝ち」のような投稿が散見されたりといった形で、既に顕在化しているという現状もあります。
「怒るは知恵のゆきどまり・・・」という言葉がありますが、アンガーマネジメントの世界でも「怒りやすい」ということと、「語彙の量」や「言語化するチカラ」には、大きな関係があることが判っています。
確かにデジタル化によって、社会に対して生産性の向上や効率化などの大きな恩恵をもたらしてくれています。しかしながらこの方向性によって損なわれる負の側面が「言語化するチカラ」という事なのであれば、相手との関わり方という社会を構成する大きな基盤を揺るがしてしまうことにもつながってくるのではないでしょうか。
だからこそ、「デジタルか、アナログか・・・」「インターネットか、オールドメディアか・・・」というような二者択一ではなく、社会の安寧を基本とした上での良い付き合い方を、今だからこそ模索していく必要があるのかもしれません。
2025年04月12日
「それ良いね・・・」は、なぜ放置されてしまうのか?

様々な、会議やミーティングでのアイディア出しは、大変重要なことなので、そのための時間を設けてみたり、意見の出やすい環境づくりや関係づくりを心掛けているチームは多いのではないでしょうか。
その一方で、そのアイディアを具現化していくとなると一筋縄ではいかないのが現実です。
まずは、「誰がやるのか・・・」も含めた、5W1Hが明確になっていないことには、前には進むことが出来ません。
よくある「総論賛成、各論反対・・・」というか、各論の部分がよく理解されていないことも多いという状況も珍しくないのではないでしょうか。
つまり、具体的な段になった時に、「やるのは誰・・・? その中にはとりあえず自分は入ってないよね・・・。」というような思考になったり、積極的に取り組むことが、「格好つけて・・・」とか、「上に取り入っているのでは・・・」というように思われることを避けるために積極的に関わることを避けてしまうという事も考えられます。
金沢大学 融合研究域融合科学系の金間大介教授によれば、日本人は損得勘定を優先し、モチベーションなどの内的報酬に対して軽視する傾向が強いと指摘しています。さらに、本来は「人は与えてもらうときよりも与えることの方が、より強く幸福感を感じることが出来る・・・」ということを日常生活の場面で体感することが少ないこととも関係しているとも言われています。
そのような社会的背景もあり、積極的に「自分がやります・・・」という行為に対して、直接的ではないにせよ「偽善」という考え方が入り込みやすい状況にあるとも言えます。
つまり、「あんなことを言っているけど、本当は〇〇に取り入りたいために・・・」とか、「格好つけたいために・・・」と思われるのでは、というもう一人の自分にとらわれてしまうのです。
しかし「偽善」という言葉は、誰が使うのでしょうか・・・?
多くの場面において、この「偽善」という言葉を使うのは「やらない側」の人です。
言ってみれば、やっている人に対して何もやらない人が批判をするときに用いることが多いのではないでしょうか。
自分にとって都合のいい根拠らしいことを引っ張ってきて、事実をゆがめたり、他のことを混ぜ込むことで論点をずらすような場面もSNSが活用されるようになってきた現代社会においては、珍しいことではなくなってきています。
さらには、労使とか、富と貧困というような対照的な立場に対して、「持てる者」と「持たざるもの」というような図式を当てはめ、責任を押し付けあうというような現象も増えてきているような気もします。
そこのキーワードとなるのが「説明」という言葉です。「丁寧な説明」「納得のいく説明」「説明を受けていない」というような「説明」という言葉をつかった応酬です。
合理化を背景に、従来の慣習を「権力層への悪しき意図」という図式をつくることで批判をすることもできますし、その批判の根拠を科学的に証明できると無理やりに紐づけてしまうこともできなくはないという現実もあります。
そのような、説明についてもよくよく考えれば、「トンデモ理論」にも聞こえるところもあるが、物事には様々な側面があるがゆえに、必ずしもそうとは言えないという部分が残されてしまうということも現実です。
また、「やらない側」の論理として「言ってしまったもので・・・」とか「言われる(思われる)かもしれない・・・」という言い訳を挟み込むことで、本来の「これを進めよう・・・」という話を、「可哀そうな私」という話題へ転換し、相手との関係性の話や感情の話にすり替えてしまっているだけなのです。
言い換えれば、「言ってしまった・・・」本人が、自身の「言ったことに対する責任を取る」ということをしなければいけないし、実際に起こっていないのであれば、そのような心理状態は他人から見れば自作自演をしてしまう面倒な人・・・に映ってしまうだけです。
もちろん、物事はすべて「言ったとおり・・・」なるはずはありません。本来の目的に立ち返ってやり直すための責任を果たせばいいだけなのです。
アイディアを具現化するためには様々な知恵と工夫が必要です。ましてやチームや組織に関わることであれば、多くの人たちに関わってくるということは、ある意味当たり前のことになります。
ビジネスであればこそ、論理的かつ合理的に片づけてしまおうとするし、「仕事なんだから・・・」という合理的な説明のみをもって理解してもらえると思いがちです。
そうはいっても人間は数値やデータなどの理論のみで歓迎してくれるものでもないと同時に、感情のみでその人が持っている本来の責任を回避できるものでもありません。
「やらない善より、やる偽善」という言葉があります。「こう思われるに、違いない・・・」というような実体のない束縛にとらわれることなく、仲間を信頼し、向き合いながらまずは目の前のことから実行していく姿勢が一番なのかもしれません。
2025年04月04日
「人権」と「思いやり」について考える

「人権」とは、すべての人間が生まれながらに持っている、生存や自由、幸福を営むために必要な権利として認められるものであるとともに、貧富や社会的地位、社会への貢献度、人種、性別、国籍、出自、信条などの理由による差別について「許されないもの・・・」として考えられており、「差別」というものに対する考え方にもつながっています。
また、近年においては多様性についての尊重や承認についても、それぞれの異なる権利や自由に対する考え方について、ますます難しくなったと感じている方も多いのではないでしょうか。
そして、それぞれの自由や権利を求めていく先に立ちはだかるのが、対立や分断です。
なぜならば、各々が思い描く自由や権利は、そもそも異なるのと同時に、自身の置かれてる立場によっても見方や解釈に隔たりが出てしまうということは現実的に避けられないからです。
例えば、「自然の原風景をイメージしてください・・・」という問いかけによって、思い浮かべる風景が全く同じという事がまずないと考えることと同じです。
その風景に人が関わらない全くの原生林のような風景を思い浮かべる人もいれば、人の生活との調和としての風景、山林中心であったり、河川、さらには砂浜や岸壁のような海岸線を思い浮かべる人と・・・様々です。
自然の中で、何を大切にするかの違いが、生物種の優劣の選択につながり・・・いつの間にか、「優劣を決めたのは・・・社会を構成している人自身である」ことすらも忘れてしまい、雑草という言葉をつくったり、優勢思想や選民的な考え方に気付かぬままに・・・、「自然を大切にしよう・・・」「環境を守ろう・・・」という大きな枠組みだけを語って、合意形成したようになってしまっていることが多いからです。
人は、断片的かつ狭い関係性の中で、イエス・ノーを決めてしまう傾向があります。
その判断は、経験や知識、関わってきたコミニュティによって培われているものによりますので、それぞれのバックグラウンドを理解しようとする姿勢が大切になるのですが、各々のバイアスやコミュニケーション不足による解釈の違いを丁寧に取り除いていく事は難しく、残念ながら排除や差別にもつながってしまいます。
差別について言えば、差別的な考え方が問題になるのではなく、差別的な言動や態度が顕在化することで問題になるという現実があり、この二つの事象を混同することで複雑にしてしまったり、状況を歪めてしまいます。
確かに、差別的な考え方によって、そのような言動や態度につながるという事もありますが、生まれながらの慣習や周りに対する同調圧力によってそのような立ち振る舞いにつながるということが存在しうるという現実もあります。
他者はその人の思考に踏み込むことは出来ません。非言語的コミュニケーションを含めた、その言動や態度のみしか伝わらないものなのです。
しかしながら、自由や権利を求めた結果としての差別や分断を「思いやり」や「やさしさ」といった心の問題として捉えがちになってしまっている現実も一方ではあります。
「思いやり」などの心の状態を強調し、「弱者」への配慮こそが問題解決の唯一の手段であるというステレオタイプに陥っている方も多いのではないでしょうか。
義務教育における道徳教育の教材には、障害者が登場する場面もありますが、そこでは、いつも、障害者は、健常者が「優しくしてあげる」対象として描かれています。
そして障害者は、その「優しさ」に対してお礼を述べ、ある場合には「ご迷惑をおかけします」とも発言するという記述が多く、「障害を克服しようとがんばる姿」や、「障害者が、自らの権利を主張する」などといった場面は非常に少ないと言われています。
そのような結果、「思いやり」の精神によって庇護のもとに置いてきた「弱者」自身が、自らを弱者に追い込んだ社会を批判し、権利を主張していくことに対して、どう受け止めるでしょうか。
おそらくは、そのような権利の主張を否定的に捉えていく可能性は捨てきれません。つまり、「・・・のために」行ってきたものを、取り返そうとする心理が働き、その代償を求めることが当たりまえになってしまうという事です。
「貴方のためを想って・・・」の顛末によって、対立的な関係になってしまうことを多くの人が経験していることと同じです。
このような心情に訴える考え方による問題解決は、現状の課題解決において構造的課題は不問に付され、温情主義的な方法がよしとする風土が醸成されていってしまいます。
このような傾向は、「強者」が「弱者」に対してもつ圧倒的な力関係を問題にされる事がなくなり、結果として「思いやり」によって、差別を温存させるという指摘もあります。
そもそも、自身にとっての自由や権利は、目指すものや価値観が多様であるという現実がある以上、一方的に誰かに与えてもらうことは不可能と考える必要があります。
もし、自由や権利を他者から享受されるものとして、自らつかみ取ることを放棄してしまえば、その先のあるのは権威的な立場による一方的なルールや抑圧です。
差別やそれに伴う分断と呼ばれるものは、個人的な「人間関係」を超えた、より広い社会関係の中で起きています。しかしながら「狭い関係性」にばかり注意が集まってしまい、その関係の中に、社会的に仕組まれたより広い構造的課題が凝集しているのではないか、と考えることができなくなってしまうことは社会にとって大きなダメージとなって降りかかってきます。
差別は、その人に思いやりの心があろうがなかろうが、社会的関係性の中で起こっています。
それを心の問題にしてしまうことで、「私はこれまで差別なんかしていない」とか「差別するつもりはなかった」などという言葉が横行し、それ以上、考えを進めていくことができなくなってしまいます。強制的に社会的な不利益を強いる「差別」問題を、「差別心」の問題にすり替わってしまう懸念さえあると考える必要があるのかもしれません。
自由や権利について考えることは、「人が自らの権利を知り、権利の主体として、それを実 現するために行動」することであり、それによって人間性の回復や、社会の変革につなげていくとも考えることが出来ます。
言い換えれば、構造的に問題を把握し、お互いの利害受け入れた上で「対話するチカラ」がなければ解決の糸口にすらたどり着けないのだと思います。
言うまでもなく、人間が社会生活を営んでいく上で、道徳性や倫理観が大切であることは多くの皆さんが、理解していると思います。しかしながら、そのような性善説のみでなく、人間には様々な弱さと同居しながらバランスをとっているというような性弱説的な考え方を取り入れたものの見方がますます必要になってくるのかもしれません。