2017年12月10日
モチベーションとアンガーマネジメント

組織においても、個人において「やる気」や「モチベーション」というキーワードは、色々な場面で良く意識される言葉の一つです。この「モチベーションを上げるためにはどうしたら良いのだろうか・・・」ということも多くの人たちの関心ごとであるのも事実です。
まず考えてみたいのは、「モチベーション」の責任は何処にあるのか・・・?という問題です。
そもそも、「モチベーション」というのは、「個々のやる気」なので、個人にあると考える人も多いと思います。例えば、学校の入学試験や各種資格試験の様なものについては、試験の結果というものが、個人に直接降りかかってくるということも含めて、個人にあると考えることもあながち間違いではないというように考えることもできると思います。
「もっと、やる気を出しなさい。」というフレーズに対して、多くの人が違和感を感じないということも、「モチベーション」の責任は個人にあるという考え方が多くの人にあるという証拠になると言えるのかもしれません。そもそも、「やる気を出しなさい」と言われたからと言って、簡単にモチベーションが上がらないというもの現実ですし、むしろ、その一言で下がってしまう人の方が多いのではないのでしょうか。
何らかの行為における結果というものは、「個人にのみ降りかかる・・・」というケースは少ないという現実から考えたときに「モチベーション」の責任は個人にあるという考え方で大丈夫なのだろうか・・・?という疑問がわいてくる方も少なくないと思います。
人々は互いに関わり合いを持ちながら生活をしているという現実がある以上、一定の社会性や規範意識というものを必要としてきます。つまり、個々が自由奔放にふるまうことで、感情的に傷ついたり、傷つけあったりしてしまうようなことは決して望ましいことではないからです。
だからこそ、一定の社会性や規範意識を保つための基準や方向性を示す存在が必要となってきます。
学校や会社組織の場合に於いては、校則や就業規則というものがありますし、国家にも法律というものが存在しますので、その規則を守らせるということも必要になってきます。
しかし、実際には「決められたことは、しっかり守りなさい・・・」と言えば、全てうまく行く・・・ということにはならないということも多くの人が知っている事実です。
多くの場面で、「云い聞かせても出来ないから、もっと言う・・・」更には、感情をむき出しにしたり、暴力に訴えることで、事態が解決すると思ってしまうケースも少なくありません。
Helping Children Succeed(ポール・タフ著)の一説に、興味深い調査結果が紹介されていましたので紹介します。1980年代のアメリカの話ですが、この時代は、暴力やドラッグなどの非行に対して「一切、許容しない(Zero tlerance)」という態度で臨むことで、学校の安全や効率が守られると信じていました。しかし、その「一切、許容しない」という方法で運営した結果、学校内で停学の件数が急激に増加したというのです。
また、インセンティブに関わる調査も行われているようで、ハーバード大学の経済学を研究しているローランド・フライヤーが生活環境の中で強いストレスの影響を受けてきた若者に対して、生徒に対してのインセンティブも、教師に対するインセンティブもプラスの成果につながるという明確な結果には結び付かなかったとしています。
この二つの事例は、組織におけるモチベーションマネジメントを考える上で、今まで多くの人たちが「普通」として考えられていてことに対しての常識が覆す結果になったという意味でも非常に興味深い結果であったと思います。
むしろ、マネジメントする側が、「規範」を保つことや、「やる気」にうまくつながらないことに対する「怒り」を正当化してきただけ・・・なのであればマネジメントする側の意識を根本から考えなおす必要があるということになります。
近年、注目されつつある人の「非認知能力」を育てるのには、周りに自己貢献感を持つことができるような人的環境が大切といわれています。
人間は生命の危機と向き合うために、すべての人が「怒り」という感情を持ち合わせています。この「怒り感情」は、危機という非日常のためにあるのであれば、その感情の意味を理解しながらうまく付き合っていくことの方が、モチベーションにつながるのかもしれません。
Posted by toyohiko at 08:07│Comments(0)
│社会を考える