2018年05月19日
「やる気」の責任と家庭依存社会

「やる気」というのは、物事を進める上で非常に大切なものとして常に大きなテーマとして考えられている言葉の一つです。
この「“やる気”の責任はだれにあるのか・・・」という問題にあえて触れていきたいと思います。
従来では、「やる気」の責任は、それそれの「個」にあるという前提で考えられてきたのでは・・・というのが一般的だとされています。その証拠に、「もっとやる気を出せ・・・」、とか「やる気無いんじゃないの・・・」という言葉で、他者の「やる気」の高揚に対して、促したり、更には叱責することによって何とかしようということをやり続けてきたという現実があります。
また、それに対して、多くの人たちがあまり疑問を持つことなく来たということが、日本社会において、「やる気の責任は個人にある・・・」という背景を裏付けているような気がします。
しかし、近年になってその価値観がしっかりと機能しにくくなっているというような話を耳にすることがあります。
特に学校や会社等の組織の様な、一定の成果をスピーディに求められるところにとっては「みんながやる気になってくれない・・・」という課題が浮き彫りになってきているようです。
このような状況の中では、「やる気の責任はだれにあるのか・・・」ということではなく、「やる気の高揚がなされずに達成されなかった目標の責任は誰にかかってくるのか・・・」という考えかたが必要なのだと思います。
ここで大切なのは、その目標、目的の達成について「個人」と「組織」に於いて責任を負うべき相手が違ってくるということです。
当然、、「個人の目標」については、その個人以外に責任が負えない事が多いので、当然、「やる気の責任」も個人が負うことなります。
つまり、触法的なものに関わること以外は他人がとやかくいっても、その「やる気」は変わり難いものになりますし、本人にとっては、「自分なりに、やる気を持ってやっている・・・」ということになり事もふくめ、結果についての責任も自分自身が負うということになり、ある意味、「自己完結」します。
しかし、これが「組織の目標」となってくると少々、ややこしい話になります。
つまり、結果についての責任については「組織」そのものが負うことになります。とはいえ、その組織を構成する一人ひとりの、能力や価値観は異なるので、その目標についての「やる気の温度」がまちまちになってしまうという結果が出るのは、ある意味当然とも言えるのかも知れません。
このバラバラになっている「やる気の温度」を、「個人で合わせてくれなければ困る・・・」というのが、今までの考え方なのだと思います。これが、結構難しい作業で、温度の高い人に合わせても、低い人に合わせても、「合わせなさい・・・」というやり方では成果に結びつかないどころが、それぞれの立場で、違和感を覚える人が出たり、「個としてないがしろにされた・・・」と思う人が出やすい環境が出来てしまいがちになります。
従来のように、経済成長が明確に見込まれていた時代であれば、成果配分というインセンティブで、ある程度けん引していくことが可能だったかもしれません。これには、「経済」という単一的な価値観の共有が前提となるために、多様な価値観を考えた場合に於いては様々な課題が顕在化してくるような気がします。
今までの、日本社会に於いては、男性中心のビジネス社会を家庭が、とりわけ女性が支えるべき・・・という強い価値観が社会通念として多くの人たちが疑問を持たずにきたという経緯があると思います。
そのような社会に於いては、「経済発展のためには、個人としての多少の犠牲は問うことなく、最善を尽くすべき・・・」というような「家庭依存社会」の考え方が主流になっていましたが、「女性活躍」、「働き方の多様性」というようなキーワードが重視されるような現在では次第にうまくいかなくなってくるようなきがします。
「個人の価値観」を重視していくような社会に於いては、組織にとっての目標達成に対する「やる気」の責任は、次第に組織そのものに移行しつつあるとも言えるのです。
そこで、新たなキーワードになるのが「個の尊厳」ということになるのではないのでしょうか、今までのように「やる気」というものを「個の犠牲」で支えるという仕組みは現在の様な低成長成熟社会に於いては通用しなくなってきた・・・というのが現実なのかもしれません。
組織を構成する「個」をないがしろにしたり、違和感を残した状態で「目指す姿・・・」に向かうのが非常に難しいことなのだと思います。これは、家族や友人同士、更に学校・会社等・・・ひいては国家という大きな枠組みに至るまで、大切にしていかなくてはいけない事の様な気がします。
Posted by toyohiko at 16:37│Comments(0)
│社会を考える