2018年08月04日
あらためてコミュニケーションを考える

ここ数年、「コミュ力」という言葉などで、社会おいて必要な能力の筆頭にあげられてきたのがコミュニケーション能力です。その一方で、「コミュニケーション能力って具体的に何ですか…?」という問いに対して、明確な答が無いのも現実ではないかと思います
コミュニケーションとは、本来、それぞれの関係性においてどのようにイニシアチブを取るか…というような戦略的な側面が大きいとされています。
更に、詳しく分類していくと「言語コミュニケーション」と「非言語コミュニケーション」の大きく二つに分類されているのですが、言語そのもののコミュニケーションに対する割合ほ、一割程度しかないとも言われています。
あとの9割は、何かと言いますと「顔の表情」「態度」「声のトーン」と言われており、話の内容そのものが伝わる確率は、そもそも低い…と考える必要があります。
しかし、良く考えれば人間を除く多くの生き物は、非言語の世界でコミュニケーションをとっていることからすれば「非言語」の世界は、コミュニケーションの上でもう少し見直されなければならないことなのかもしれません。
とは言え、人間社会において「何を伝えて、どのようにしたいのか…」というコミニティを動かしたり、支えていくことにおいて、言語の世界は「伝えたいこと」そのものになるので、伝わる割合以上に重要なものである問うことも考えていく必要があります。
社会学の世界では、コミュニケーションの中で大切な要素が三つあると言われています。
その三つが「真実性」「道徳性」「誠実性」です。
まず、「真実性」ですが、当然「虚偽では無い・・・」ということにはなりますが、世の中には「嘘じゃ無いけど、本当とは言えない…」というような情報が飛び交っているのも事実です。「曖昧な事を、さも事実の様に話す人…」を苦手だと思う人が多いのもこのようなことからきているのかもしれません。
次に、「道徳性」ですが、個人的には道徳をどのように捉えるかは、非常に難しいと思います。なぜなら、道徳という言葉には、理念とか信条という個人的な要素が介入しやすいからです。
道徳には、それぞれ段階があり、第1は、「人に教えられたことを罰則によって守る」、第2の段階は、「罰則が無くても、人に教えられたことを守る事が出来る」、最終段階は、「状況を客観的に観察し、自分と他人を同等に扱うことが出来る」の三つに分けられると考えることが出来るようです。
これらの事から考えても道徳は、理念や信条よりも規範意識や、他者の感情を考えるチカラなのかも知れないと思ったりします。
最後に「誠実性」ですが、先ほどの、「真実性」という言葉との対比で、考えれば「安全」と「安心」の関係と良く似ているような気がします。
つまり、「安全」というハードウェアも含めて絶対に担保しなければいけないものに対して、その状態を支えたい…という人の心としての「安心」です。世の中には、「安全なのはわかるけど、安心できない…」という感情が出てしまう事があるのも、「安全」と「安心」のバランスが悪いからであり、「真実性」と「誠実性」との関係も同じなのかもしれません。
とはいえ、コミュニケーションは、それぞれが戦略性をもち、いわゆる「駆け引き」のような側面があるのも事実です。
その時に、大切にしたいことは「納得感」だと思います。
この言葉は、多くのコミニティにおいて思いの他、「ないがしろ」にされたり、自分自身も「ないがしろ」にしてきたのではないのでしょうか。
当然、全ての事が「自身の思い通りになる」ということはありません。しかし、結果として納得感のあるものであるかは、これからの自分自身や組織にとって大変重要なことになるはずです。
そうして考えれば、自分自身の納得感の為に、コミュニケーション能力を研いてみることが大切なのだと思います。
Posted by toyohiko at 07:43│Comments(0)
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