2018年08月11日
ファミリーサティスファクションという考え方(Ⅲ)- 子どもを預ける理由を考える -

近年、「待機児童」の話題が色々なところで出ていますが、そもそも待機児童というのはどのような状況を言っているか…ということなど、一般的に考える「保育」という概念と行政などの専門家の考える「保育」との違いについて考えてみたいと思います。
普段、「保育」と「託児」の違いですらあまり考えないというのが普通だと思いますが、託児の場合は、比較的広い意味での「子どもを預かる…」という感じで考えても大きな誤りは無いと思いますが、保育となりますと、はっきりとした定義があります。
「保育所は日々保護者の委託を受けて、保育に欠けるその乳幼児又は幼児を保育することを目的とする施設とし、保育所は前項の規程にかかわらず、特に必要がある時は日々保護者の委託を受けて、保育に欠けるその他の児童を保育することが出来る」というのが児童福祉法第39条で規程されています。
つまり、保育は、「一定の規定に従いその事由に合う条件の子どものみを預かる」場合を指すということになるのです。
その事由が、「保育欠ける理由」という形で以下のように細かく規定されてます。
昼間労働することを常態としていること
妊娠中であるか又は、出産後間がないこと
疾病にかかり、若しくは負傷し、又は精神的若しくは身体に障害を有していること
同居の親族を常時介護していること
震災・風水害・火災その他の災害の復旧に当たっていること
全各号に類する常態であること
のいずれかに該当し、かつ同居の親族などがその子供の保育が出来ない場合・・・ということになりますので、現状、それ相応の理由が必要ということになるのです。
現在では、法改正で「保育を必要とする」になり、求職中の場合も含まれることになったり、在宅ワークや様々な社会変化に対する対応も進んできているようですが、いずれにしろ就業や、子ども自身の状況を中心に考えられており、厳密な条件があることには大きな違いは無いようです。
その一方で、「子育ては本来家庭で行うもの・・・」という社会規範意識のなか、24時間365日という子育ての現状に疲れを感じたとしても、その気持ちに対して寄り添ってくれる人が周りにいない・・・という孤立感を持っている母親が少なくないという現実もあると思います。
さらに、その孤立感から「虐待」など、子ども自身の尊厳を損なうような事態に発展してしまうようなことはあってはならない事のひとつとして考えなくてはなりません。
もちろん、保育の場合には、補助金な助成金などの形で税金を使っているという性格上、その使い道において多くの人たちが理解を示すという公平公正の原則も大切です。
また、現実のことを言えば、預かる理由なしに「子どもを預かって欲しい・・・」という人がいるのではなく、自分自身の後ろめたさなど様々な理由から「理由を言いたくない・・・」と思っている人たちが、多く存在するという考え方が必要なのではないかと思います。
さらに、その「理由を問いただす・・・」という行為そのものが、保護者を追い詰めるということにつながるということになるのであれば、「何のために、理由を聞く必要があるのか・・・」ということに対して、もう一度考え直さなければならないと思います。
少なくとも、「税金が使われているから・・・」という理由だけではあってほしくないという気持ちです。
「子どもの尊厳」の事を考えれば、子どもを取り巻く周りの大人の尊厳が守られていなければ、子どもにとってもいい結果にはならないということは多くの方たちが理解できると思います。
しかし、その一方で、チルドレンファーストの名のもとに当事者もその周りの人たちも自分自身の尊厳というものをあまり考えずにきているということもあるのではないのでしょうか。
そういった観点から考えると、「子どもを預かる理由」という一つの問いについて、保育の話だけでなく、「子どもという未来そのもの・・・という存在」についての話として、もっと多くの人たちに考えていただけると嬉しいです。
Posted by toyohiko at 17:44│Comments(0)
│社会を考える