2018年08月25日
「自分の評判」はどうやってつくれば良いのか?

「評判」というのは多くの方が気になるキーワードの一つになるかと思います。特にここ最近では、インターネットの世界での「口コミ」が、消費も含め多くの社会の流れを左右する時代になってきたいることもあり、「評判」というのは以前よりむしろ大切な要素になりつつあるのかもしれません。
ところで、自分自身の「評判」についてはいかがでしょうか・・・?
男性は特にその傾向が強いのかもしれませんが、所属する組織のネームバリューなどを「自分の評判」として、勝手に解釈されてしまうような経験をお持ちのかたも少なくないのではないでしょうか?
また、ひょっとすると「自身の従属する組織の評判を自分自身の評判だと思い込んでしまっているのでは・・・」というような、人に出会った経験をお持ちのかたも同様に多いのかもしれません。
「良い学校を卒業して、良い会社に入る」という価値観は、本心がどうかはともかくとしても、日本社会のなかで「一つの価値観」として見過ごせないところがあることも事実です。
この「良い学校」や「良い会社」としての評判に「あやかりたい・・・」というのであれば、その人自身の評判は、組織という枠組みから外れた場合に、一人の人間として何が残っているでしょうか。
近年、「人生100年時代」という言葉も良く聞かれるようになってきました。本当にそのようになるかどうかは解りませんが、もし本当にそのような時代になってくるのであれば、「定年後の第二の人生」というものは、益々「適当なもの・・・」ではいけないものになって来るのではないかと思います。
その一方で、「働き方改革」や「ワークライフバランス」、「副業時代」というような言葉が多く聞かれるようになり、企業など実践していく時代になってくれば、今までとは「個」としての時間の使い方が変化していかざるを得ないと思います。
本格的にそのような時代になってくれば、従属する組織という殻を脱ぎ捨てた、「自分自身の評判」というものがこれから本格的に求められるのかもしれません。
今までの時代の様に、「一定の組織に従属していくことが一番の安定である・・・」ということになりますと、人間関係も固定化し、一方では、「わずらわしいことは無くなる・・・」ということになりますが、その反対側では、「ことを荒立てない、無関心さ・・・・」が生き抜く術の一つとして潜在的に脈々と生き続けるということになりやすくなってしまいます。
このような状態になってしまった組織であれば、そこの構成員が「納得したり」、「満足したり」ということには必ずしもなっていないために、「ちょっとしたきっかけ」があれば、堰を切ったように、本来であれば、他者に対して絶対にしないような「言葉」や「態度」がいとも簡単にお互いに出来てしまうというリスクを常に伴うということになりかねません。
人間関係が固定化していなければ、もう少し冷静に判断して言動に移すことができるのに、「人間関係が固定化してしまう」ことで、その固定化された中での立場ややメンツを保つために、「これくらいは、大丈夫・・・」という感覚が肥大し、相手の尊厳を損なうことに対するハードルが低くなりがちになることに気づかなくてはいけないのかも知れません。
このようなことは、その関係性において上位から下位者にというような一方的なものだけは無く、「弱者に見えるからこそ・・・」というような、下位から上位者に対してというようなケースも充分にありえることだと思います。
些細なことかもしれませんが、このようにハードルが下がってしまった人の「評判」は、その固定化された関係性の中で、どんどん下がっていきます。
皆さんも、お気づきかもしれませんが、この「固定化された人間関係」に一番なりやすいのが、「家族」や「夫婦」という最も身近な関係性の中で起きてしまいがちになるのです。
自分自身の「評判」を上げるというのは、難しいかもしれませんが、うっかりを下げてしまう次の二つのことを意識することで結果的に上がるのかもしれません。
「組織の評判にぶら下がればぶら下がるほど、自分自身の評判が下がる・・・」
「自分の周りの人間関係が固定化してしまうと、その相手に対する尊厳のハードルが下がってくる・・・」
ちょっとだけ、気にしてみてはいかがでしょうか・・・。
Posted by toyohiko at 14:17│Comments(0)
│社会を考える