2018年10月05日
コミュニティと平等感

人と人とが関わり合う場面において「平等」というキーワードは重要な位置づけであることは多くの方が感じていると思います。しかし、この「平等」という言葉が様々な面で足かせになってしまっていることがあることも事実です。
特に組織の円滑な運営のためには、「平等」という言葉は重要な位置づけであることは間違いありません。
しかしながら、「何を持って、平等とするか・・・」という議論は様々な場面でおこなわれており、極めて難しい課題の一つでもあります。
実際には、「平等」を示す方法として良く利用されるのは、「多数決」です。
しかし、「多数決」というプロセスの中には、本人の事情・・・もっといえば尊厳の様なものは軽んじられてしまったり、少数派にとっては不本意な状況を受け入れ続けなければならないというマイナス面もあります。
ここで、重要なのは「平等」という物差しが悪いのでななく、その物指しで「何を測っているか・・・」なのだと思います。
この平等で測る対象というのは、個人や組織によって多彩かつ複雑に入り組んでいるものです。だから、どの基準で平等の物差しを利用するかが重要になってきます。
会社等の営利組織の場合は、雇用に対する責任も含めて経営的な持続可能性という物差しを使うということに対して、社会通念上、個々の隔たりが少ないために比較的理解しやすい状況になっています。
その一方で、高度経済成長期から経済的成熟期・・・更に人口減による衰退期を迎えるなか持続可能性に対しての共有すべき価値の変化が起きているという現実があるために、近年では「理念経営」などを取り入れている会社も多くなってきています。
また、コミュニティなどの非営利の組織については、共通の物差しというのもが示しにくい状況になっているケースが数多くあります。
PTAなどもその一つです。
本来の権利である「入会意思」の確認を推奨する県教育委員会まで出てきた地域もある一方で、役員も含めて順番が決まっていて、ある種の「罰ゲーム」の様になっているというような話も耳にします。この「罰ゲーム」が行われているルールの根底にあるが「平等感」だったりします。
何故、このような「罰ゲーム」らしき慣習が引きつがれているのかを考えて見ると、「変えられない・・・」というキーワードが浮かび上がってきます。組織そのものの形骸化もそうですが、意思決定の仕組みが機能しにくいことが、形骸化を結果的に支えてしまっているのではないかと思います。
先ほどの、PTAにしても組織運営に大きな力を注いでいるのは女性です。これは、女性の就業率が低かったころの負の遺産なのかもしれませんが、この状況について大きな変化はなく、結果的に社会の変化には対応しきれていないというようなことが沢山あると思います。
この場合に特徴的なのは、「女性は責任ある仕事をしているわけではないので大丈夫・・・」というような、「慣習」や「思い込み」のようなのアンコンシャスバイアス(無意識の偏見)と呼ばれる「断片の情報」から来る価値観が大勢を占めていることで、形式的に決められてしまっていることなどに関する違和感があっても意思決定のプロセスが不明瞭なために「修正」していくことが難しいという結果に陥ってしまいやすいことです。
だからこそ、形式的な「平等」が表面的に機能しているということになっているのかもしれません。
コミュニティは地域にとって非常に大切なものであることは、否定されるものではありません。しかし、このような「変えられないゆえの平等」状況が常態化しているのであれば、意思決定のプロセスの透明化などもふくめて見直す必要があるのかもしれません。
Posted by toyohiko at 17:00│Comments(0)
│社会を考える