2018年11月24日
自由とわがままの境界線

「なんでも自由にやっても良いぞ・・・」と言われたのに「それは、違うだろ」というようなことをいわれた経験のある方は多いと思います。
また、「急に自由と言われても、いままでルールで縛られていたからどうしていいかわからない・・・」というような想いをすることもあると思います。
これは、「自由」という言葉の中に「自分のことだけを考えた思うがまま・・・」という意味合いが含まれているのでは・・・という不安によって、事前に起こってしまいそうな事態を回避しておきたいという気持ちとの葛藤の様なものが起きてしまうからだと思います。
さらに、その葛藤は、「自由」という名のもとに選択した行動などが、選択した本人ではなく、周りの人に影響を及ぼしてしまうことの方が大きいと判断されてしまうからです。
だからこそ、多くの人は、不自由であることを承知の上で他人の決めたルールを守ることによって、事前に起こりうるリスクから遠いところにいるという安心感を求めてしまうのかもしれません。
その一方で、ルールのようなものは、上位者が一方的に押し付ける規範意識になってしまう場合が多く、押し付けられたという違和感を覚え、パフォーマンスや幸福感が低くなったり、個人や社会全体の可能性を狭めてしまうという大きなマイナス面もあります。
私たちは、日常の中で「無意識の中での決めつけ」の様なものをもって、様々な判断をしてしまうことがあります。
これは、アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)と呼ばれ、人と人との関係性において「感情のもつれ・・・」というようなものにつながってしまう、ある種の癖のようなものです。
先ほども云いましたように、日本ではその傾向が強いと言われており、「やらない・・・」という事前回避型の考え方に陥ってしまっている方も多いのかもしれません。
そもそも、個々の人は様々な環境や生活をしているので、「大切に思うこと・・・」は違って当然なのですが、そこのところを、あまり確認しないままに、「だろう・・・」とか「かもしれない・・・」という考え方で物事を決めてしまう方が一見スムースに見えます。
しかし、そこに関わる人たちが、違和感を抱えたままであったり、嫌な思いをするようなことがあっても、そのような想いをした人が、自分自身の負の感情を納得させたり、スキルアップするという方法で解決していくことの方が多いのが現状なのかもしれません。
このような状況があるとすれば、多くの組織や社会全体においてもある種の閉塞感のようなものがでてきてしまい、「楽しさ」や「高いパフォーマンス」という言葉からはかけ離れた状態になり、ある種の分断の様な構造になりやすいとも言えるのかもしれません。
そういった意味でも、いま一度、「自由とわがままの境界線」について考えることが、人間関係における様々な不安や閉塞感を取り除くことにつながるような気がします。
その境界線の軸になっていくのが、「自分らしさ」や「尊厳」という言葉になるのかもしれません。
この「尊厳」という言葉は、自分自身と相手の双方の大切なものを損なわない落としところを共有するようなイメージなのかもしれません。実際に、負の感情を抱いた当事者が、その気持ちを伝えるのは非常に難しいことになります。
だからこそ、上から下というような一方的な見方だけでなく、お互いに「相手の不安を読み取る」ことが、「大切なものを損なわない」事につながるのだと思います。
尊厳こそが、自由とわがままの境界を決める規範意識みたいなものなのかもしれません。
Posted by toyohiko at 12:01│Comments(0)
│社会を考える