2019年04月13日
「空気を読む」責任

「空気を読む」とい言葉をよく耳にすることがあります。これは、「なんとなく周りの雰囲気に合わせることでその場面を乱したりすることの無いように気遣いする。」ということになるのだと思いますが、この「空気を読む」とことに対して、近年敏感になり過ぎているという印象を持つ方もいるのではないでしょうか。
この状況が行き過ぎて、「空気を読まざるを得ない・・・」と云うことになりますと、「空気を読みつつも、場の雰囲気が悪い・・・」という状況になってくるのだと思います。
この「空気」の行く末がどうなっているのか・・・と云うことが実は一番大切なことだったりするのです。
つまり、この「空気」の行く方向性が多くの人が望んでいたり、一人ひとりの尊厳が損なわれているようなことが無いのであれば、この様な「決断方法」は、ある意味、手っ取り早くスムースな方法なのかもしれません。
それゆえに、ほとんど意見も交わされずに、提案者の云うなりに進んでしまうことのリスクもあります。
たいていの人は、物事を決める時に迷ったり、悩んだりします。そして、その悩みの原因は大きく分けて三つに絞られると思います。
一つ目は、決断に関する具体的な状況把握が出来ていない。
二つ目は、決断に知識量・情報量が足りない
多くの場合はこの二つが原因になっていますので、状況把握や知識・情報の収集に努めることで、「悩み」の解消により近づくことになります。
言いかえると、一人で悩んでいても、「悩み」の解消には至らない確率が高いということになります。
今までの二つは、自分自身で解決できる話なので良いのですが、面倒なのは三つめの原因です。この三つ目に当たるのが、全体の方向性によってもたらされる利益と、知人や上司など、さらに家族など特定の人の利害が一致しないケースになります。
このケースは、価値観の相違によってもたらされることによる、利害の不一致になってくる場合になるために、利己的な考え方の衝突、もしくは利己と利他との衝突になります。したがって、決断する際の立場や周りと人たちとの関係性に大きく左右されます。
このような、場面で上位者の意を察して、上位者の利益を優先してしまう場面について、「忖度」という表現を使っているんだろうと思います。それぞれの価値観があっていれば、その決断によって多くの人にとって不利益をもたらすことは無いからで、「上位者の意をくむ・・・」ことは、むしろ「阿吽の呼吸・・・」と呼ばれるのだろうと思います。
その三つ目の悩みの解消には、「価値観のすり合わせ」と云うようなものが一番大切なのかもしれません。
その一方で「空気を読む」ことによって周りの状況に合わせてしまう・・・というような、場面の多さに反省させられることが多いことも事実です。だからこそ、その結果によってもたらされる「責任の行き場」について、もう少し考えていく必要があるのかもしれません。
「場の空気」や「同調圧力」によってもたらされる結果は、負の無限ループのように、「決めた自分」に対して「違和感」や「嫌な思い」を持ち続けなければならないという、「本来の持つべき責任とは違う形の責任」を負わされる結果に結びついてしまう可能性が高いからです。
人は、多くの場合、無意識の偏見(アンコンシャスバイアス)もふくめて、「普通そうでしょ・・・」という思考で、物事をとらえてしまいがちです。そして、その偏見に乗っかる安心感を無意識のうちに求めているのかもしれません。
しかし、「その陰でめぐる様々な想いに対する消去感や多様性の欠如によってもたらされる社会」という結果に対する責任の行方について、負の遺産が顕在化し、取り返しのつかなくならないようにする覚悟が必要なのかもしれません。
責任者不在・・・ 船であれば少しのトラブルで沈没してしまうかもしれませんね。
Posted by toyohiko at 16:33│Comments(0)
│社会を考える