2019年10月04日
なりたい自分を阻害するものは…?

「なりたい自分」という問いかけに対して、自分自身がどのように思うかということよりも、「他者から、どのように見られるか・・・」という意識が、どうしても拭い去れない・・・というような思いは皆さん多かれ少なかれ持っているのではないでしょうか。
当然のことながら、自分自身の姿を描こうとしているのにも関わらす、他者の視線を意識してしまうということは、矛盾にしていますし、ひょっとすると、その矛盾そのものに多くの人は気づいているのだと思います。
なのにも関わらず、自分を押し殺してまで他者からの視線を優先していくことを受け入れてしまうのでしょうか・・・?
ルールの是非について、議論することがあると思いますが、その議論の中で、「ルールがあった方が楽・・・」とか「他人が決めたことなので、気兼ねなく批判できる・・・」というような話を耳にしたことは無いでしょうか・・・?
これは、より多くの立場に同調することで安心感をもってしまうからだといわれています。「何も意見を言わない・・・」ということも含めて、他者を意識することが根本にあるような気がします。
このような、思考の根底にあるのは、「周りの期待に応える・・・という言い訳を利用して自分が安心したい・・・」というように解釈すると、残念ながら腑に落ちてしまうということになります。
この安心感を求めた為に「日常のモヤモヤした違和感・・・」を置き去りにして、自分の記憶の片隅に積み上げてしまったとすれば、これはこれで「しんどい」ことにつながってしまいます。
かつての日本では、男性は「お国のため・・・」、女性は、「夫のため・・・」「子どものため・・・」というような、外から与えられた役割を忠実にこなすことが美徳とされてきましたし、その役割を忠実にこなすことで、自分自身の存在感を確認してきたという歴史もあると思います。
そのような中、社会の変化にともなって外部からの規範から解放されてくるにつれて、「確固たる自分・・・」というものに、目を向けていく必要が出てきました。
しかし、フランスの精神分析家ラカンが「人間の欲望とは、他者の欲望である」と言ったように、人間の欲望というものは、親さとか周囲の期待という他者の欲望を取り込んでいることに過ぎないはずなのに、「自己実現こそ全て・・・」のようなものが極端に強調されるようになることで、自己に向き合う事に疲れ切ってしまう人が増えてるのでは・・・という話もあります。
また、多くの人が直面する「実現すべき自己などは、そんなに簡単に存在しない・・・」という、「空っぽの自分」を嘆き、現実を受け入れなれない人は、他人を責めることでその空虚感を埋め合わせるという行動に走ってしまうのだそうです。
他人にものを頼まれたときに、「頼むまでは一生懸命と色々とお願いしてきたけれど、返事をした瞬間に態度が変わった・・・」というような経験をした方は、よくわかると思いますが、その時々の都合・・・というものが最優先となり物事が進んでしまうということも、世の中ではよくあることです。
そのような時、「〇〇さんに頼まれたから・・・」という唯一の自己の存在感も、根底から揺らいでしまいます。
だからこそ、「他者の期待を背負った自分」の中身は、探しても探しても見つかり難いし、探せば探すほど、苦しんでしまうのではないのでしょうか。
このことは、言い換えると自分自身の存在感を他者に依存しているということに通じてしまうのかもしれません。依存先=認めてもらいたい対象と考えれば、その対象となる先が少なければ少ないほど、その対象の支配下に陥ってしまうことは多くの人が解っていると思います。
そうであれば、頼る先(依存先)を増やしていけば、一つ一つの期待という支配から逃れやすくなるのではないのでしょうか。
確かに、子どもの頃から「ひとに迷惑かけないように・・・」「自分でできるようになりなさい・・・」といわれ続けた経験のある人たちにとって、「期待してるから・・・」「がんばれ・・・」という言葉が、自分自身を縛り付けていることにつながっているとは考えにくいことも確かです。
しかし、「他者からの期待」は、「他人の都合」です。
人生100年の時代といわれて久しい昨今、自分の存在感のようなものは、世間に知らしめるような立派なものではなく、もっと身近なものからリスタートしていくことも大切な時代になってきたかもしれません。
多くのことを自分で選択できるようになったからこその越えなければならないハードルがあることも事実ですが、だからこそ脱認められたい自分へのチャレンジが必要なのだと思います。
Posted by toyohiko at 11:33│Comments(0)
│社会を考える