2020年03月27日
スマートフォンと情報リテラシー

スマートフォンといえば、非常に便利なツールとして今や小学生も高学年になれば半数近くが持っているものになってきており、今や生活に欠かせないものとしての存在になりつつあります。
それだけ身近なものになった大きな理由には「便利さ」ということがあります。
今や、固定電話の保有率も少なくなったこともあり、お互いのコミュニケーションツールや情報伝達手段としての利便性の高さは、通話そのものが「面倒くさい・・・」という言葉に象徴されるようなコミュニケーションにおける変化も遂げています。
また、情報伝達手段以外の利便性で圧倒的に大きいのは「検索機能」です。
以前では、辞書のページをめくって確認していた様々な情報が「検索ワード」を入力することで必要な情報を簡単に得ることが出来るツールとして欠かせないものになっていることは、若い世代を中心に使われている「ググる・・・」という言葉にも象徴されています。
この必要な情報に辿り着くために必要な手間としてのサーチコストの低減は多くの面でプラスの効果として発揮されるため、この流れはさらに加速することと思います。
さらに、スマートフォンの普及ともに大きな変化を遂げたものの一つに新聞や雑誌などの社会情報の情報源としての機能がスマートフォンなどのデバイスに移りつつあることです。
これらのような、情報の提供方法については「紙かデジタルか・・・?」という論争が、書籍も含めて様々なところで行われています。その議論の多くは、利便性とブルーライトも含めた光源を凝視するという健康に対する影響や依存性等とのバランスになっていると思いますが、ここ数年のAI導入による様々なサービスの機能強化に伴って変化しつつあることがあります。
検索エンジンというものが出始めた当初は、同じタイミングで同じ検索ワードを入力した場合の検索結果というものは同じ結果であったと思いますが、現在ではいかがでしょうか・・・?
AmazonにしてもYouTubeにしても数年前間からTOPページといわれるものに表示される内容は、ユーザーに合わせた情報になってきています。
このことは、ユーザーとしてのサーチコストの軽減も含めて利便性という意味でも非常に良いことでもありますし、サービスを提供する側にとってしてもマーケティングの観点からしてもよりニーズの高い方に対する積極的なアプローチにつながるという点で、WinWinの関係ともいえます。
しかし、言い換えるとその人の趣味や志向にあわせた情報量が多くなり、いわゆる一般的な情報というものから意識せずして遠ざかってしまうということもつながっています。
このことは、ある分野に特化した情報しかなくなってしまうために、物事を総合的に判断する材料が不足してしまうことだけでなく、他者との価値観の違いを理解するという、これからの時代に求められるとされる多様性の欠如や思想の中立性の負への影響にもつながってしまう可能性もあるのかもしれません。
確かに、サービスの提供する側からのマーケティングという視点からすれば、様々な人々の興味関心や志向や信条などを属性化し、その属性に合わせたより満足度の高いサービスにつなげるというという意味では素晴らしいことなのですが、必ずしも社会的に見てよいサービスだけではないという前提を常に念頭に置いておかなければならなくなった来ているのではないでしょうか。
ツイッターなどでは、善意をもって中身を確認せず拡散してしまう傾向や、真偽を考えず思い込みが強い傾向のあるアカウントなどが高額で取引され、詐欺などの反社会的行為のターゲットになっているというような特集番組も放送されています。
このような現状は、残念ながらAIという技術があってこそコストメリットが出てきた結果ともいえます。
子どもたちの教育の世界でも、PISAの学習評価の結果を得て早期からのIT環境への対応を目的にGIGAスクール構想がスタートしつつあります。
これからは、情報に関するサーチコストの低減に伴い、個人の属性化ということはさらに進んでいくことが考えられます。だからこそ、「子どもたちを守る」という意味でもAI時代の情報リテラシーというものを、今こそ考えていく必要があるのだと思います。
Posted by toyohiko at 17:22│Comments(0)
│社会を考える