2024年03月23日
「頑張る」と「頑張れ」を考える(Ⅱ)
今年は、「子どもの権利条約」が国連で採択され、その5年後に日本が批准してから30年になります。
また、この条約の批准については、「5 年ごとに、この条約において認められる権利の実現のために取った措置及びこれらの権利の享受についてもたらされた進歩に関する報告を国際連合事務総長を通じて委員会に提出することを約束する」と記されています。
その報告に対して、国連子どもの権利委員会より「最終所見」として2019年にも改善勧告を受けているのが、子どもの権利条約を批准しているOECD加盟国の中で日本と韓国の2国とされています。
その勧告の内容については、日本体育大学の野井真吾教授が「国連子どもの権利委員会の「最終所見」に見る日本の子どもの健康課題の特徴」という報告書で、「“競争主義的な教育制度”、さらには“社会の競争的な性格”が子ども時代と発達を脅かしているというのが、国際社会からみた日本の現状といえる。しかしながら、このような状況が日本の子どもたちに限定した健康課題なのか、それとも多くの締約国の子どもたちにも共通の健康課題なのかについては不明である。そこで、諸締約国政府に対する「最終所見」も概観することにより、この点の解明にも挑んでみたい。」と述べています。
そもそも、ここでいう健康課題について考えてみますと、戦後、子どもを取り巻く健康課題は、劣悪な衛生状態による感染症や寄生虫病、あるいは食糧難による虚弱児や脚気等といった問題が中心でした。そして、生活が豊かになっていくにつれて、むし歯、視力不良、肥満・痩身、アレルギー等といった問題、さらには、発達に関する様々な課題になどに移行してきた経緯があります。
更に、近年では、 過去4 回の日本政府への「最終所見」においても取り上げられた、虐待、自殺、体罰、いじめ、薬物乱用など、衛生的かつ経済的要因から社会的要因に変化しつつあることが顕著になってきています。
その背景にあるのが、あまりにも競争的な制度を含むストレスフルな学校環境であり、社会の競争的な性格により子ども時代の発達が阻害されるというような指摘です。
このような状況は、子どもに対してのみでなく「家庭の事は、家庭で解決する・・・」という、家庭依存社会的な考え方によって、「子どもの失敗は親の責任・・・」という社会の空気感や「ちゃんと育つ」ということに対しても、ヒエラルキーの上の方にいかなければ「ちゃんと・・・していない」という、「子どもの人生は親の責任」というような親の不全感につながるような競争的な社会の風潮に対する課題も多いのだと思います。
過去の勧告に対しても、日本政府は、「過度の競争に関する苦情が増加し続けていることに懸念をもって留意する。委員会はまた、高度に競争的な学校環境が、就学年齢にある児童の間で、いじめ、精神障害、不登校、中途退学、自殺を助長している可能性があるとの認識を持ち続けているのであれば、その客観的な根拠について明らかにされたい。」というような見解を示しており、国連子どもの権利委員会の勧告の内容に対して、異なる認識を示しているという現状もあり、この認識の違いそのものが、社会課題の根本的な要因の一部として垣間見られるようなところもあります。
競争そのものを否定するのには無理があるのかもしれません。
しかしながら、「誰の何のための競争なのか・・・」ということが、重要なのではないでしょうか。
「自分自身の意思で頑張る・・・」ことと、「何かの、抑圧から逃れるために、その方向に向かざるを得ない・・・」のは大きな違いがあると思います。
その象徴的な言葉が、近年話題になってきている「教育虐待」なのかもしれません。
日本社会では、大学入学や就職先が人生の到達点かのような価値観が蔓延していることが紛れもない事実として、否定できない部分があります。
確かに、医師や教員、社会福祉に関する様々な公的資格制度が、大学などの専攻や就学年齢と密接に関係しており、社会経験を積んだ後に改めてチャレンジすることに対するハードルが高いことも事実です。
それゆえに、人生の早い段階で決断を迫られ、その決断に対して再チャレンジがしにくいゆえに追い込まれてしまうプレッシャーが他の国と比較して、制度的に大きいこともあります。
そのプレッシャーの結果、親や他人の期待に応えること以外に関心がなくなってしまったり、大学受験後、思った通りの対応が返ってこなかったりすることに対して、感情的になったりすることもあり、頭ではわかっていても感情を抑えられない複雑性PTSDのような状況に陥るというような、教育虐待の影響として成人後の心身不調などの体調不良を訴えるケースも少なくないという現状も理解する必要があります。
大切なのは一人の人間として自身が「どのようになりたいか・・・」を尊重し、そして、周りの人が自分の都合によって結論を急がせずに待ってあげられる・・・ことが出来ることで、ようやく、お互いに対話できる関係づくりにつながるのだと思います。
その頑張り・・・、「誰の為なのか・・・?」、「何の為なのか・・・?」をそれぞれの立場で考え直した上で、周りに伝えることが変化のための第一歩なのかもしれません。
Posted by toyohiko at 09:48│Comments(0)
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