2015年01月24日
心配との関わり方

日常の生活の中で心配ごとというのは何かとあるものです。とはいえ、その心配ごとを「サラっと」流すことのできる場合もあれば、そのことに囚われてしまって他の事が手につかない状態になることもあります。
「心配」する場合、その対象があるわけですが、「心配する方」と「心配される方」という立場の違いを考えてみると、その立場は大きく異なるような気がします。
特に「心配される方」場合、「心配掛けたくない」とか、「心配されたくない」と思っている人は多いはずです。
こうして、考えてみると両者は一見噛み合わない関係のように映ることもあります。しかし、本当に「心配して欲しくない」のか・・・というと、そのような方も殆ど居ないともいます。
この両者の矛盾の中に、信頼という言葉が浮き上がってくるような気がします。
つまり、「心配している」という直接的な表現の中に、「信頼されていない」とか「認められていない」とうメッセージを感じてしまう時に、「心配されたくない」という感情が生まれてくるのかもしれません。
家族など、関係性がより近い場合は、このような感情のもつれが関係性を悪くする遠因になる場合も少なくないような気がします。
多くの人は、周りに対して強い「承認欲求」を持つために、その承認欲求の表現については、自己肯定感の低い人ほど、自分自身が意識しているがどうかに関わらず、反社会的な行為をしてでも、より強く対象者の関心を引こうとするということがあります。
そういった、意味では「心配」の表現の仕方が相手の感情を大きく左右するような気がします。
また、企業などの組織に対する、「心配」というのは、人と人の関係性とは少し異なるような気がします。食品に対する異物混入の報道などを見ていても、人によってさまざまな意見があると思います。
ある人は、「100%あってはならないのだから、万全の対策を講じるまで営業すべきではない・・・」と思うし、「悪意があって、そのような結果になっているのではないのだから、・・・」と思う人がいたり、と様々です。
食品などの場合もそうですが、製造も流通もチェーンストア化が進み、同じ商品が全国津々浦々あらゆるところで販売されるということが、当たり前のようになってきています。その一方で、色々なことが原料の調達を始め、製造過程に複雑な要因が絡み合ってきているために、専門的な立場の方でも実態把握が難しくなってきているという現状があります。
そのような、場合に消費者の立場としての「心配ごと」は、どのような形で解消すればよいかを考えた場合に、「スッキリと全容が解明される」という形で納得いく回答が得られる場面というのが、現実的に難しくなってきているような気がします。
だからと言って、曖昧な結果が許されるというわけではありません。そこで大切なのは、企業の姿勢であり、社会に受け入れられるべく倫理観だと思います。社会に与える影響が大きい組織ほど、あらゆる角度からの評価をされるものです。そういった意味では、組織の隅々まで一貫した倫理観が求められるのだと思います。
つまり、その組織の倫理観を見極めるための情報収集能力と判断力が必要となってきます。
少子高齢化など、数多くの社会が問題が山積している中、なんともいえない社会の閉そく感を感じている方も多いと思います。
そこで、感じている不安や心配ごとを、自分が対峙するか・・・という観点で考えてみることも大切かもしれません。
Posted by toyohiko at 23:19│Comments(0)
│社会を考える