2015年09月04日
自然の定義をあらためて考える

「自然」という言葉をあらためて辞書などで調べてみると、「天然のままで、人為の加わらないさま、・・・あるがままのさま・・・」というような説明を目にすることが多いと思います。
ここには、人工的であったり、人為的であったりすることに対峙する言葉として、受けとらえられていることが多いような気がします。
自然環境を持続可能なものにしていくために、自然という定義が「人の手が入らない・・・」というニュアンスが今のままで良いのかということを感じることがあります。
例えば、空き地などを放置しておきますと数週間もたたないうちに、草が生えてきます。その草のほとんどが、他の種に対して優勢な種が占めてしまうことになります。近年においては、放置された土地のほとんどがセイタカアワダチソウを中心とした外来植物がほとんどになってしまいます。
この現象は、まちなかだけではなく、中山間地域に至るようなところでもこのような傾向は出てきているような気がします。
もし、「自然」という言葉を「あるがままのさま・・・」という理解で、手を掛けないままでいたとしたら、自然環境の保全ははかれるでしょうか・・・?
おそらく、多くの方が「放置してしまった場合の現実」を考えた場合に、自然環境という意味において「あるがままのさま・・・」という意味に対して、違和感を覚えざるを得ないと思うのではないでしょうか。
ご存じの方も多いと思いますが、多くの生物種にはその生物固有の移動距離というものがあります。種の進化や絶滅という過程を繰り返す中で、かつてこのことは、重要な要素であったはずだと思います。
しかし、そこに数日のうちに地球上のすべてのところに移動が可能な人間の文明が関わることで、生物種の移動距離というものは根底から崩れてしまったと考えざるをえない状況へと変化しています。
そこでは、比較的近い種の共生関係さえも崩れてきていると、理解しなければならないと思わざるを得ない状況は、身近な場面で起こってきています。
その典型例が、外来種と呼ばれる今までその環境にいなかったはずの生物種による問題です。
このことは、生物種の世界の変化のみならず、細菌やウィルスに関わる問題も同様です。エボラ出血熱を引き起こすといわれている、エボラウィルスについても感染した場合の致死率が高く、発症から死亡までの時間の短さから、アフリカ大陸からウィルスが出ていく可能性は低いといわれていた時代がありましたが、そこに関わる人間の移動速度がどんどん早くなるにつれて、地球上の多くの地域に感染の可能性が高まってしまったという見方をする方々もいるそうです。
人類の健康を脅かすウィルスついては、未開の森を開発するごとに数種類のウィルスや細菌が世界中に広がってしまう時代になったというような警鐘を鳴らす人もいます。
「自然」という言葉が意味する「あるがままのさま・・・」は、「本来あるべき、持続可能な状態・・・」となり、「本来あるべき姿」は、そのバランスを崩してしまった、人間が「永遠に手を入れ続ける」ことで、「本来の姿」を維持することができるというように変わってしまったと考えなければならなくなった・・・。
ということを、意識すべきなのではと思います。