2017年02月25日
「信念」と「雑念」

信念という言葉を聞くと、「あの人は信念の強い人だ・・・」というようなポジディブなとらえかたをすることが多いかと思いますが、信念にはプラスに働く信念もあれば、マイナスに働く信念もあり、いいかえると「考え方の癖・・・」の様なものとして考える方が良いそうなのです。
つまり、「考え方の癖」というものは表裏一体で「裏目」に出た場合には少々厄介なことになるからです。
「考え方の癖」という言葉をもう少し良いかえると、自分や他人、あるいは世の中のをそのように捉えるかという「基本的な枠組み」とも言えるかもしれません。日常的には、「これはどうなっているんだろう、・・・」とかを一から考えるのではなく、「このことは、このように考えればいはずだ・・・」という個々の概念に近いようなものに基づいて、色々なことを解釈しているということになります。
このことは、「他人」についてはもちろんのこと、「自分自身」についても同じようなことが言えるのだそうです。
このような「考え方の癖」である「信念」には、心理学の世界では自分や世の中についての思い込みとされる「中核信念」と、いつの間にか自分の中に課しているルールの様な「媒介信念」の二つに分類されています。
「中核信念」の代表的なものには、「自分には価値がない」、「自分は優秀だ」「自分は人気者だ」「自分は人から好かれていない」「他人は冷たいものだ」「世の中は不公平なものだ」というような考え方があり、このような考え方はあまり顕在化されないのが特徴です。
一方「媒介信念」は自分自身にも意識的に感じている部分が大きいのが特徴で、「価値がある人間であるためには、完璧にしなければならない」「わしに起こる人間関係の問題は、すべて私に原因がある」・・・というようなものです。
このような「考え方の癖」には、厄介なところがあって、一度身につけると、そのような思考を正当化したり、証明するような出来事に注目しやすくなる性質があり、それゆえに、「信念」という言葉で使うのかも知れません
例えば、幼少期に「自分は人より劣っている」という「信念」を身につけてしまった子どもは、偶然、自分が出来なかった事を自身の中で強く印象付けることで、「やっぱり、自分はだめだ・・・」というような形で、自分の思い込みの正しさを確認していくようになるのだそうです。
そのことが、習慣化されることで大人になるまでに、より強く定着してしまい、「揺ぎ無いもの」になってしまうのです。
このような、「信念」によって自動的にもたらされるのが、「感情」ということになります。特に、悲観的な信念を持っている人の傾向としては、少ない情報で一定の方向に思考を無理やり持っていくような「考え方の飛躍」が見られることが多いそうです。
最近、マインドフルネスという方法を取り入れて事業の効率を上げる問うような取り組みをしているところがあるという話を聞きますが、これもどうやら「考え方の癖」や目の前のことに集中できない状況を修正をしていくことでより良い課題解決に向かうことが出来るということのようです。
現代の様な、情報過多の時代においては、目の前で起こっていることに対して、「感じ取ること」すらできなかったり、今取り組むことに対して集中できなかったりすることがあります。
「いつも、何かが気になってしょうがない・・・」という雑念に囚われてしまうことが、日常的に実に多いということなのだと思います。しかし、「集中できない」要因のひとつにネガティブな信念が影響していることも少なくありません。
「目の前のことに集中して、一つづつ課題を解決していく」ためには、「信念」と「雑念」が邪魔をしていることで、うまくいかない事があるということも意識することも大切かもしれませんね。
Posted by toyohiko at 11:10│Comments(0)
│社会を考える