2024年05月17日

治水と経済社会との関係を考える




 現代における治水の概念は、川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムから、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込み、汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」に変化してしまったことは、富山和子氏が著書「水の文化史」でも言及している通りなのだと思います。

 ここで、考えなければならないのが「何故、このような変化を多くの人たちが望んできたのか・・・」ということです。

 確かに、身近な生活の利便性ということで考えれば、どこにいても安全な水が蛇口から出てくるという状況は、今や日常生活の中で手放すことのできない生活基盤を支えるもののひとつです。

 そのためには、中山間部に生活している方はまだしも、都市部に生活している人にとって、身近な河川から取水し飲料水にするということは、衛生的にも科学的にも非現実的であり、遠く上流部のきれいな水を大規模なインフラ設備を利用することで、水の恩恵を得ることが出来ているという現実もあります。

 日本では、江戸時代を境に城下町というまちづくりが盛んになってきました。そして、城を中心に多くの人たちが、生活ができるようなインフラ整備が進んできたのです。

 その中でも、重要視されたのは物流であり、その当時、物流の主役であったのは河川を中心とした水です。このように水運と呼ばれるモノの流れができあがることで上流部から、食料や絹や綿などの衣食住に関わるものが集まるようになり、下流部に富が形成される・・・という流れが出来上がってきたのです。

 そうなってくれば、その「富」を上流からの水害から守るために・・・、という発想が大きくなってきます。

 そして、明治時代に入ると新たに鉄道という物流インフラが登場し、水運がどんどんすたれてきます。さらに、鉄道の敷設に伴う建設ブームも起き、木材需要の増加とともに山林の伐採が進み治水の元である治山もままならなくなってきます。

 しかしながら、下流部の富の集中と鉄道への物流インフラの転換などの理由で、世界中の治水の基本的な考えの一つである、「川の緩やかさの確保・・・」という概念はなくなり、降水を一刻も早く、海へ流すための連続堤防方式や高水工事と呼ばれる大きな転換が起きてしまったのです。

そのような、水は河川敷内に閉じ込め海まで一刻も早く流すという考え方は、明治29年の河川法制定を機に決定づけられたとされています。

 利根川を例にとって考えれば、東京という大都市圏の富を守るために、経済という取引のシステムのもと中山間地域の水、土、そしてその恵みの果実である農産物をさしだすことで成り立つシステムがすでにその時代に出来上がっていたと考えることもできます。

 かつての氾濫原がコンクリートで固められてしまったいま・・・、都市部には、水によって肥沃な大地をつくり上げたり、土壌によって、水を浄化するという生態系本来が持っている基本的な循環機能は破綻してしまっています。

 だからこそ、その機能が残っている中山間地域からの恩恵を得るしかないのです。

 このような治水の影響は、海にも影響を与えています。

 下水道が発達した現在では、河川から海に流れ込む水は、「荒廃した山から流れる水・・・」に変わりつつあります。かつての栄養豊かな水が育んだ海の恵みも漁獲高の変化という直接的な影響を与えつつあるなか、漁業従事者による山林での保全活動も増えつつあります。

 確かに、人々は、生活の利便性を追求していく過程で、河川との付き合い方を転換し、河川敷付近での居住も含め、多くの富を手に入れてきました。

 しかし、その決断は、「人間自身が様々なものを天秤にかけながら自ら下した・・・。」という認識を、自然災害の脅威が高まりつつある今だからこそ、考える必要があるのだと思います。



  


2024年05月10日

治水と環境の持続可能性について考える



 防災・減災という言葉があちこちで言われる中、私たちの命を水から守るという考え方は重要な位置を占めています。そして、豪雨災害や台風、さらには河川の氾濫など様々な気象現象によってもたらされる水の脅威は直接的に私たちの生活に影響を及ぼします。

 日本の治水の歴史を考えた時に、代表的な治水事業は利根川の事例です。

 ご存知の方もおられるかもしれませんが、そもそも利根川は太平洋へ直接注ぐ川ではなく、現在の江戸川、中川筋を流れて東京湾に注いでいました。
 そのために、関東平野は、荒川、利根川 渡良瀬川などの洪水が多く起きてしまう、不毛の低湿地だったとされています。戦国の世に豊臣秀吉が徳川家康を現在の首都圏である関八州に領地替えをし、そこに封じたのも関東平野がそうした不毛の地であったからだといわれています。

 現在の利根川が関東平野を横断して、銚子まで東へ向かうその流路は、江戸時代の治水の足跡であり、江戸文化の象徴とも言われています。

 そもそも、森林面積の割合が大きい日本の河川には、急峻で短いという特徴があります。
 それゆえに、降り注いだ雨が、一気に海まで到達してしまうのです。その一方で、雨が降らない時には枯れてしまうことも多い「暴れ川」とも言われてきました。

 その「暴れ川」の両岸に位置する比較的平坦で低い土地には、洪水時に河川が氾濫して流れ出した水が浸水してしまう氾濫原と言われる地域が広がるという特徴があります。

 その氾濫原であるがゆえに、そこには豊かな水資源が約束され、その一方で、氾濫原であればこその水害が宿命的ではありましたが、日本人はその暴れ川を巧みに治めて、そこに独特な文化を築きあげ、主たる土地利用を求めてきたのです。

 交通や水を中心に都市問題や環境問題に取り組んできた富山和子氏は、著書「水の文化史」で、「治水」について、「日本の近代化の基盤であり、同時に現代人と自然とのつきあいかたの象徴でもあった。治水を抜きにして日本の文化は語れないが、治水を見ればその時代の文化の体質は理解できる。治水とはそれほどに重い意味をもつ。」と述べています。

 古くは、治水=川を氾濫させないための護岸工事ではなく、降った雨を土に返そうとする思想であったとされています。
 
 かつて、武田信玄が霞提で、また加藤清正が越流堤で治水に卓越した技術を用い、洪水時に水を川の外へあふれさせることで、下流を鉄砲水の被害から救ったという逸話は現代にも語り継がれています。その考え方も、降水を可能な限り土に返し、あるいは土に留めようとするものでした。現在でも豊川河口域で残っている霞堤もその考え方による治水の一つです。

 水の恐ろしさは、水の量そのものではなく、水の勢いによる破壊力と、濁りと共に流れ来る土砂になります。「治水は治山にあり」という言葉があるように、かつては、治水の一環として、森林や竹やぶは、あふれ出る水の勢いを弱め、同時に土砂を渡すために山の保全が明確に重視され、遊水林、遊水地、遊水田などを配することで、急流河川を、ゆるやかにすることが人々の生活を守る行為そのものだったのです。

 また、水田も治水にとっては大きな役割を果たしてきました。

 水田は、降水を貯える遊水地として・・・、さらに、その水は地下水となり、やがて下流へ流れ出て川の水になります。また、川から引いた水も、やはり地下水となり、川の水となり、その水は更に下流でも使われるのです。
これが、水を使わない畑作ではなく、水田だったからこその理由があるような気がします。

 このように、水は水田を通じて川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムそのものなのです。

 今日のように都市化が進み、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込んで汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」という水循環に変化していることに多くの人たちは気付いているでしょうか。

 人々は、生活の利便性を追求するあまり、かつては肥沃な土の源になっていた氾濫原の土地を切り開いたり、河川の縁辺地に居住するようになり、現代における治水の概念は、水を河川敷の中に閉じ込める・・・という方向に大きく舵を切られています。

 現在の中小河川の多くは、土砂の逃げ場がなく、放置することで河床に土砂が堆積してしまい、場合によっては、定期的な浚渫工事が不可欠となりつつあります。
 その浚渫工事によって、もとに戻りようのない生態系の攪乱が起きている可能性があるのです。

 また、水田には動植物含めて5,470もの種が存在するといわれています。

 こうして、治水という視点で考えてみても、私たちの水との関わり方の変化の大きさは、生態系の持続可能性に大きな影響を与えていることを考える必要があるのかもしれません。



  


2024年05月03日

消滅可能性都市について考える



 10年ぶりの「消滅可能性都市」の発表に多くの方が一喜一憂しているのではないでしょうか。この消滅可能性都市というのは、若年女性人口が2020年から2050年までの30年間で50%以上減少する自治体を民間有識者でつくる日本創成会議が「消滅可能性自治体」と定義したもので、2014年に次ぐ二回目の発表になります。

 この発表によれば、消滅可能性都市の大きなリスクは、「人口減少による自治体の破綻」という自治体経営の視点が大きいということです。

 確かに、インドや中国の現状を見れば人口というものが、経済的エンパワメントとして大きな価値を有し、国際的なパワーバランスの変化をもたらしていることも事実です。

 しかしながら、人口と自治体経営の維持ということのみで社会を評価し、そのような方向性での競争を煽ることが持続可能な共生社会の実現に向かっているのでしょうか。

 2024年の発表で興味深いのが、人口の増加が他地域からの人口流入に依存しており、しかも出生率が非常に低い自治体に対して、新たに「ブラックホール型自治体」と定義し発表したことです。

 このような、いわゆる「人口の取り合い・・・」をすることで、自治体経営の健全化を目指すという現状の都市間競争の激化は、その先のそれぞれのウェルビーイングにつながっていくのでしょうか。

 しかも、自治体の数のみで言えば少数のように見えますが、そこに関わる人口は日本全体の数割にものぼる人に関わってくる話になってきます。

 ここで気になるのは、水やエネルギー、食糧などの社会資本の偏在とそれらを支える、自然と呼ばれるような環境資産の過小評価です。

 水質汚染や大気汚染は、現実に起きていますが水や空気の価値を経済的に評価するようなことはあまりなく、被害は起きたときにのみ対処療法で対処することが当たり前のようになっている現状からすれば、「自然環境はただ同然の使いたい放題のもの・・・」になっているからこその評価なのではないでしょうか。

 現代の科学では、自然というものが有限であることは多くの人が頭では理解しているのにも関わらず・・・。

 気候変動や地球温暖化が叫ばれているなか、地震を含めた様々な自然災害によって様々な日常生活が脅かされている現実があるのにも関わらず・・・です。

 多くの方がご存じのように、水やきれいな空気は山間部の森林によって育まれています。植物工場と言われるような技術もできつつありますが、多くの食糧も長い歴史の上に培われた肥沃な土によって支えられているのです。

 そのような中、都市部と地方という対比の中で、経済的な投資については都市部に集中しているという現実もあり、都市部の利便性は益々向上していくのに対して、食や水のような生命維持に関する基本的な資産を地方から安価に提供するという図式は変わることなく、資本主義の名のもと当たり前のように受け入れています。

 その一方で、川などの自然環境に対して法律上の人格を持たせることで、自然環境に対する持続可能性を阻害するような、事案には起訴などの法律上の対応を可能にしていくというような他国の事例も増えつつあります。

 消滅可能性を持続可能性に変換していくには、現在のような「自然」を観光やレジャーのみで資産価値を評価したり、箱物と言われる構造物に対する投資と雇用の創出という従来の経済システムによる評価ではなく、人間の生活の根源を支えるかけがえのないものとしての価値を見直し、経済的な循環につながるシステムも同時に必要なのではないでしょうか。



  


2024年04月26日

心理的安全性の落とし穴



 「心理的安全性」というキーワードは、近年多くの場面で耳にするようになってきました。その理由の一つとしては、「昭和」という言葉で揶揄されるような、古きヒエラルキーが、チームの硬直化を招き、近年における組織の衰退を招いているという考え方が大きくなってきたからなのだと思います。

 チームにおける心理的安全性とは、自分の考えや気持ちを誰に対してでも安心して発言できる状態や、個人が自由に意見や感情を表現することができる環境をあらわします。

 このような心理的安全性が高い環境では、個人が失敗や間違いを認め、学び、成長することが容易になり、チームワークの向上とともにイノベーションも活性化され、パフォーマンスが向上すると言われているからです。

 しかしながら、この考え方についても心理的安全性を、単なる「和気あいあいとした雰囲気づくり」や「和やかな職場風土」と誤解してしまうことで、上司は厳しいフィードバックを避け、メンバー間では過度な慰め合いが進み、結果としてチーム全体の成果志向が低下してしまい、成長の機会を阻害してしまうといった状況に陥ってしまうリスクがあるということです。

 ビジネスを含め多くのチームにとっては、「求められる成果」を達成していくことでそのチームの存在が維持継続していくものです。

 つまり、成果を出さねばならないチームにとっての心理的安全性とは、リスクを恐れずに意見を言える状態を示すもので、決して部下や同僚を甘やかすことではないということなのです。

 当然、改善して欲しいことがあっても厳しいことを言わず褒め続けたり、飲み会を開催して家族のような関係を築いたりすることでもありません。

 また、「何でも言っていい・・・」という考え方も、全ての言葉や行動が容認されるという意味ではありません。

 そのような状況に陥れば、時には差別的な発言や攻撃的な態度を許容するような風土になったり、それらの態度や言動によって特定の人たちの被害者意識が増長し、周りからも腫れ物に触るような扱いになっていくなど、結果として心理的な安全性が損なわれる可能性があります。
 
 個々の自己表現の自由と他者への尊重の両方が重要なのは言うまでもありませんが、人は、「男性と女性・・・」「若者と年寄り・・・」「文系と理系・・・」など自分の都合の良い属性に何かをはめ込むことで安心する傾向があります。

 そういった日常的なバイアスが、多くの場面において相手への過剰な配慮や不敬に繋がってしまっていることも現実です。

 「個性は性差を越える・・・」という言葉が示すように、属性に惑わされずに一人ひとりに対してしっかりと向き合うことも大切なことの一つです。

 心理的安全性がもたらす良い効果としては、メンバーが自由にアイデアや意見を出し合えることで、チーム全体の意思決定や問題解決がスムーズになりチームワークが向上することです。
 また、メンバーが自分の考えやアイデアを恐れずに表明できることで、新しいアプローチや発見が生まれやすくなるという創造性とイノベーションの向上やフィードバックを受け入れる文化や建設的なコミュニケーションにつながります。

 さらには、メンバー間のコミュニケーションが円滑になり、感情や意見を自由に表現できるため、ミスや誤解が少なくなるというコミュニケーションの質の向上にもつながるのです。

 このような効果だけであれば、心理的安全性が高いほどいいということになるのですが、いっぽうで、高すぎることによるデメリットも指摘されています。

 一つ目は、合意形成をしていく上で「周りの意見の尊重・・・」という思考のもと、自身の意見に対して、異なる視点からの議論が抑制され、チーム内での多様性が損なわれる可能性です。
 二つ目は、「失敗やミスを恐れずに・・・」という考えのもとで、自身の責任を回避する傾向についても懸念されています。結果に対する責任回避の思考は問題解決や成長の妨げにもつながってしまいます。

 このような状況を繰り返してしまうことで、挑戦的な状況や意見に直面する場面が少なくなるために個人やチームの成長が停滞することについての懸念も指摘されています。

 つまり、心理的安全性には全ての意見や感情を尊重する一方で、差別的な発言や攻撃的な態度についても、お互いに配慮したり、指摘し合うなどの双方向性を意識した上でのバランスが大切であると同時に、成果を意識することなく形のみにこだわってしまうことが、チームのメンバー各々の自己改善の機会を奪い全体のパフォーマンス低下につながることを忘れてはならないのです。

 「あたたかさ」と「厳しさ」という相矛盾するふたつの要素のバランスこそが、求められる姿なのだと思います。



  


Posted by toyohiko at 08:52Comments(0)社会を考える

2024年04月19日

ストレスとコルチゾール



 健康経営という考え方が一般的にも認知されるようになり、企業などにおいても働く人の健康に対して具体的な取り組みをすることも多くなりつつあります。その中でも、重要視されているキーワードがストレスと睡眠です。
 そもそも、日本では、「寝ずに頑張る・・・」や「寝酒・・・」という言葉が、違和感なく受け入れられてしまうように、睡眠に対して軽んずるような文化があるとされていますが、その文化も次第に変わりつつあります。

 そのような中、注目されているのが「ストレスホルモン」とも呼ばれているコルチゾールという物質です。

 ストレスホルモンと言われる理由は、コルチゾールが身体にストレスを受けると、ストレスから身を守ろうとして急激に分泌が増える副腎皮質から分泌される抗ストレスホルモンであり、元気を出す免疫抑制ホルモンの一種ということからです。

 特徴的なのは、コルチゾールの分泌は視床下部-脳下垂体-副腎皮質の間にあるフィードバック機構によって制御されており、朝には起床や一日の生活のスタートのために多く分泌されますが、夜には睡眠のために早朝値の半分以下の値に減少するというような日内変動があることが知られています。

 ストレスなどで、コルチゾールの作用が過剰になると、体重が増えたり、顔が丸くなったり、血糖値や血圧が高くなったりという症状を引き起こすこともあり、「クッシング症候群」と言われています。

 また、低すぎても疲労感、 全身倦怠感 、脱力感、筋力低下、体重減少、低血圧などがみられることが知られており、 食欲不振、 悪心 ・嘔吐、下痢などの消化器症状、無気力、不安、うつなどのメンタルヘルスにも関係してくる可能性もあるようです。

 また、自閉症児に対するコルチゾールの日内変動に関する研究報告では、健常な小児と比較した結果、日内変動の乱れが認められるケースも多く、脳の視床下部-下垂体-更に副腎皮質系の機能異常との関係も示唆されています。

 身体のあらゆる機能の一つに恒常性というものがあると考えられています。この恒常性とは「本来の正常な姿に戻そうとする力」が生物のあらゆる機能の中に備わっているということです。

 抗ストレスホルモンであるコルチゾールも、この恒常性に対する役割を担っているのだとすれば、日常的なストレスによる過剰分泌は、冷蔵庫の扉を開けっ放しにしているようなものと考えることが出来るのかもしれません。
 多くの方がお判りかと思いますが、冷蔵庫を開けっ放しにすれば冷却装置は当然のようにフル稼働になりますし、故障の原因となる事は想像に難くありません。

 その機能があるから良い・・・ということではなく、その機能が起動する原因を取り除くことをしていかないことには、本体が壊れてしまう・・・ということです。
 そもそも、身体の適応能力は優れており、身体自身が普通を勘違いしてしまうことで本来の機能が損なわれることがあることも知っておく必要があります。
 
 ストレスホルモンと言われるコルチゾールも、起床とともに多くの量を分泌し、就寝時には抑えられるという、日内の変動サイクルを維持することはメンタルヘルスにとっても有効なことであると同時に、ストレスがかかり続けることのリスクについても意識しておく必要があります。

 そもそも、不安、緊張、興奮という精神的なストレスは、生理学的にもNK細胞の活性低下やEBウイルス抗体価の上昇を示したりすることが報告されていますので、思考の癖も含めたメンタルヘルスへの負荷の軽減はプライベートライフのみならず日常的に意識することが大切になって来ているのだと思います。


  


Posted by toyohiko at 16:50Comments(0)身体のしくみ

2024年04月12日

笑顔と創造性を考える




 ヒトの顔は、他の霊長類と比較すると気持ちが伝わり易くなるよう進化をしていると言われています。その中でも特徴的なのは、眉毛と目です。

 眉毛は、霊長類では顔と体毛との境界であったものがヒトのみが残ったことや、目についても、弱肉強食と言われる野生の世界では視線が相手にわかることがリスクになっていたが、ヒトは社会性を育むために視線を含めた目の表情が、非言語的コミュニケーションとしての大きな役割を果たしているために、目の輪郭や白目と言われる眼球に色素の無い部分が大きくなっていると考えられています。

 また、人面魚という言葉がありますが、認知科学の世界ではたまたまできた形がヒトの顔に見えるパレイドリア現象と言われるものがあるようにヒトの「顔」に対する関心の高さもうかがえます。

 大阪大学脳情報通信融合研究センターの中野珠実教授によりますと、「人間は、顔に興味を持つように出来ている、特に自分の顔には高い関心がある・・・」としています。
 
 実際に、自分の顔と他人の顔に対する脳の反応の違いを計測したところ、自分の顔の方が脳の側坐核の活動が活発になり、その結果、報酬系の伝達物質と言われるドーパミンが放出されていることが解ってきました。

 更に、顔加工アプリを利用して、ちょうど良いと感じる加工度合いを自分と他の人とで比較した結果、自分の顔は、他人の顔よりも強い加工を好む傾向があり、脳ではドーパミンの作用によって、自分が変わることでその変化に対する行動が強化されるという指摘もあります。

 このような傾向は、自分に対してのみ現われるために、逆に言えば、自分の変化に対する高揚は自分だけで、周りは冷ややか・・・に感じていることも知っておく必要があります。

 このドーパミンによる作用ですが、行き過ぎた加工に対して、「不気味の谷現象」と呼ばれる不自然なものに対する抑制を恐怖や不安を司る偏桃体がコントロールをしており、側坐核と偏桃体のバランスによって保たれているのです。

 これらの事から、人は顔に対して思っている以上に関心を抱いており、且つ、自分自身の顔に対してはドーパミンの作用によってバイアスがかかっているということを知っておく必要があります。
 
 そもそも、人間は社会的動物であると言われているように、「どう見えるか・・・」以上に、「どう見えているか・・・」という、自分自身の見え方がコミュニケーションについても大きく影響していることは、非言語コミュニケーションという概念からもお分かりかと思います。

 東京大学先端科学技術研究センター客員上級研究員の吉田成朗氏によりますと、テクノロジーによって加工された表情の違いによる人間の行動に対する影響に関する実験を行った結果、顔の表情が行動変容や創造力にも影響を与える可能性についての指摘がなされています。

 具体的には、洋服の試着などの時にも、そのモノよりも自身の表情が選択に大きな影響を与えることや、リモート会議でのミーティングでは、お互いの顔を笑顔に加工することによって、アイディアの数が1.5倍になったという結果もあることからすれば、「笑顔」の効果は思っている以上に効果があると考える必要がありそうです。

 このような、笑顔と創造性との関係については、笑顔を見ることで、「自分が受け入れられている・・・」という安心感から発想が豊かになるのでは・・・と考えられています。

 この安心感については、心理的安全性とも呼ばれチームビルディングの分野でも重要視されています。

 表情フィードバックという考え方がありますように、「表情に表すのが苦手とか、いつも怒っているように思われている・・・」と悩んでるかたも多いかもしれませんが、あえて「笑顔」をつくってみることも、外見が変わっていく事で、周りへの良い影響も含めて自身の行動変容につながるのかもしれません。


  


2024年04月05日

睡眠とアルコールの関係をあらためて考える




 睡眠の悩みに対して、世界の先進国、新興国10カ国の「眠れないときにどうするか」について、「医師を受診」「カフェインを控える」「アルコールを飲む」「睡眠薬」の4つの選択による調査を行った結果、中国と日本以外は「医師に相談する」がトップなのに対して、日本のみが圧倒的に「アルコールを飲む」という回答が多いという結果になったそうです。

 「医師を受診」がトップでなかった中国においても、睡眠薬とカフェインを控えるの二つが多く、「アルコールを飲む」という選択は、日本以外の全ての国で一番少ないという結果になっています。

 この日本特有の睡眠不足に対する選択は、教育水準の高さに反して、日本人の睡眠軽視、寝不足自慢、酒に対する寛容さ、という文化的要素が大きいことと同時に、「眠れない・・・」という状況に対して、アルコールという発想が一番に来るということからすれば、睡眠とアルコールとの関係についての認識が他の国と根本的に異なるという可能性も考えなければならないかもしれません。

 前回も説明しましたように、摂取したアルコールが分解される過程で生成されるアセトアルデヒドが交感神経を刺激するために、身体が覚醒の方向に向かってしまい、「身体は休んでいても、脳は活発に動いている状態」になり、眠りが浅くなってしまうということだけでなく、覚醒後の影響も近年の研究では明らかになりつつあります

 その大きなキーワードとなるのが「不安」です。

 多くの人がお酒を飲む理由として言われているのが、社会的な不安を鎮めることに大きく関係している考えられています。

 これは、アルコールが、神経伝達物質であるGABA(γ-アミノ酪酸)の働きに干渉することが知られており、アルコールが普段はGABAが結合する脳内のタンパク質(受容体)と結びつくことによって、中枢神経系の鎮静や睡眠、リラクゼーションにつながるために、「これが、飲酒をしたときに人々がリラックスしたり、抑制から解放されたり、とめどなく湧いてくる(ネガティブな)思考が減ったりする理由です」と、米エール大学医学部教授で、エール・ニューヘイブン病院依存症回復クリニック所長のスティーブン・ホルト氏が述べています。

 そして、アルコールによってGABAの作用が強められる一方で、体内で自然に作られるGABAの量は減り始めてしまいます。そして、GABAが作られる量が通常のレベルに戻る前にアルコールが抜けてしまうと、、以前に抱いていた「不安」が強度を増してよみがえってくることがあるというのです。

 また、英インペリアル・カレッジ・ロンドンの神経精神薬理学者デビッド・ナット氏は、「どんな酒であれ、飲んだ人の大半は、アルコールが抜ける際、脳に変調をきたします。少量の飲酒であれば混乱を覚える程度ですが、量が多い場合は不安が起こることがあります」とも述べています。

 さらに、興奮性の神経伝達物質のグルタミン酸も、不安を高める働きがあるとされていますが、アルコールによって抑制性のGABAの作用が強められると、脳内のグルタミン酸による神経伝達の影響が弱まります。これを埋め合わせるために、脳は追加でグルタミン酸受容体を徐々に増やすようになるために不安が高まるというのです。

 二日酔いの症状として不安が現れる人は、慢性的に不安が続く「全般性不安障害」を抱えている可能性があるとされています。また、米ペンシルベニア大学精神科依存症治療センター長のエドウィン・キム氏によると、飲酒後の不安は、過剰な心配というよりもイラつきとして感じられる人もいるとしています。

 そして、症状を軽くしようとして自己判断で飲酒すると、不安は覆い隠されるものの、アルコールが体から抜けると根底にある不安が強くなるという悪循環にもつながり、メンタルヘルスの不調につながる可能性もあります。

 日本では、「寝酒」や「晩酌」という言葉が一般的になっています。そのような飲酒を楽しみにすることを肯定的にとらえるかたも多いかもしれませんが、アルコールによる睡眠への影響をのみならず、「不安」というメンタルヘルスへの悪影響にもつながる可能性があるということを理解したうえで上手な付き合い方をしていくことが大切です。




  


Posted by toyohiko at 17:11Comments(0)身体のしくみ

2024年03月29日

睡眠不足を考える




 「三寒四温」と言われるような気温を中心とした、環境の変化の厳しい季節になりましたが、同時に、睡眠に対する悩みを抱える人も多い季節となっています。

 そもそも、体温コントロールの司令塔となる自律神経は、外界の気温の変化に対して、敏感に反応するように出来ているために、日々の気温の変化が激しかったりすることで負担の大きくなり、いわゆる「自律神経の乱れ」につながり易くなるのもこの季節です。

 その自律神経の乱れによって影響を受けるのが、免疫力の低下であったり、眠れない、寝付けないなどの睡眠への影響です。

 睡眠の状態が良くない指標になるのが、寝ている間に途中で目が覚めてしまう中途覚醒や、早朝覚醒があります。
 睡眠には睡眠ホルモンと言われるメラトニンという物質が睡眠前及び睡眠中に分泌されることで良い眠りにつけることはよく知られています。

 この睡眠ホルモンのメラトニンの分泌量が、加齢によって減少していることが近年の研究で明らかになりつつあるようです。
 また、覚醒に関わるコルチゾールというホルモンについては、逆に加齢に伴い増加傾向にあるという報告もありますので、「歳をとると、朝が早くて・・・」という状況も実は、ホルモンの状態に左右されているのかもしれません。

 メラトニンは、食事などを通じて摂取したトリプトファンが幸せホルモンと呼ばれるセロトニンになり、そのセロトニンを原料としてつくられるとされています。

 このセロトニンですが、以前は、脳内のみで分泌されるとされていましたが、現在では、その多くが腸管や腸管神経系でつくられていることが分かってきています。
 メンタルヘルスとも密接に関係しているとされるセロトニンを活性させるためには、腸内環境を整えることも有効とされていますので、腸内環境を意識した食事を取り入れることで睡眠の状態が改善する可能性もありそうです。

 また、「寝酒」という言葉もありますが、「良く眠れるように・・・」と飲酒の習慣のある方もいるかと思います。
実は、飲酒は睡眠にとってマイナス要因になればこそ、良いことはほとんどないということも理解しておく必要があり、そのメカニズムについても、ある程度のことは解ってきています。

アルコールが分解される過程で、アセトアルデヒドという物質が生成されます。このアセトアルデヒドが交感神経を刺激するために、身体が覚醒の方向に向かってしまうというのです。その結果、「身体は休んでいても、脳は活発に動いている状態」になり、眠りが浅くなって目が覚めやすくなるのです。
 
 更に、睡眠中にはアルコールの分解は遅くなるために、飲酒状態の睡眠によって酔いから覚める速度を遅らせてしまうことが分かっています。
 
確かに、アルコールは睡眠導入への効果はありますが、逆に睡眠を浅くし、利尿作用もあることから、中途覚醒や早朝覚醒の原因となり、睡眠障害につながることも理解しておく必要があります。

 これらのように、睡眠に対する影響は加齢によるものや、飲酒などの「いままで、効果があると思っていた・・・」などに対するものなど、身体に対するあらゆる影響を理解した上で、対応することが大切です。



  


Posted by toyohiko at 12:18Comments(0)身体のしくみ

2024年03月23日

「頑張る」と「頑張れ」を考える(Ⅱ)



 今年は、「子どもの権利条約」が国連で採択され、その5年後に日本が批准してから30年になります。
 また、この条約の批准については、「5 年ごとに、この条約において認められる権利の実現のために取った措置及びこれらの権利の享受についてもたらされた進歩に関する報告を国際連合事務総長を通じて委員会に提出することを約束する」と記されています。

 その報告に対して、国連子どもの権利委員会より「最終所見」として2019年にも改善勧告を受けているのが、子どもの権利条約を批准しているOECD加盟国の中で日本と韓国の2国とされています。

 その勧告の内容については、日本体育大学の野井真吾教授が「国連子どもの権利委員会の「最終所見」に見る日本の子どもの健康課題の特徴」という報告書で、「“競争主義的な教育制度”、さらには“社会の競争的な性格”が子ども時代と発達を脅かしているというのが、国際社会からみた日本の現状といえる。しかしながら、このような状況が日本の子どもたちに限定した健康課題なのか、それとも多くの締約国の子どもたちにも共通の健康課題なのかについては不明である。そこで、諸締約国政府に対する「最終所見」も概観することにより、この点の解明にも挑んでみたい。」と述べています。

 そもそも、ここでいう健康課題について考えてみますと、戦後、子どもを取り巻く健康課題は、劣悪な衛生状態による感染症や寄生虫病、あるいは食糧難による虚弱児や脚気等といった問題が中心でした。そして、生活が豊かになっていくにつれて、むし歯、視力不良、肥満・痩身、アレルギー等といった問題、さらには、発達に関する様々な課題になどに移行してきた経緯があります。

 更に、近年では、 過去4 回の日本政府への「最終所見」においても取り上げられた、虐待、自殺、体罰、いじめ、薬物乱用など、衛生的かつ経済的要因から社会的要因に変化しつつあることが顕著になってきています。

 その背景にあるのが、あまりにも競争的な制度を含むストレスフルな学校環境であり、社会の競争的な性格により子ども時代の発達が阻害されるというような指摘です。

 このような状況は、子どもに対してのみでなく「家庭の事は、家庭で解決する・・・」という、家庭依存社会的な考え方によって、「子どもの失敗は親の責任・・・」という社会の空気感や「ちゃんと育つ」ということに対しても、ヒエラルキーの上の方にいかなければ「ちゃんと・・・していない」という、「子どもの人生は親の責任」というような親の不全感につながるような競争的な社会の風潮に対する課題も多いのだと思います。

 過去の勧告に対しても、日本政府は、「過度の競争に関する苦情が増加し続けていることに懸念をもって留意する。委員会はまた、高度に競争的な学校環境が、就学年齢にある児童の間で、いじめ、精神障害、不登校、中途退学、自殺を助長している可能性があるとの認識を持ち続けているのであれば、その客観的な根拠について明らかにされたい。」というような見解を示しており、国連子どもの権利委員会の勧告の内容に対して、異なる認識を示しているという現状もあり、この認識の違いそのものが、社会課題の根本的な要因の一部として垣間見られるようなところもあります。

 競争そのものを否定するのには無理があるのかもしれません。

 しかしながら、「誰の何のための競争なのか・・・」ということが、重要なのではないでしょうか。

 「自分自身の意思で頑張る・・・」ことと、「何かの、抑圧から逃れるために、その方向に向かざるを得ない・・・」のは大きな違いがあると思います。

 その象徴的な言葉が、近年話題になってきている「教育虐待」なのかもしれません。

 日本社会では、大学入学や就職先が人生の到達点かのような価値観が蔓延していることが紛れもない事実として、否定できない部分があります。

 確かに、医師や教員、社会福祉に関する様々な公的資格制度が、大学などの専攻や就学年齢と密接に関係しており、社会経験を積んだ後に改めてチャレンジすることに対するハードルが高いことも事実です。

 それゆえに、人生の早い段階で決断を迫られ、その決断に対して再チャレンジがしにくいゆえに追い込まれてしまうプレッシャーが他の国と比較して、制度的に大きいこともあります。
 
 そのプレッシャーの結果、親や他人の期待に応えること以外に関心がなくなってしまったり、大学受験後、思った通りの対応が返ってこなかったりすることに対して、感情的になったりすることもあり、頭ではわかっていても感情を抑えられない複雑性PTSDのような状況に陥るというような、教育虐待の影響として成人後の心身不調などの体調不良を訴えるケースも少なくないという現状も理解する必要があります。

 大切なのは一人の人間として自身が「どのようになりたいか・・・」を尊重し、そして、周りの人が自分の都合によって結論を急がせずに待ってあげられる・・・ことが出来ることで、ようやく、お互いに対話できる関係づくりにつながるのだと思います。

 その頑張り・・・、「誰の為なのか・・・?」、「何の為なのか・・・?」をそれぞれの立場で考え直した上で、周りに伝えることが変化のための第一歩なのかもしれません。



  


Posted by toyohiko at 09:48Comments(0)社会を考える

2024年03月16日

土があるのは地球だけ・・・




 「土が地球だけにある」という表現は、地球上の生物圏において土の存在が特別であるという意味ではなく、他の惑星や天体にも、地表を覆う固体の表土や地殻が存在することが考えられます。しかし、地球の土壌は他の天体と比較して非常に複雑で多様な性質を持っていることからの表現とされています。

 また、地球の土壌は生態系において極めて重要な役割を果たしていると考えられており、植物の成長に不可欠な栄養素を供給し、水や空気を保持し、地球上の生物の生息地として機能しているという理由から、土壌は水循環や気候変動などの地球システムの一部と考える必要もあるのです。

 つまり、「土が地球だけにある」という表現は、地球上の土壌がその形成過程や機能、多様性において他の惑星や天体とは異なる特徴を持っているという象徴的な表現なのかもしれません。

 そもそも、地球の46億年の歴史の中で、誕生以来40億年は土と言えるものは存在していなく、土が誕生したのは約5億年前からとされています。
 そして、地球の土壌の歴史が浅いことに加え、特別であることの理由の一つは、岩石の風化、有機物の分解、微生物の活動、地形の変化などの地球の独特な地質学的プロセスや生物学的活動によって形成されることで多様な栄養素や生物の生息地を提供していることです。

 東北大学大学院生命科学研究科の大久保智司特任教授によれば、土壌中には、土1gあたりに50~200憶個の土壌微生物が存在しているのですが、特定の種が優位になってしまわないという、いわゆる「一人勝ち・・・」の状態にはならない原則が働いているかのような多様性が保たれているのだそうです。

 その理由の一つとして、土壌中の栄養源は非常に乏しいために増殖速度の速い種が独り占めしないよう、お互いの代謝物によって増殖を止めるような遺伝的な仕組みを持ち合わせているのでは・・・という仮説もあるようで、38億年の微生物の歴史の中で、一人勝ちではうまくいかないということを遺伝子的に学んでいる可能性もあるというのです。

 そして、その多様な土壌微生物によって産生される、様々な微量元素によって地球上のありとあらゆる生物が支えられていると考える必要があります。さらに、土が出来る時間も膨大な時間がかかっていると考えられています。

 森林総合研究所主任研究員の藤井一至氏によれば、アフリカでは数億年かかっていると考えらえる土もあるといわれていますし、東南アジアでも数千万年・・・、日本では、1センチの厚みの土をつくるのに100年から千年程度と考えられています。

 特に日本の場合は、地震、火山の噴火、洪水など土壌の変化の大きい条件が重なるなどの要因があり、土になるまでの時間は、場所などの条件によって違うことに加え、降水量が多いために土壌中のカルシウムが流されることで酸性になり易いと言われています。
 そのために、アルミニウムが土壌中に溶出することで植物に悪影響が出るなど、農地への影響があり、アルカリにするための処置の必要がある土壌とされています。

 そして、土壌微生物を育み多様な微量元素を生成する仕組みのひとつが団粒といわれる構造です。

 この団粒は、土を掘ったときにごろごろとした、土が固まったような構造のものを指すそうで、サラサラではなくこのごろごろとした塊が、土の成分どうしの間に隙間をつくり、水や空気の通り道になったり、微生物の居場所になっています。

 この隙間に嫌気性菌や好気性菌と言われる微生物が混在する多様な微生物コロニーが生成されることで、2000μmのマクロ団粒には、0.2μmのミクロ団粒と言われるものがマトリョーシカのように入っていると考えられており、植物の根やカビ、落ち葉などからの有機物、粘土鉱物などの無機物を含めた多様な元素がほどよく混在するのです。

 さらに、ミクロ団粒は、原生動物から微生物が身を守るためのシェルターにもなり微生物の多様性を担保するという役割を果たしています。

 ここでポイントになるのは、このような多様性をもった団粒の構造は自然のチカラでしかできないということです。

 近年では、この団粒に着目した不耕起栽培という耕さない農業についても注目が集まっています。

 そもそも、土壌微生物を中心に考えれば、耕すという行為は、微生物にとっては良いことではないという考え方もできます。

 団粒があることで、風雨による土壌の流出を抑制できると考えれば、団粒が無くなるほど土を耕すことは良くないということになりますし、耕すことで、土壌中の微生物の量が約7割減少するという報告もあるそうです。

 WHO(世界保健機関)は、ワンヘルスという言葉を使い、「私たちの健康は、家畜の健康や環境の健全性と一体である」という考え方を提唱しています。その考え方からすれば、農地、すなわち土の健全性は重要なことになり、私たち自身の健康にも一番の近道になるともいえます。
 
 そもそも、有史以来農業=耕作という概念が定着しています。耕すことの利点は、雑草の抑制、排水機能の向上、空気を入れて柔らかくすることにあります。そして、一番のメリットは、単位面積あたりではなく、大規模化による生産性の向上です。

 つまり、不耕起栽培では単面積当たりの収量の向上が見込めても、雑草の抑制などの作業を考慮した場合に大規模化には向かないという現状でのデメリットもあります。

 その一方で、有機物の半分は炭素です。空気中の炭素の量の2倍の炭素を土は閉じ込めておくことが出来ると考えれば、土の中に炭素を固定することで大気中の炭素濃度を下げられる可能性があると共に、窒素固定菌などの微生物が、大気中の窒素を有機化合物に変換することで土壌中の窒素の利用可能性を高められれば、土壌中への窒素の固定にも繋がります。
 
 そう考えれば、不耕起栽培によって土が二酸化炭素の吸収源になったり、窒素固定の向上に繋がり、地球温暖化対策と食糧問題との両立の可能性も見えてきます。

 「耕すか、耕さないか・・・」という問題は、ひょっとすると「どこまで、耕すか・・・」に変化していくのかもしれませんが、この問題を農業という一部の人たちの問題として置き去りにするのではなく、地球上の生物種のひとつとして「土」を見直すきっかけにしたいものです。