2020年06月03日
「何故、勉強しなければならないの・・・」を考える

「なんで、勉強しなきゃいけないの・・・?」という問いかけを、子どもからされた経験はありますでしょうか? その時に、どんな答えをしたかを覚えていますか?
その時の回答は、自身にとって納得のいくものだったでしょうか、あなたの答えを聞いた相手は、その答えに満足したでしょうか・・・。
「学び」の意義や意味については、ある種、「答えのない永遠の課題」というようにとらえられていますが、多くの研究者が「学ばない事による不利益・・・」や「無知による不利益・・・」について挙げているという事を考えれば、「学ぶ」ということの意味が垣間見れるのかもしれません。
単に「学び」と言いましても、近年では知識などを中心とした「認知能力」と、一つの事に粘り強く取り組むチカラや、内発的に物事に取り組もうとする意欲という「非認知能力」に分類されつつありますが、今回は、双方の学びということで考えていきたいと思います。
ノーベル賞受賞者でもある経済学者J.ヘックマンは、著書「幼児教育の経済学」の中で、ペリー就学前プロジェクトなどで行われた、、IQや学力などの認知能力へのプラス効果や、幼児期に形成される「非認知能力」へのプラス効果について、幼少期の「学び」の経済的影響力についても紹介しています。
また、M.スコット・ペック氏は、著書「平気でうそをつく人たち(People of the Lie : The hope for healing human evil)」(1983)の中で、「虚偽」や「邪悪」というものに対しての言及をしていますが、特に、戦争などの集団の悪について、「科学的基盤を確立する研究はいまだされていない・・・」とした上で、「あらゆるレベルの知的怠惰と病的ナルシシズムの作用が明らかになる・・・(中略)、集団の悪を防止するには怠惰とナルシシズムを根絶、あるいは、少なくとも著しく減少させる必要のあることは明白である。」と述べています。
さらにアメリカがベトナム戦争に突入していった状況を、「その答えは、単純なものである。国民としてのわれわれは、あまりにも怠惰なために学ぶことをせず、また、あまりにも傲慢なために学ぶ必要すら意識していなかったのである。また、よく考えもせずに、自分のしていることが何であれ正しいことだと思っていたのである。自分たちは間違ったことをしてるのではないか、と真剣に考えることが出来ないほど、われわれは間違っていたのである。・・・」とも説明しています。
近年では、クリスティーン・ポラス氏が、著書Think Civility(2019)の中で、「無知が人を無礼にする」と称して、「この何十年かの間に礼儀が失われたのは、決して悪意のせいではなく、それは主に無知のせいであるということだ。・・・(中略) 悪い行動の大半は、自己意識の欠如から生じていると今は考えている。他人を傷つけたいと望む人はまずいない・・・(中略)、ともかく現代の人たちが自分にばかり目を向け、他人にあまり目を向けないというのは事実だ、そのせいで、他人の扱いが無礼なものになってしまい結果として、皆に害をもたらしているわけだ、・・・」
これらの、事例を見てみても「学び」欠如によってもたらされる言葉は、いずれも耳が痛い表現のものになったいることに気付くと思います。これらのように「悪」、「無礼」という状況の先に見えるのはひょっとすると「孤立」なのではないのでしょうか。
「人間は、社会的動物である・・・」というように、多くの人にとって不安としてあげられる要素の一つは「孤立」です。こうして考えると、「学び」というのは社会的安寧を支える大切な基盤なのかもしれません。
「なんで、勉強しなきゃいけないの・・・?」という問いかけに対する、正解のない答えに対する準備をしておくことも、大人として必要な事の一つなのだと思います。
Posted by toyohiko at 16:40│Comments(0)
│社会を考える