2022年10月22日
公助と共助の違いを考える

「日本人は、共助が苦手である・・・」という話を耳にすることがあります。この理由として、相手に対する恐怖感や自己責任主義的な社会的風潮によって自助と公助を重んずる傾向が強く、共助が苦手であるという事も同時に言われています。
ところで、自助と共助の境界線は、「自分の責任・・・」とか「あの人の責任・・・」というような感覚で、仕分けをしてしまうと思いますが、自助も共助も「自分自身」が課題解決の当事者に入っているという事になります。
また、共助と公助の境界線も同じように、自分自身の感覚で線引をしますが、公助には「自分自身」が課題解決の当事者ではない・・・という考え方がそこに入ってきますので、そこには大きな違いが存在します。
一般的に、公助の場合は政治や行政などの極めて公共性の高い機関によって問題を解決していくという考え方になります。
言い換えれば、身近の人たちではなく、顔の見えにくい立場の人たちに課題解決の責任を一任するという事になります。ここでのポイントは、「自分以外の顔の見えにくい立場の人」に委ねることに対してのハードルの高さをどのように考えるかです。
日本人は、「共助が非常に苦手である・・・」ことからすれば、このハードルが低い人が多い・・・という事になります。
「共助が苦手である・・・」という事の真偽については、様々な議論もあると思いますが、World Giving Index(WGI)という国際的な調査の結果、2009年から2018年の10年間の調査で、125ヶ国中、日本は残念ながら107位。
その中でも、Q1の「人を助けたか・・・」という「共助」に関わる項目については125位と最下位でした。さらに、直近の2021年度版の報告では総合で114ヶ国中最下位とランクダウンしているという結果を真摯に受け止める必要があると言わざるを得ません。
「ハードルの低さ・・・」という視点から考えれば、「これが、大切なことはわかるけど・・・やるのは自分じゃないよね・・・」という心理状態の人が多いという解釈もできます。
このような心理状態になってしまうのには、日本人の同調性の高さや、目立つことを避けるという傾向ともつながっているのかもしれません。
自助から、いきなり公助に飛び越えてしまうような傾向が強くなってしまうことで、「会社の責任・・・」とか、「社会の責任・・・」というように実体の見えにくいものに対して責任転嫁してしまうことが多くなってしまう状態は決して良いことではありません。
「サラリーマンだから・・・」とか、「どうせ・・・だから。」などのフレーズも、ある意味、実体のない偶像化されたものに対して自分以外の人格に責任を転嫁してしまう境界線を越えてしまった瞬間を自ら表現しているのかもしれません。
課題解決という視点から考えると、実体のない他者に委ねる課題が積みあがってしまえば、どういった状況になるかは明白です。かといって、自分だけで解決していくことが難しいからこそ、他に委ねていると考えれば、自分自身も含めた仲間と一緒に解決していく場面が増えることは大切なことです。
しかも、他者に委ねてしまうような課題解決の方法では、納得のいく結果になる可能性も低くなってしまいます。だからこそ、たとえ苦手であったとしても自分自身が関わる形での課題解決が必要なのです。
「人は与えてもらうときよりも与えることの方が、より強く幸福感を感じる」と言われています。そんな場面が日常生活の中で体感する機会が多くなることは素敵な事かと思います。
そのためにも、自身の問題として積極的に関わることができやすいための心理的安全性が非常に大切なことのひとつになるのではないのでしょうか。
過去においての、「対応してもらえなかった・・・」というような経験は、確かに自分自身が積極的に関わることに対する大きなハードルになってしまいます。しかしながら、あくまでも過去の経験であり、この過去をアップデートするのは自分自身です。
「言っても、変わらない・・・」という言葉がありますが、「言わなければ、もっと変わらない・・・」という姿勢もひょっとしたら必要なのかもしれません。
多くの場合、お互いの得意分野や責任の範囲などの境界が曖昧ゆえに、「やってくれると思っていた・・・」などの、コミュニケーション不足による失敗を経験したことがある方も多いと思います。
だからこそ、「やって欲しいこと・・・」と「任せて欲しいこと・・・」をお互いの関係性の中で、明確に伝えあうための自己開示性が欠かせないものになってくるのではないのでしょうか。
自助から、いきなり公助へ・・・というステップではなく、頼るチカラも使いながら、仲間と一緒に自らも関わるという形で、身の回りの課題解決に取り組んでいくことは、課題解決のスピードアップとともに、「与えることによる、幸福感」も感じることができるのかもしれません。
Posted by toyohiko at 09:35│Comments(0)
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