2023年02月10日
性善説と性悪説

性善説は、ヒトは皆、本来は善人である・・・という前提での考え方で物事を進めていくときなどに使う言葉になりますが、「人間は社会的動物である・・・」からこそ、お互いに助け合うことを大切にするよう、本能に備わっているという説があります。
多くの人が、頼るよりも頼られた方が、うれしい気持ちになる・・・という事も、本能的に「誰かの役に立つ・・・」ことを大切にするメカニズムの一つなのかもしれません。
その一方で、多くの生物がそうであるように、安定的な捕食対象物を相手より優位に確保するための奪い合いが繰り返されているという現実もあります。
また、性善説は信頼、性悪説は、相手に対する疑いや、敵対、攻撃というような意味合いをもつことは言うまでもありませんが、「あなたのためを想って・・・」に代表されるような相手に対する、抑圧的な善意も、裏を返せば「どうせ、あなたじゃできないんでしょ・・・」という性悪説からきているというように、この二つの考え方は、表と裏という関係だけでなく、複雑に絡み合っていると理解する必要があります。
パターナリズムという言葉がありますが、「父権主義に由来し、強い立場にある者が弱い立場にある者の利益のために、本人の意思にかかわらず介入・干渉・支援すること」をしめす言葉です。
このパターナリズムについて、2022年にスイスのジュネーブで開催された国連障害者権利委員会において、日本の現状について勧告がなされました。
その内容としては、教育や医療の現場で「法律や政策が、障害者に対するパターナリズムのため、条約が求める障害の人権モデルと調和していない」というような懸念が示されたと同時に、「この問題にかかわらず、日本の社会全般に起こっている軋轢とも言える事象の背景には、パターナリズムが潜在していることを認識し、日本社会の持続可能性を考えるうえで留意すべき」との指摘があったともされています。
2006年に国連総会で採択された国連障害者権利条約(CRPD)においても「Nothing about us without us.(自分たちのことを、自分たち抜きで決めるな)!」を大きなスローガンとして掲げており、良くしてしまいがちな・・・過剰な配慮や無意識の偏見を常に意識することの大切さを重要視しています。
現在、世界中で懸念されている「社会の分断」も、「最初の分離は、一生の分離」という言葉があるように、出来る自分と出来ない自分の両方を受け入れることで、不必要な他者との違いを感じることが少なくなるのではないでしょうか。
かの、C.マルクスは、「構想と実行の分離によって見た目の生産性は向上するが、技能の剥奪が発生し、分断を引き起こす・・・」と資本主義や生産性至上主義の負の側面を指摘していますので、役割の分化によってもたらされるプラスの作用と、それによってもたらされるマイナスの側面の両方があることは、従来から指摘されている懸念事項の一つです。
そして、分断の原因の一つとして考えられるのが、立場や考え方の違いによってもたらされてしまう、「あの人たちは、私を排除しようとしている・・・」とか、「信用できない・・・」という、性悪説です。
立場や考え方の違いがあることは、「あたり前・・・」でありますし、その違いを認め合えることは大切な事です。
そこには、性善説の考え方と性悪説の考え方が、混在し、使い分けていくことで社会の平穏が保たれているという現実もあります。
「ワガママのコストを周りの善意で支払う社会」というのは、言い換えれば、犯罪のリスクを回避するために、社会の様々な手続きが煩雑になったり、そのために人員配置や設備投資を強化する必要が生じることで、時間とコストが結果的に上昇してしまう・・・とういうようなことは、良くあることです。
性善説のみで、社会を運営しようとすると、このような犯罪に通じてしまうような独善的な考えに対して、脆弱な社会システムにならざるを得ません。
性善説が大切なことは、多くの方が理解しているかと思いますが、それだけでは社会がうまく回っていかないという事も、残念ながら事実です。
「無理難題を聞き入れる・・・」ことと、「認める」ことは違います。言い分は理解できるけど、譲れない・・・ということは、日常的にも数多くあるはずです。
そこには、相手に対する敬意や尊厳に対する規範意識を大切にしながら、「自分たちにとって、やってはいけない事・・・」などのネガティブリストを、お互いの関係性の中で、しっかりとつくりあげることが重要になってきます。
また、人は完璧ではなくヒューマンエラーは起こるものということを前提にするか否かで、パターナリズムに基づく過剰な介入や、「また、どうせ・・・」とか「邪魔された・・・」という感情からくる、被害者意識が沸き起こってくる確率が下がり、相手に対する接し方も変わってきます。
性悪説も必要ではあるものの、自身の被害者意識からくる攻撃的な態度や言動は、相手の攻撃性を引き出してしまう事などから考えても、お互いの信頼関係を壊してしまう劇薬であることを認識しておく必要もあります。
性善説と性悪説は、どちらか一方の価値観では割り切れない現実があるからこそ、「信頼」の礎となる性善説による考え方がより多くの場面で通用することが理想の姿です。
だからこそ、多くの人が持ち得ている「出来ない自分」を律するためにも、お互いのための「大切にしたい規範意識」を常に意識しながら、アップデートし続ける必要があります。
「あたたかさ」と「厳しさ」という、一見矛盾するようにも見えるふたつのことの両立も答えの一つなのかもしれません。
Posted by toyohiko at 16:52│Comments(0)
│社会を考える