2023年08月25日
自然の権利を考える
「地球にやさしい・・・」という言葉を最近見かけなくなったような気がします。
この「・・・やさしい」という言葉に、何とも言い難い人類の傲慢さを感じていた方も少なくないのではないでしょうか
地球温暖化、気候変動、豪雨災害に大規模な山火事・・・、と人類の叡智ではどうにもならない地球規模の現象が日々私たちの生活に対して、影響を及ぼしているという現実からしても、「自然」といわれる壮大なシステムの偉大さは言うまでもなく、多くの共存種の一つである人類が、その偉大な自然に対して、「やさしくする・・・」という発想のアンバランスさはぬぐえません。
また、環境破壊といわれるような、自然に対しての様々な仕打ちを人類が行い続けていることも事実です。
そのような中、様々な生態系の維持保全に対して、法律上の権利と考え、環境破壊という行為を犯罪とするような、裁判の事例が世界中で起こりつつあります。
その一つが、フランスのロワール川での事例です。この事例は、ロワール川を法律上の人格を持つと仮定し、環境保全団体が代理人となり国を相手取って訴訟を起こすというものです。従来では、それぞれの種に対して様々な法律が存在し、その法規定によって判断していましたが、このケースは、「ロワール川」という固有の特徴をもった生態系全体を評価し、「川」を中心とした生態系全体が存続し続ける権利を認めるという新しい発想です。
そこには動植物を含めた様々な生命の権利を適切に評価するとは、どういうことなのか・・・などの様々な議論をそれぞれの分野の専門家を交えて、地域一丸となっておこなっているそうです。
当然、自然というシステム全体が人類の行っている、様々な行為に対して具体的に評価し、訴えてくることはありません。結果としての現象を人間自身が、それぞれの判断で評価を下しているのが現実です。
日本国内における高度経済成長期の「公害問題」などは、生活の利便性の追求や新しい文明への憧心によって自然というかけがえのないシステムをないがしろにした結果です。
自然の意見は聞くことはできません。
だからこそ、「意見の違い・・・」「解釈の違い・・・」「優先順位の違い・・・」から色々なことが起きてしまいます。
「見ているものは同じでも、見えているものは違う・・・」という言葉があります。言い換えれば、それぞれの立場で都合の良い解釈を主張し合っているというような事は、こと自然のような複雑なシステムに対しては起こりやすいと考える必要があるのだと思います。
今までも、外来生物などの特定の動植物による環境破壊への対策を振り返っても、問題となる生物に対する捕食者を増やしたり、移入するなどの対応において長期的視点で成功したという事例はほとんど見られないのが現状です。
自然の権利を守る手段の一つとして、河川や湖沼などの個別の生態系を一つの人格として考えるという考え方は、理解できますが、「自然の変化」は、様々な要因が複雑に絡み合った結果であるということと、その変化のタイムスケールも多様で、かつ長いものです。
ということからすれば、まず私たちが考えなければいけないことは、意見を主張しない「自然」の意見を聞き取るチカラを私たちが身に付けることで、本来の自然の価値を理解することが先なのかもしれません。