2023年11月17日
「みんなで考える」と「みんなで決める」

「みんなで一緒に考えましょう・・・」というフレーズは、教育の場面や報道メディアなど、日常生活をしていく中でよく耳にする言葉の一つです。
このフレーズは、一見、周りへの配慮があり、より良い選択であるというような響きに聞こえる一方で、「自分で考えないで、みんなに合わせましょう」という意味合いに置き換え、自身の考えに対しての「意思表示を抑え、同調する・・・」という流れに陥ってしまう人も多いのではないでしょうか
特に、自身にとって関心が薄かったり、影響があまりない・・・と思われることなどに対しては、その傾向はさらに強くなってしまうと思います。
こうなってしまうと、「みんなが考える・・・」と思ってしまえば、自身も含めて一人一人は考えなくてもいいことになってしまいます。
さらに、自分の考えは、「みんなの考えとは違うし・・・」となることで、問題が起きたときや、課題が顕在化したときなどにでも、「私は知らない・・・」、「みんなで考えたのだから、私が責任を負う必要はない・・・」ということになります。
この「みんなで考える・・・」という方法は、「自分は考えないので、誰か指示してください・・・」ということにも通じるとともに、責任転嫁の風土への遠因にもなってしまうのかもしれません。
そして、「みんなで考える・・・」が、「みんなで思い込む・・・」というような、思考のバイアスにもつながってしまいます。そのためにみんなで考えていることと「違う現実」が起きたときに、現実の方に対して、「間違っている・・・」と考えてしまう傾向が強くなるとの指摘もあります。
「みんなで考える」と言いながら実際には、その場の空気を読み、他の「みんな」と、つかず離れずの距離感を保つために横並びで目の前のことに対して条件反射的に同調する・・・という行為を「考える」、としているのであれば、「考える」という言葉に、「みんなで」という言葉がつくだけで、「考える」の意味は、まったく違うものになってしまうのではないでしょうか。
そもそも、考えるということは多くの知識や経験をもとに、判断力を培ったり、知見を広めることにもつながりますので、「個」に寄与する部分が多いと思います。また、日常生活で見過ごされているような当たり前のことは、意外に、複雑に出来ているものです。
当たり前のことが当たり前ではない・・・という気づきには、「自らが考え、学ぶ・・・」ということは必要不可欠な事なのだと思います。
そのように考えれば、個々の考えを調整・集約し、「みんなで決める」ということのほうが大切であるとともに、より良い事なのではないでしょうか。
すなわち、合意形成です。
合意形成には、全会一致という意味だけではなく、「本来の私の考えとは違いますが、このチームのやり方としては、これが正しいと思って、全体の方針に従います」ということが理想の形です。
そのためには、同調ではなく、様々な考え方からより良い選択ができるとともに、納得できるための充分な説明と適切な時間が必要です。
また、「様々な考え方・・・」といっても、インターネットや都市伝説的な極端な意見に反応するかのように主張するケースも見受けられますが、これも狭いコミュニティの中での同調ともいえるのかもしれません。
このようなケースは、何が「事実」で、何が「勘違い」なのかを認識できず、「みんながどう言っているか・・・」という認識しかできない。
みんなが気づくまで気づかず、みんなが気づいた瞬間に「実は、自分もそう思っていた・・・」と手のひらを返したように主張するようなケースもよく目にすることのひとつです。
「みんなで一緒に考えましょう・・・」というよく聞くフレーズ、知らず知らずのうちに流されている同調圧力のシステムになってしまっているのだとしたら、一度考え直してみる必要があるかもしれません。
Posted by toyohiko at 08:54│Comments(0)
│社会を考える