2023年12月28日
罪悪感と恥の意識

「失敗は成長の糧である・・・」というような表現をよく耳にするかと思いますし、失敗から学ぶことが多いということも事実かと思います。とは言え、「失敗を素直に学びに変えられるか・・・」というと、「これは別の話・・・」という想いの方も多いのではないでしょうか。
失敗をした時の心理状態を考えてみると、多くの人が「罪悪感」を感じてしまうと思います。
アメリカの社会心理学者ロイ・バウマイスター氏は、「罪悪感によって落ち込んだ人は、そういう気持ちを和らげるために、パートナーや同僚のために尽くすようになる」と述べています。
そして、罪悪感によって、「自分の行動が人にどういう影響を与えるかを学び、次からは気遣いができるようになると考えれば、失敗をした時に落ち込んだとしても、長い目で見れば自分の成長にとって、それがよかった・・・」という流れになればいいのですが、実際にはそう上手くはいかない・・・というのが現実です。
人間関係などの分野を専門とし、その研究が高く評価されているジョージ・メイソン大学トッド・カシュダン教授らは、著書「ネガティブな感情が成功を呼ぶ」で、「罪悪感」の有効性を活かすために、「罪悪感」と「恥の意識」を分けて考える必要性を訴えています。
つまり、同じ行為をしても、「罪悪感」ではなく、「恥の意識」を持ってしまうことで、問題はむしろ悪化するというのです。そして、恥をかかせればかかせるほど、その人の不安と攻撃性は増大し、周囲から孤立していき、さらに、「罰として恥をかかせるような行為が、悲惨な逆効果を生み、やめさせようとする行動を、かえって助長することにつながってしまう・・・」と考える必要があるというのです。
ここで、「罪悪感」と「恥の意識」との違いについて考えてみましょう。
それぞれに対する、心理的な状態を次のように表すことが出来ると言います。
「罪悪感」とは・・・
自分の行為とそれによって傷ついた人たちに注目する
自分がしたことを不快に思う
なぜ自分はあんなことをしたのかと自問する
心の痛みはそれほど強くない
悪い結果に対して自分には何かができると思う
緊張感と後悔を覚える
ダメージを修復し、 償いをしたいと思う
悪かったのは自分だと思っている
「恥の意識」とは・・・
自分という人間全体に注目する
自分自身を不快に思う
なぜ自分はあんなことをしたのかと自問する
強い苦悩と欠陥意識にさいなまれる
悪い結果に対し、 自分は何もできないと思い込む
身をすくめ、現実を避け、逃避したいと願う
隠れたいと思い、 それができないと (自分あるいは他者に対し) 攻撃的になる
他者を責める (スケープゴートを探す )
この二つを比較してみますと、「罪悪感」は、「過ちに対する自責の念」であり、「自分の行動が不十分ないし誤りだったと感じることによる自己非難」としています。
いっぽう、「恥の意識」は、別のものになります。人が恥の意識を覚える時には、単に自分の行為を過ちや悪行だったと考えるだけではなく、「自分自身を基本的に悪い人間と感じる」ことが大きな特徴と考えられています。
つまり、「罪悪感」の場合は、悪かったという認識は特定の状況に限られるのですが、「恥の意識」は、自分という人間そのものをネガティブに捉えてしまうのです。
ジョージ・メイソン大学の心理学教授であるジューン・タングニー氏は、犯罪抑止のカギは「罪悪感」を含めた道徳感情ではないかという仮説を、10年以上の長きに渡り研究し続けています。
そして研究の結果、「罪悪感」を覚える傾向のある服役囚はそうでない人たちよりも、過去の過ちのために深く苦しんでいることを明らかに するとともに、 彼らは進んで罪を告白し、謝罪し、自分が起こした問題の後始末をしようとする。
そして、出所後も、再び悪に手を染めて逮捕されることも少ないというのです。
さらに、道徳心に罪悪感が加味されると、人は対人関係に気を配る思いやりのある人間になろうとし、他者への攻撃などをすることが少ないという調査結果が報告されています。
人格というのは「誰も見ていない時にその人が何をするか」に表れると考えると、「罪悪感」という道徳感情は人格の基礎を形作るものとして価値のあるものと考える必要もあるのかもしれません。
そのためにも、その人を苦しめ、自分を嫌いになり、変わりたいとか身を隠したいと望み、時には自分を消し去りたいと思うような「恥の意識」ではなく、「罪悪感」のみを感じるために3つのアプローチがあるそうです。
まずは、「何をめざすのかを常に考える」ことです。その失敗を当人の価値観の欠如、愚かしさ、欲深さなどの「性格的欠陥」と、ごちゃ混ぜにして個人攻撃をしてしまうことも多いと思いますが、誰もが、「欠陥人間・・・」というような扱いをされれば、「恥をかかされた・・・」ことになります。
しかし、具体的な行為の間違いについての指摘であれば、心を開いて受け入れられます。更に、その人の強みや優しさについても折に触れながら、その長所を強調した上で、過ちの責任を指摘することで、相手も納得し易い状況になります。
次に、「共通の理解を持つことから始める」ことです。誰かが間違いを犯したら、まずその人の価値観や目標を理解していることを示す。その上で、相手の行動はその価値観に合わないもので、別のもっと健全な行動がふさわしいと丁寧に説明する。
そして、こちらの不快感を伝えて気持ちを共有することです。これは、そんなに簡単ではなく、相手の間違った行為を見逃してしまった方が楽だと思うかもしれませんが、 過ちを指摘することは、後悔している当人にとってはもちろんのこと、する側にとっても気分のいいものではありません。
しかしながら、そのフィードバックを定着させて相手の今後の行動を改善させようと行動し、自分もいい気分ではないということを率直に伝えることは有効であると考える必要があります。
最後に、「相手をコントロールするのではなく、自主性を持たせる」ことが大切になります。人は、「何かをしろ」と言われることに対して、一般に考えられているほど嫌がらないと考える必要があります。
例えば、家族から「ゴミを出して」と言われれば、皆さんは気持ち良くできますが、ゴミ袋を置く位置が悪いと言われたら不愉快だし、それをどうやるかをこまごま指示されることについては、不快な気持ちになります。
人々のモチベーションについて研究している多くの学者たちは、人間の基本的欲求のひとつで、衣食住のニーズと共に大事なものは、「自分の生き方を自分で決めたい」という欲求であると述べています。
失敗を今後に活かすためには、この後どうするべきかまで指示せずに、行動を改めるためにどんなことができるかを、当人に考えさせることを大切にすることも有効なことの一つだそうです。
「恥をかかされた・・・」という感情は、その相手のみならず、ひいては社会という実体のないものにまで広がり、肥大化する・・・ということなのであれば、「罪悪感」と「恥の意識」の違いをよく理解することは大切なことなのだと思います。
Posted by toyohiko at 16:45│Comments(0)
│社会を考える