2024年02月09日
「水の育て方」について考える

「水」と言えば、「透明感がある・・・」、「清らか・・・」、「すべてを洗い流す・・・」というような生命の源としての幻想的なイメージがある一方で、治水という言葉に象徴されるように、「すべてを飲み込む・・・」ものであり、あらゆるものを壊していくのも「水」です。
そもそも、多くの物質は液化、さらに気化するに従って体積が増加するという性質がありますが、「水」という存在は、液体から個体になるときに体積が増加するという特異的な性質を持っていると同時に、地球上のありとあらゆる生命体の源であるという、もっとも身近であり、そして最も不思議な存在のひとつでもあります。
生物の体内にあるものを除いた、地球上にある水の内訳をみてみますと、海水97.5%、北極や南極の氷などの固体化された淡水1.75%、そして飲み水になる可能性がある淡水は1%しかないと言われています。
その1%のうち97.5%が地下水、残りの2.5%が川や湖などの目にすることのできる水で地球全体からすると0.025%しかないのです。
その中の地下水と言われる、帯水層や伏流水などの枯渇に対する危機感が高まっています。このような帯水層と呼ばれるものは地中に浸み込んだ雨や雪が長い時間をかけて蓄積したものです。
この長い時間によって、ある時は水の浄化作用につながっていたり、ありとあらゆる微量元素を水と一緒に必要なところに運んでいく・・・という役割も同時に果たしてきました。
水の循環ということで考えれば、大気圏の中では、水の存在する場所や状態が違うだけだから大丈夫・・・と考える人もいるのかもしれませんが、果たしてそれでいいのでしょうか。
人間の生活を振り返ってみますと、衣食住全ての分野で地球上の様々な資源を活用し、発展を遂げながら富を蓄積してきました。言い換えれば、このような富の蓄積は、自然からあらゆる恩恵をいただき続けたわけなのです。その典型的な社会システムの一つが資本主義と言えます。
生態系は、複雑なネットワークを成しており驚異的な恒常性と回復力を持っていますが、近年の種の絶滅の速度などを鑑みれば、人類の営みによってなされた犠牲は回復力の臨界点を越えてしまったと考える専門家も多くなってきているなか、ポスト資本主義に対する期待も高まりつつありますが、具体的な方向性を示しきれないのが現状です。
生態系を中心とした地球の持続可能性を考えれば、回復力の臨界点を越えるまで痛めつけられても具体的な主張をできずに耐え続ける自然との関わり方を見直す時期なのかもしれません。
確かに、日本国内での度重なる豪雨災害や、世界的にも問題になっている干ばつからくる山火事・・・、気候変動という枠組みをどのように捉えたらいいのかさえも判らなくなっているような脅威も多くなってきているような気がします。
これらの現象を、「人類の社会生活に対する主張」と考えることも出来るかもしれませんが、人類が、この現実を主体的にとらえ、行動に移すまでには、大きなハードルがあることには変わりはありません。
これらのような、気候変動についても大きな影響を及ぼしているのが「水」の存在です。
地震大国と言われる、日本国内での地震の被害に、流動化や地盤沈下がありますが、これらのメカニズムについても、「水」の存在が大きく関わっています。
現在、世界中で「川」や「山」などの自然環境に関する法人格化が進んでいます。「企業を法人と見なすのであれば、川やその流域に人格を与えてもいいはずだ・・・」という考え方です。
実際に、2017年にニュージーランドのワンガヌイ川に法的人格を認める判決が下されています。このワンガヌイ川は、ニュージーランドで3番目に長く、 マオリ族が古くから神聖視してきた川で、1870年からこの川をめぐる権利を主張し続けた結果です。
また、川だけでなく、同年ニュージーランドで同様の法的人格を、タラナキ山に対しても法人格を認める判決が下されたとともに、その数年前には、テ・ウレウェラ国立公園が法的人格を認められ、政府が管理する国有財産ではなく、自立した存在になっています。
ニュージーランドでの判決に続き、インドではガンジス川とヤムナ川に法的権利として 「生きた人間に付随するすべての権利、義務、法的責任」を与えられ、コロンビアでは、最高裁判所がアマゾン川に法的権利を認めています。
さらには、エクアドルで2008年に制定された憲法では、自然そのものに、「その重要なサイクルを存続、持続、維持、再生する」権利を認めています。
そして2010年には、ボリビアで、「母なる大地の権利法」が制定され、「母なる大地とは、相互に関連・依存・補完し、運命を共有するすべての生命システムと生き物からなる不可分のコミュニティによって形成される動的な生物システムである」と認めています。
ヨーロッパでも、フランスでロワール川に対して法律上の人格を持つと仮定し、環境保全団体が代理人となり国を相手取って訴訟が起きています。
従来では、それぞれの種に対して様々な法律が存在し、その法規定によって判断していましたが、このケースは、「ロワール川」という固有の特徴をもった生態系全体を評価し、「川」を中心とした生態系全体が存続し続ける権利を認めるという、自然の法人格化という先進国での動きのひとつです。
これらの権利は現実的でなく、「美辞麗句にすぎないのではないか・・・」というような問題を解決するためにも、動植物を含めた様々な生命の権利を適切に評価するとは、どういうことなのか・・・などの様々な議論をそれぞれの分野の専門家を交えて、地域一丸となって行っていく必要があります。
そして、これらの法人格化によって、人間に害を及ぼす行為が起訴されるのと同様に、今後、これらの川に害を及ぼす行為はすべて起訴される可能性を有する国が実際に表れてきたのです。
声を上げられなくても、地球には一つの人格として、「生きて存続する権利、尊重される権利、バイオキャパシティ(生物生産力)を再生し、その重要な循環とプロセスを維持する権利」があると考えられる社会の実現・・・。
身近な、「水」の存在を通して、地球環境のみでなく人間社会全体を考える・・・
そして、その考えをもとに、身近な「水」に対して自身のできることを実践する。
「水を育てる・・・」という考えかたも次のステージにシフトしていくためにも、一人一人の小さな実践の積み重ねが必要なのだと思います。