2024年05月10日
治水と環境の持続可能性について考える

防災・減災という言葉があちこちで言われる中、私たちの命を水から守るという考え方は重要な位置を占めています。そして、豪雨災害や台風、さらには河川の氾濫など様々な気象現象によってもたらされる水の脅威は直接的に私たちの生活に影響を及ぼします。
日本の治水の歴史を考えた時に、代表的な治水事業は利根川の事例です。
ご存知の方もおられるかもしれませんが、そもそも利根川は太平洋へ直接注ぐ川ではなく、現在の江戸川、中川筋を流れて東京湾に注いでいました。
そのために、関東平野は、荒川、利根川 渡良瀬川などの洪水が多く起きてしまう、不毛の低湿地だったとされています。戦国の世に豊臣秀吉が徳川家康を現在の首都圏である関八州に領地替えをし、そこに封じたのも関東平野がそうした不毛の地であったからだといわれています。
現在の利根川が関東平野を横断して、銚子まで東へ向かうその流路は、江戸時代の治水の足跡であり、江戸文化の象徴とも言われています。
そもそも、森林面積の割合が大きい日本の河川には、急峻で短いという特徴があります。
それゆえに、降り注いだ雨が、一気に海まで到達してしまうのです。その一方で、雨が降らない時には枯れてしまうことも多い「暴れ川」とも言われてきました。
その「暴れ川」の両岸に位置する比較的平坦で低い土地には、洪水時に河川が氾濫して流れ出した水が浸水してしまう氾濫原と言われる地域が広がるという特徴があります。
その氾濫原であるがゆえに、そこには豊かな水資源が約束され、その一方で、氾濫原であればこその水害が宿命的ではありましたが、日本人はその暴れ川を巧みに治めて、そこに独特な文化を築きあげ、主たる土地利用を求めてきたのです。
交通や水を中心に都市問題や環境問題に取り組んできた富山和子氏は、著書「水の文化史」で、「治水」について、「日本の近代化の基盤であり、同時に現代人と自然とのつきあいかたの象徴でもあった。治水を抜きにして日本の文化は語れないが、治水を見ればその時代の文化の体質は理解できる。治水とはそれほどに重い意味をもつ。」と述べています。
古くは、治水=川を氾濫させないための護岸工事ではなく、降った雨を土に返そうとする思想であったとされています。
かつて、武田信玄が霞提で、また加藤清正が越流堤で治水に卓越した技術を用い、洪水時に水を川の外へあふれさせることで、下流を鉄砲水の被害から救ったという逸話は現代にも語り継がれています。その考え方も、降水を可能な限り土に返し、あるいは土に留めようとするものでした。現在でも豊川河口域で残っている霞堤もその考え方による治水の一つです。
水の恐ろしさは、水の量そのものではなく、水の勢いによる破壊力と、濁りと共に流れ来る土砂になります。「治水は治山にあり」という言葉があるように、かつては、治水の一環として、森林や竹やぶは、あふれ出る水の勢いを弱め、同時に土砂を渡すために山の保全が明確に重視され、遊水林、遊水地、遊水田などを配することで、急流河川を、ゆるやかにすることが人々の生活を守る行為そのものだったのです。
また、水田も治水にとっては大きな役割を果たしてきました。
水田は、降水を貯える遊水地として・・・、さらに、その水は地下水となり、やがて下流へ流れ出て川の水になります。また、川から引いた水も、やはり地下水となり、川の水となり、その水は更に下流でも使われるのです。
これが、水を使わない畑作ではなく、水田だったからこその理由があるような気がします。
このように、水は水田を通じて川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムそのものなのです。
今日のように都市化が進み、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込んで汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」という水循環に変化していることに多くの人たちは気付いているでしょうか。
人々は、生活の利便性を追求するあまり、かつては肥沃な土の源になっていた氾濫原の土地を切り開いたり、河川の縁辺地に居住するようになり、現代における治水の概念は、水を河川敷の中に閉じ込める・・・という方向に大きく舵を切られています。
現在の中小河川の多くは、土砂の逃げ場がなく、放置することで河床に土砂が堆積してしまい、場合によっては、定期的な浚渫工事が不可欠となりつつあります。
その浚渫工事によって、もとに戻りようのない生態系の攪乱が起きている可能性があるのです。
また、水田には動植物含めて5,470もの種が存在するといわれています。
こうして、治水という視点で考えてみても、私たちの水との関わり方の変化の大きさは、生態系の持続可能性に大きな影響を与えていることを考える必要があるのかもしれません。