2024年05月17日
治水と経済社会との関係を考える

現代における治水の概念は、川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムから、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込み、汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」に変化してしまったことは、富山和子氏が著書「水の文化史」でも言及している通りなのだと思います。
ここで、考えなければならないのが「何故、このような変化を多くの人たちが望んできたのか・・・」ということです。
確かに、身近な生活の利便性ということで考えれば、どこにいても安全な水が蛇口から出てくるという状況は、今や日常生活の中で手放すことのできない生活基盤を支えるもののひとつです。
そのためには、中山間部に生活している方はまだしも、都市部に生活している人にとって、身近な河川から取水し飲料水にするということは、衛生的にも科学的にも非現実的であり、遠く上流部のきれいな水を大規模なインフラ設備を利用することで、水の恩恵を得ることが出来ているという現実もあります。
日本では、江戸時代を境に城下町というまちづくりが盛んになってきました。そして、城を中心に多くの人たちが、生活ができるようなインフラ整備が進んできたのです。
その中でも、重要視されたのは物流であり、その当時、物流の主役であったのは河川を中心とした水です。このように水運と呼ばれるモノの流れができあがることで上流部から、食料や絹や綿などの衣食住に関わるものが集まるようになり、下流部に富が形成される・・・という流れが出来上がってきたのです。
そうなってくれば、その「富」を上流からの水害から守るために・・・、という発想が大きくなってきます。
そして、明治時代に入ると新たに鉄道という物流インフラが登場し、水運がどんどんすたれてきます。さらに、鉄道の敷設に伴う建設ブームも起き、木材需要の増加とともに山林の伐採が進み治水の元である治山もままならなくなってきます。
しかしながら、下流部の富の集中と鉄道への物流インフラの転換などの理由で、世界中の治水の基本的な考えの一つである、「川の緩やかさの確保・・・」という概念はなくなり、降水を一刻も早く、海へ流すための連続堤防方式や高水工事と呼ばれる大きな転換が起きてしまったのです。
そのような、水は河川敷内に閉じ込め海まで一刻も早く流すという考え方は、明治29年の河川法制定を機に決定づけられたとされています。
利根川を例にとって考えれば、東京という大都市圏の富を守るために、経済という取引のシステムのもと中山間地域の水、土、そしてその恵みの果実である農産物をさしだすことで成り立つシステムがすでにその時代に出来上がっていたと考えることもできます。
かつての氾濫原がコンクリートで固められてしまったいま・・・、都市部には、水によって肥沃な大地をつくり上げたり、土壌によって、水を浄化するという生態系本来が持っている基本的な循環機能は破綻してしまっています。
だからこそ、その機能が残っている中山間地域からの恩恵を得るしかないのです。
このような治水の影響は、海にも影響を与えています。
下水道が発達した現在では、河川から海に流れ込む水は、「荒廃した山から流れる水・・・」に変わりつつあります。かつての栄養豊かな水が育んだ海の恵みも漁獲高の変化という直接的な影響を与えつつあるなか、漁業従事者による山林での保全活動も増えつつあります。
確かに、人々は、生活の利便性を追求していく過程で、河川との付き合い方を転換し、河川敷付近での居住も含め、多くの富を手に入れてきました。
しかし、その決断は、「人間自身が様々なものを天秤にかけながら自ら下した・・・。」という認識を、自然災害の脅威が高まりつつある今だからこそ、考える必要があるのだと思います。