2019年09月14日
「なりたい自分」について考える

突然、「なりたい自分は、どのような自分ですか・・・」という質問を投げかけられたとしたらどのような答えをするでしょうか・・・? また、この質問親や学校の先生であったり、会社の上司の場合は、どのような思いで「この質問」の答えを探すのでしょうか。
多くの場合、質問者の期待に応えようと「なりたい自分」ではなく「目指さなければいけない自分」の姿を無理やり探し出そうとしてしまうのではないのでしょうか。
「何者かになる・・・」という言葉がありますが、この言葉の裏側には、言い表しようも無い焦りとプレッシャーのようなものを感じることがあります。
これは、何者かになろうとしない限り応援してもらえないとか、一人の人間として認めてもらえないと思い込んでしまうことにあるのではないのでしょうか
そもそも、何者かになろうとすること自体が自分にとって自分をより大きく見せる必要があり、そのことは自分にとって嘘をつくことにつながります。その結果、ある種の違和感と戦うという非常に苦しい状況の自分自身を追い込むことになるのかもしれません。
だからこそ、その「何者か」に対して「薄っぺらさ」を感じる人もいるでしょう
この「薄っぺらさ」は、「親の期待」「上司の期待」に応えることで、ぼんやりとしている「なりたい自分」とはかけ離れたところに行ってしまうことのイメージから来てるのかもしれません。
その一方で、「なりたくない自分」は意外にはっきりしているのではないのでしょうか。
「病気で寝たきりになりたくない」とか「自分自身の孤立によって、ご近所トラブルの当事者になりたくない」、「歳をとってからも家族と笑顔で過ごしたい」など、多くの人たちが共通に思う事もたくさんあるような気がします。
これらの、「なりたくない自分」にならないという視点で考えた時に、「なりたい」という意思は意外に明確にあったりすると同時に、「なりたい」の先が、特別な地位や名誉などとはあまり関係のないところにあるということに気づかされます。
しかし、多くの人は、「何者かにならなくてはいけないというプレッシャー」と闘い、他者意識の中で苦しみ、コントロールの効かない強い承認欲求によって自身の方向性を誤らせる。というような、悪循環に振り回され、「何者かになろうとしている自分」によって、「なりたくない自分」を引き寄せているのかもしれません。
普通に笑顔でいたい・・・
普通に健康でいたい・・・
普通に社会とつながっていたい・・・
普通に誰かの役に立ちたい・・・
では、いけないのでしょうか・・・?
もちろん、「なりたい自分」は人それぞれ違いますので、その違いを理解してもらい、お互いに良い形で受け入れることは大切なことです。だからこそ、自分の考えを正確に伝えたり、相手の伝えたいことを相手の考えの通りに認識するという関係性が必要になってきます。
言い換えると、「相手にすべて合わせる」ということでは、「なりたくない自分」に近づき、本末転倒になってしまいます。当然のことながら「なりたい自分」は自分一人ではなしえません、様々な価値観を持った人たちとの関係を楽しむには、自分自身の個性も多様性の一つとし、お互いが頼りあえる中で、ルールのようなものを自分たちで決め、必要に応じて自分たちでアップデートできる関係性が不可欠です。
「平穏且つ普通である」ことにもっと誇りを持つ、そのための相互理解を大切にする。
これが「なりたい自分」への第一歩なのかもしれません。
Posted by toyohiko at 15:03│Comments(0)
│社会を考える
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