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2022年12月09日

自分の健康は誰が守るのか

自分の健康は誰が守るのか


 「健康経営」という言葉が一般的になるようになり、目の前の成果だけを求めるのではなく、長期的な視点で一緒に働くチームのメンバー一人ひとりの「健康」についても、お互いに配慮する必要がある・・・というような考え方が広まってきました。

 これは実際に、過労といわれるような心身の状態は、命に関わる事故につながる可能性も否定できないという現実があるからです。

 「24時間戦えますか・・・!」というお互いを過剰に鼓舞するような表現についても、「昭和・・・」という言葉で、時代錯誤と揶揄するような変化が現れつつあることも事実です。

 いうまでもなく、「健康」の意味するところは、病気や怪我をしていないか・・・というような身体のコンディションだけでなく、メンタルに関することや、社会的な安寧がもたらす安心感もが含まれる広い領域になります。

 例えば、「休みにくい・・・」とか、「早く帰りにくい・・・」というような心理的にネガティブになってしまうような状況を、許容する風土と実行に移すことが出来る仕組みの構築は欠かせません。
 「休みにくい・・・」「早く帰りにくい・・・」などの心理状態に陥ってしまう理由を明確にしていきながら、一つずつ丁寧に解決していく必要があります。
「自分しか知らない、出来ない・・・」という仕事をなくしていくというようなことも、解決方法の一つです。

 その一方で、理解や風土が出来てきたとしても・・・、体調不良等の頻度の問題については、また別の話になります。

 プロスポーツチームの事例で考えると分かりやすいと思いますが、怪我や体調の不良は、試合出場の機会に直接影響します。すなわち、他の選手に交代しなければなりません。
 もちろん、試合に出るだけが全てではありません。しかしながら、その選手にとって試合に出場し活躍することで、チームに貢献していると考えた場合に、試合に出られなかったことで貢献できなかったことになります。
 当然のことながら、出られない状況が・・・長く続いてしまえば、チームに対して役にたつことがなくなってしまい、結果的にそこでの居場所まで失ってしまうことにつながりかねません。

 「試合に出て活躍する役割」から、役割を変えることで貢献し続けることも出来ますが、そのままでは居場所はなくなってしまいます。

 私たちは結果が出ないときについ周りの責任にしてしまうことがあります。これは、自身や家族の健康に関することも同じです。

 「好きで病気になったわけでは無い・・・」「事故なんだからしょうがない・・・」というような想いになる方もいるかと思いますが、病気にも生活習慣病という言葉があるように、日常の習慣によってリスクを減らすことはできます。

 例えば、若い世代を中心とした朝食の欠食率の高さについては、時間栄養学の概念が導入されたことによって健康に対するリスク要因としても度々話題になっています。

 様々な、アンケート調査などの結果によれば、朝食欠食の大きな理由として、「時間がない・・・」「朝、お腹がすかない・・・」などが挙げられています。

 しかしながら、ここに挙げられている理由とされているものは、実は、原因ではなく、「原因からもたらされた結果」であるという捉え方をする必要があります。

 この場合の原因は、起床時間も含めた就寝時間の問題や、睡眠の質に対するリスク要因になる就寝前のスマホやゲームをしてしまう習慣であったり、間食もふくめた就寝前の食事の量や時間帯が消化器官に対して負担をかけてしまうライフスタイルという事になります。

 このような事例を考えても、「私は悪くないんだ」と言わんばかりに訴えても、すべてを周りの責任にしていると映ってしまうことの方が多いのかもしれません。

 このように周りの責任にしてしまうという事は、「自分以外の誰かの責任・・・」であり、「自分は被害者である・・・」という主張をしていることになります。
 このような、発想になってしまうことで、その責任の先を探すことに一所懸命になってしまい周りの人たちを責めてしまうこともあり、その結果として、人間関係をも悪化させてしまいます。

 さらに、自分を被害者にすることで何か事態が変わるかというと、何も変わらないと思います。

 そして、「私は変わらない・・・」と宣言している事と同じになってしまいますので、人間関係を悪化させるだけでなく、「孤立」にもつながってしまいます。

 先ほども言いましたように、健康の様々な、要素の中に社会の安寧というものがあります。社会という大きな括りになるとわかり難くなってしまうかもしれませんが、人同士の平穏な関係性です・・・。

 「この人の幸せを・・・」とか「あの人に会いたい・・・」というような気持ちそのものが生きる活力の重要な要素であることは言うまでもありません。

 もちろん、「病気や怪我をしてはいけない・・・」という事ではありません。周りの人たちとのつながりを大切に考えた時に、「出来ることをやってこれたのか・・・」「被害者意識に陥ってしまい・・・何かのせいにしていないか・・・」という事なのだと思います。

 健康と言っても、身体は一人ひとり全て違います。「痛み」というシグナル一つをとっても、そのシグナルに対する感受性も人それぞれです。だからこそ、本来であれば自分の身体は自分自身が一番わかっている・・・というものであり、自分しかわからない・・・というものでもあるのです。

 だからこそ、健康であり続けるには、自分自身の心身の状態を受け入れて、次につなげるチカラが必要なのではないでしょうか。

 そして、
 「自分の選択はどこが間違っていたのか・・・」
 「自分の考えのどこがよくなかったのか・・・」
 「偏った、思考の癖・・・になっていないか・・・」
 「では、どういう選択をしたら、うまくいくのか・・・」
 「今回の失敗から学んだことは何だろうか・・・」

 と解決策につなげることで、本当の意味での「自らの健康」につながるのだと思います。




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Posted by toyohiko at 16:33│Comments(0)社会を考える
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