2012年08月03日
それでも地球は動いている

「それでも地球は動いている・・・」この言葉は、1600年代の天動説が当たり前の時代に、コペルニクスの地動説を主張し続けたガリレオ・ガリレイが投獄され、宗教裁判の時に言ったとされている有名な1節です。この言葉自身を、ガリレオが本当に言ったかどうかという議論もあるようですが、科学と人間社会のあり方という意味では象徴的な出来事ということで、今日まで語り継がれているのだと思います。
現代の科学において地動説というのは当たり前のことになっていますが、いままで前提として、しかも周知の事実として「当たりだと思ってきたことが、実は違っていた。」という時の人々の動揺や社会への影響力というのもを考えると、想像をはるかに超えるような大きな力が働いてしまうということを想定しておかなければいけないような気がします。
私たちの小さい頃は、「十円玉についてる青い緑青は毒だよ・・・」と教えられていました。よくよく考え直してみれば銅という素材は、世界中で水道管として使われている事も明らかだし、いまでは、戦時中のいろいろな事情によって作為的に流された情報だったらしいという説が有力視されています。
物事の科学的な解明というのは、日々進化しているもの・・・
と考えるのが普通のことであるべきなのではないでしょうか。特に専門家といわれる、その分野での研究に没頭している人たちの意見が分かれているという事象に対しては、その時点で不確定要素が多く、未解明な部分がたくさん存在するということを示している事なのだ理解した方が良いのかもしれません。
しかし、いつの間にか社会が、物事の真偽をシロか黒かにはっきりと分けないと許さない風潮になってきたような気がします。たぶんそれは、その真偽を元に経済を動かそうとしている人たちが増えすぎてしまったからなのではないのでしょうか。
だから、いまさらその真偽を曖昧にされたり、ましてやひっくり返ったりすると、人によっては生活基盤すら揺るがしかねない事態に陥ってしまうということになるからです。
50年前に、原油の埋蔵量は50年といわれてました。50年経ったいまも、埋蔵量は50年といわれています。それは技術革新によって可採埋蔵量が増えたからだという人もいれば、石油は世界的に投機の対象になっているのだから、正確な埋蔵量が公表されることは無い。という人もいます。
つまり、経済という要素が入ってくることによって、そしてその経済規模が大きければ大きいほど、物事の真偽というものが不透明になってしまうということも言えるのかもしません。
科学の世界では、エビデンスという言葉を使います。単に学会に発表しただけでは、しっかりとしたエビデンスというように見なされないといわれています。科学的な事象に対して十分な再現性があることが大切だとも言われ、イギリスのネイチャー誌などのような学術論文としての学術誌が評価されているのは総合的な判断をもとに掲載内容が精査されているからともいわれています。
また、科学的に高度になればなるほど、我々一般の人たちにとっては理解が出来る代物ではなくなるのは当然のことであり、さらに、いろいろな統計手法を用い、自分たちが理解してもらいたい内容を強調することもあります。ましてや、普通の人がその内容を自身で検証すると言ったことなどはほとんどありません。
言い換えれば、普通の人たちにとって「科学的な現象」というのは、「教わったこと」となるわけです。「教わったこと」ということになれば「教え手」と「受け手」つまり、師匠と弟子というような人間関係の上で成り立っている情報の共有ということになりますと、この「教わったこと」という「こと」の内容がさらに複雑になってしまいます。
このような社会の中、科学的情報の真偽もさることながら、「本当は、まだ未解明の部分が多いのかもしれない・・・」という前提で、ものごとを判断する能力が情報のリテラシーとして求められているのかもしれません。
Posted by toyohiko at 09:10│Comments(0)
│社会を考える
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