2011年09月30日
竹の花の咲く理由

「竹の花」をご覧になったことのある方はいらっしゃるでしょうか?周りの人も含めてあまり見たことが無いというのが普通だと思います。
花というのは、受粉をし種子をつくるための過程のひとつであることは、皆さんもご承知のとおりです。そのために「花」は華やかであったり、いい香り(時には人間にとって強烈な臭いのするものもありますが・・・)を発することによって他の生物の力を使って受粉の手助けをしてもらうのです。
しかし、竹の場合はタケノコでお馴染みですが、根が地中を伝わって次の個体に遺伝子を引き継ぐという、いわゆる地下茎という方法で通常繁殖しているために、花をほとんど見たことが無いというのが現状です。
よく、「竹の花が咲くとその竹は枯れてしまう・・・」言われるますが、何らかの理由でそこの環境に生存することができないと判断したときに竹は花を咲かせ、種子という形で遺伝子を残すのだそうです。
つまり、自身の生命の危機を感じない状況であれば花を咲かせる必要が無いということにもなります。ずいぶん昔の話ですが、工場からの高栄養の廃水が、間違って付近の田んぼに流入した結果、稲がほとんど穂をつけなかったという話を聞いた記憶があります。
この花の話を人間にたとえてみると、どうも同じことがいえるような気がします。
「人生で、ひと花咲かせたい!!」という言葉があるように、そこには夢や希望があるはずです。そこで咲かせた花が結実すれば、社会的遺伝子となり社会に影響を残すということになるのだと思います。
しかし、「ひと花咲かせたい!!」と思わなければ、実を結びようがないわけです。竹でいえば生存の危機感が無く、すくすくとタケノコだけで増えていけると信じていれば、花を咲かそうという発想に本能的にも至らないということになるような気がします。
また花も、いきなり咲く訳ではありません。一定の環境が整わなければ良い花も、ましてや良い実は実らないものです。植物でいえば、良い実をつけるには、水や肥料のやりすぎは往々にしてよくないそうです。これは、人間にたとえてみれば、「努力」とか「我慢」という言葉が当てはまるのだと思います。
この「我慢」という言葉、東日本大震災以降、日本人に対して世界中から「我慢強い」とか「なにも主張できない」と双極の評価がなされています。やはり良い花を咲かすためには、我慢するばかりでは咲きません。我慢すべきところと、我慢してはいけないところの判断をしっかりとしていかなければならないと思います。
どうしても、社会の良識派という言葉に流されて合意型、調整型という成り行きの結果の「我慢」ということが多いような気がしてなりません。
人が咲かせる花によって社会的遺伝子を残すのであれば、次世代の手本となる大人たちが、良い花を咲かせるための「我慢をしない・・・」ことの手本を見せるべきだと思います。
Posted by toyohiko at 14:42│Comments(0)
│社会を考える
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