2015年07月31日
「頑張る」と「頑張れ」を考える

「頑張らない」というフレーズを最近よく耳にします。このことは、ストレスの多い社会において自分自身の行き詰ってしまった状況を、自分ひとりでだけで解決しようとしないという意味や、メンタル的に抑うつ状態にある人に対して、「頑張れ」という言葉で追い込んだり、突き放したりすることが良い結果を生まないことがあるといういことが分かってきたということがあるのだと思います。
その一方で、「頑張れ」という言葉は、日常的にポジティブな言葉としてとらえられているということに対して、多くの人たちがあまり疑いを持たないのだと思います。
しかしながら、「頑張れ」と「頑張らない」という二つの言葉の間にどのような差があり、どこから、「頑張らない」ということを意識していかなくてはならないのかということについては・・・なんとなくではありますが、「しっくりこない」という感覚をもつ方もいるのではと思います。
この「しっくりこない」のは何故か・・・と考えた場合、自分自身が「頑張る」ということで、目指しているものと、「頑張れ」といわれて目指さなければ・・・というものが違うことによる食い違いが引き起こしているのでは・・・と思うことがあります。
スポーツなどの世界で、「自分が勝ちたい・・・」という気持ちに対して、周りの人もその結果を望んで「頑張れ」と応援する場合の「頑張れ」は双方の方向性が一致しているために「頑張る」と「頑張れ」の間の不協和音のようなものがほとんどない状態で済むような気なします。
しかし、実際の社会を考えた場合にこの二つの言葉の方向性が一致していることは、実は少ないような気がします。
親子の関係性で言えば、「頑張れ」というのは親の方であることが多いと思いますが、その頑張れの先に有るものは、「親の望み・・・」であったりすることもあります。
また、子どもの立場からすると、「自分の意思」というよりも「親の望み」に合わせてしまうことのほうが、両者の人間関係もうまくいく場合もあることもあり、「自分の意思」を大切にすることについて軽視しがちになってしまうこともあります。
特に「親の望み」を考えた場合には、学力向上を目指して、良い学校に入学し、良い会社に入る・・・ということを考える人は少なくないと思います。
多くの人がこのような結果を望むあまり、競争が激しくなり、受験や就職試験も厳しくなる、さらに多くのひとが同じ方向性を目指しているために、特定の方向性の学力をつけるようになり、就職試験に合格する為の特定なスキルを身につけることに一生懸命になるという現象に拍車をかけることになり、人と同じであるということに安心感を覚える人たちが増えていくことにもつながっていくような気もします。
しかし、実際の社会においては、「人と同じである」ということに対して、大きな価値をおいて評価してくれる環境というものは非常に少ないのが現状です。このことは、同じものが沢山あるほどそのものの価値は下がってしまうという経済合理性からみても同じことが言えます。
このように、「人と同じであることに安心感を覚える」ということは、組織が大きくなればなるほど、協調性という名のもとで、社会的な価値とは逆方向に強い力が働いてしまう傾向になりがちです。
こうして考えると、多くの人が「人と同じになれ」という頑張れエールを送られているのではないのでしょうか・・・?
その結果、応援された人が「幸せ」になっているでしょうか・・・
「頑張っている人」は、応援したくなるものです。応援をする人は「その人にどうなってもらいたいのか・・・?」、それによってその「人が幸せになれるのか・・・」をよく考えて「頑張れ」を使っていくことを意識することも大切なのかもしません。
Posted by toyohiko at 17:39│Comments(0)
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