2017年08月12日
発酵乳と「日本書紀」

720年に完成したとされている、日本で最も古い文献の一つである「日本書紀」に「牛酒」という名前の飲み物が出てくるそうです。当時、神武天皇が東遠征に出た際にその土地の豪族とのやり取りの中で、「牛酒をもってもてなしながら油断させる」というくだりがあることから、この「牛酒」というのが牛乳を使った発酵食品の一つでお酒の様なものと考えられていると、信州大学名誉教授の細野明義氏が述べています。
そもそも、乳製品に関する歴史については1998年に英国ブリストル大学のエバージェット教授により、トルコ南東部のアナトリアにあるチャヨニュ遺跡から出土した土器に付着した有機物を解析し、紀元前7000年から乳利用があったという報告をしていることから、約9000年前から乳製品を食していたのでは・・・と考えられています。
日本では、「日本書紀」以前の文献があまりない・・・ということを考えると、どのくらい前から、食生活の中で乳製品との関連があったのかは定かでなないということになりそうです。
当然、ここで出てくる「牛酒」が日本独自のものであったか、中国や朝鮮半島から渡ってきた食文化であったかどうかは定かではありませんが、西洋で発達して今日に至っている乳製品と、アジアで栄えてきた乳製品は作り方なども含めて、「全く異質のもの」と言ってもいいと、前出の細野教授は述べています。
中国の「斉民要術」という世界最古の調理書と呼ばれる書物の中に、乳製品に関する記述があり、この書によりますと、乳製品は「酥」「醍醐」「湿酪」「乾酪」「淳酪」「漉酪」の6つのものがあるそうで、それぞれ、「酥」は牛乳を放置した時に表面に浮いてくるクリーム層をすくい取ったもの。「醍醐」は、酥を加熱し濃縮させたもので現代でいうとバターオイルの様なもので、「衆病皆除」とされ万能薬として尊ばれた。「湿酪」は、「酥」をとったあとの残りを発酵させたもので、現代の発酵乳に相当するもの。「乾酪」は、「湿酪」煮詰めてさらに乾燥させてつくり、脱脂粉乳で作ったチーズの様なもの。「淳酪」は、牛乳を発酵させて布袋に入れて水分(ホエイ)を除去し、固形物を煮たもの。最後に「漉酪」は、「淳酪」を天日で乾燥させたもの。と様々です。
日本では、発酵乳として良く聞くもので「蘇」というものがありますが、この「蘇」も中国の「酥」とは異なり、「乳をゆっくりと加熱し、濃厚になった練乳の様なもの壺に移し、そこに適当な菌が入ることで「蘇」が出来上がる・・・」とありますので、これだけを見てもルーツはいろいろあれど、それぞれの地域で独自の食文化として進化を遂げたということが伺えると思います。
その後は、急激に乳製品が普及し始めた要因としては、農村部の食糧危機があったと考えられています。特に、慢性的な飢饉にみまわれた、農村部はもちろん、江戸でも生まれた子どものために「もらい乳」や「売乳」という言葉があったほどだったそうです。
明治に入り、何とかして牛乳を乳幼児の栄養源にしようと育児用の調整粉乳というものが普及していくことになります。これは、西洋を含めた他の国と大きく違う特徴で、多くの国の場合、牛乳があって、チーズ、バターというような乳製品の普及の順序になっているのですが、日本の場合には、牛乳、赤ちゃんにあたえるための練乳、バター、発酵乳・・・と社会環境の違いも含めて乳製品においては特徴的な広がりを示したようです。
その後、政府の後押しもあり、酪農を政府の進める殖産興業の柱として進めていくために、牛乳を「天皇陛下も召し上がっている飲み物・・・」とか、発酵乳においては、時の首相や新渡戸稲造など愛飲しているひとの著名者リストまで載せてピーアールした時代もあったそうです。
もちろん、その背景にはイリアメチニコフの「不老長寿論」の発表を受けて、1914年に「実業之日本」という雑誌で、発酵乳特集が組まれたことも大きな要因にもなっています。
その後、1920年代から乳酸菌をはじめとする、微生物の健康効果についての研究や食品についての利用が進み始めたのです。今や多くの方が知っている「乳酸菌飲料」もこのような社会背景から、世の中に出てきたのかもしれません。
Posted by toyohiko at 13:52│Comments(0)
│食の文化