身体のチカラ › 社会を考える

2024年10月11日

「名もなき家事」について考える




  「名もなき家事」という言葉を聞いたことはありますでしょうか。例えば、炊事・洗濯というような家事を「いつ、だれがやっているか・・・」は、比較的わかりやすいのですが、洗剤が無くならないようにあらかじめ買っておくことや、補充したりすることについては、一度もやったことないけど、いつも使えるようになっているということはありませんでしょうか。

 このように、一見、大したことない・・・と思われるような事も、全体が円滑に回る・・・という意味において大変重要な役割をしており、そこが抜けてしまうことですべてが中断してしまったりするような、日常的なこまごまとした「やらなければいけない事・・・」を指して、「名もなき・・・」という形容をつけるようです。

 このような、一見注目に値しないような役割は、家庭内だけでなくどんなコミュニティにおいても発生していますし、新たに発生し続けているのが現状です。

 仕事であれば、「フォロー」というような表現になるのかもしれませんが、その「名もなきフォロー」は、気が利く人の善意によって支えられていることが多いのではないでしょうか。

 しかも、そのような「名もなき・・・」という行為が多くなるにつれて、そのコミュニティに属する人たちの心のゆとりが無くなってくるとともに関係性が壊れるきっかけになり易いと言われています。
 
 職場であれば、いままでやっていたことが休職や退職によって、一人当たりの業務量が増えているけど、「何となく、気が付く人がやってしまうことで何とか回している・・・」とか、「お互いに手いっぱいで、見て見ぬふりをしてほったらかしている・・・」という状況に陥ったりしていませんでしょうか。

 その結果、当然ながら「これは自分の仕事じゃない」、「この仕事は、あの人に任せられない」、「この業務について、なにも聞いていない」、「自分の業務をわたしたくない」というような言葉が多くなってくると、「なんで自分が・・・」という理不尽な気持ちが高まり、お互いの気持ちの中で対立や衝突が起こりやすくなります。

 本来であれば、こんな状態の時こそ、「やって欲しいこと、と任せて欲しいこと」が明確になっているのが理想なのですが、現実にはそう簡単にはいきませんし、やって欲しいことと任せて欲しいことの境界線を引き直し続けることが出来るには、そこに関わる人たちがお互いに心理的安全性が高い関係を保ち続けている必要があります。

 その一方で、無意識のバイアスと圧力によって決まっていることも多々あります。
正当な理由がないのに年齢や性別などの属性で「やるべき」「やるべきではない」と決めつけられるという旧態依然とした差別意識によるストレスがあることもあります。

 職場などでは、他の人がアイディアを出すだけで、「こまごまとした調整がいつも自分に回ってくる・・・」というような事も「いつも、お膳立てばかりやらされる・・・」という気持ちになり易くなります。
 更に、「これは、私の考えたアイディアだ・・・」というような立ち振る舞いが重なることで、「お膳立てばかりでなく、手柄までも・・・」と搾取されているという感情が湧きあがってくることもあるかと思います。

 このような、状況に陥り易い遠因として、日本文化に根付いている「おもてなしの心」があるとされています。この「おもてなしの心」は、豊富でゆとりある労働力を前提に成り立っていましたので、質と効率のみならず、個々の裁量権という三つのバランスによって高いレベルを維持してきたとも言えます。

 つまり、現代のように時短とかタイパというような少数で効率的に・・・という状況の中では、無理な形で一人一人に負担が増えていってしまうのです。

 これらのように、長い間の思い込みや習慣、さらには社会的な慣習に至るまでの様々な要因によって「名もなき・・・」が、あちらこちらで発生してるのにも関わらず、個人のレベルではすぐさま改善につながらないような構造的な問題が関係してることも、この課題の特徴と言えます。

 とはいえ、このような「名もなき・・・」にも「もう勘弁してほしい・・・」と言いたくなるような疲弊につながるケースもあれば、それほど負担に感じないケースもあるのが現実ですが、その違いは、どこにあるのでしょうか?

 自分のやったことに対して「報われ感」という報酬があるかどうかだと言われています。

 金銭的なものもありますが、それだけではなく「自分のやったことには価値がある・・・」、「役に立っている・・・」と感じられる心理的な報酬は大切だとされています。
 そのなかでも、「自分のやっていることを、周りが認識していてくれるという安心感」という報酬は特に大きいと言われています。

 そのような、「名もなき行為」は無駄にならず役に立っている・・・という心理的な報酬によってバランスがとることが出来れば、疲弊感という坂道を下っていることが避けられるのです。

 しかし、その心理的な報酬を感じられない場面が度重なることで、「怒り」という感情に変化してしまい自身のエネルギーをも急激に消耗してしまうのです。
 怒りは、自分自身を最も消耗させる感情であると同時に、自覚しにくい感情であると言われています。

 「なんで、あの人はこんな状態なのに関心がないの・・・」「私ひとりが犠牲になっているのに、なんで平気なの・・・」というようなネガティブな 思考になりがちになることで、怒りの感情につなげてしまい思考の悪循環に陥ってしまうケースも珍しくありません。

  「名もなき・・・行為」は、多くの関係性を壊す可能性がありますが、その一方で、絶対に無くなることの無い「行為」でもあります。
 だからこそ、その「行為」の一つひとつに対して、お互いに敬意をもって具体的に伝えることで心理的な報酬を分かち合うという意識が欠かせないのかもしれません。





  


Posted by toyohiko at 16:40Comments(0)社会を考える

2024年09月20日

グリーンインフラの実践と地域コミュニティ




 グリーンインフラという考え方は、前回ご説明させていただきましたが、実際にどうすれば良いの・・・という問題が出てくるかと思います。

 「水」に関する防災や生物多様性に関することは、行政機関のすることで個人や小規模な企業が介入できるような問題でないと思う方もいるでしょうし、「これは、行政の仕事なんだから・・・なんで自分たちがやらなければいけないのか・・・?」と疑問を持つ方も多いのかもしれません。

 しかしながら、多くの災害においてボランティアと呼ばれる自らの意志をもって復旧・復興に関わる人たちの存在は欠かせないものであり、被災地にとっては大きな心の支えになっているという現実もあります。

 そうした考え方にしていく事によって、身近にも出来ることが沢山あることに気付くこともあるのではないでしょうか。

 例えば、アスファルトやコンクリートで覆いつくされた雨水の流れる枡を覗き込んだことはありますでしょうか・・・、雨水桝は言ってみれば台所の排水溝と同じなので、排水溝にゴミや泥があれば、当然のように流れにくくなり道路に溢れ出す確率は高くなります。

 天気予報を見ながら、雨水桝のゴミや落ち葉などを気にしてみたり、定期的に枡に溜まった土砂を取り除くことで水の流れは随分スムーズになります。

 私の知人に、大雨の予報の時は必ず駐車場の乗り上げに使用している段差プレートを外して雨水桝に水が流れやすいようにしている方がいますが、それも減災という意味では大切なことの一つです。

 このように、ちょっとした工夫で雨水の流れをスムーズにすることは誰にでも出来ることの一つです。

 更に、既存のコンクリートをはがすことはなかなか難しいかもしれませんが、出来る限り表土を残すことも出来る工夫の一つですし、少し高価にはなりますが敷地内の舗装を透水性のものにすることも同じです。
 
そして、もっとも有効な手段と考えられているのが、大小にかかわらず「庭」と呼ばれるような環境を屋外に作っていく事です。

 もちろん、草取りなどの日常的な手間はかかりますが、地表全体で考えれば地中の保水能力の一助となる事は間違いありませんし、そのような面積が増えていく事でヒートアイランド効果の減少にも大きな効果をもたらしてくれます。

また、愛知県では開発という名のもとに自然環境が失われるようなケースに対して、その損失を最小限もしくは、損失をしないようにしようという代償ミティゲーションという取り組みをしています。

 いずれにしても、身の回りの利便性を一切損なうことなく身の安全を確保することは難しい・・・という発想が必要なのかもしれません。

 地域コミュニティの持続可能性についても様々な議論がありますが、自然災害という視点で考えていけば、近隣の人々の協力は無くてはならないものであることは多くの方がお気づきの事でしょう。

 流域全体という広域的な治水という視点で考えていけば、本来、湿地帯や田んぼを中心とした農地が大半を占め、多くの保水量を担っていた下流部が、都市化してきていることで、中流部や、さらには上流部に至るまで負荷が掛かってきているという状況も考える必要があります。

 そのような状況からすれば、水に関連する大規模災害は都市部だけ・・・ということでは無くなってきているのかもしれません。

 予防医学という言葉がありますが、予測される身の危険に対する予め準備するということで考えれば、社会的には「交通安全も立派な予防医学である・・・」ということにもなります。

 ましてや、「水」から自身の身を守るということからすれば、「自分だけに降りかかる問題・・・」ということは無く、「一人一人の立ち振る舞いの結果が、その地域全体に降りかかる・・・」ということになります。

 だからこそ、自治会や地域のNPO活動などの地域コミュニティの根幹である近隣の人たちとの関係性を今一度見直したうえで、グリーンインフラにつながるような身近に出来ることを学んだり、実践してみることも、自分自身の「予防医学」につながるのかもしれません。


  


2024年09月11日

グリーンインフラという流域治水の考え方




 異常気象という言葉が、日常的に聞かれるようになりつつある昨今、異常という言葉を使用することそのものが問われるような、気象現象による風雨災害や、それに伴う土砂災害がここ数年非常に多くなってきています。
 このような状況を解決するためにも、自分たちでも出来ることは少しずつ進めていく事がますます必要になって来ています。

 豪雨による道路の冠水や内水氾濫と言われる下水などへの過剰な流入によって起こる様々な被害もその一つです。

 これは、車に例えれば一般道と高速道路の違いのような事が、生活圏内での水の流れで起きていると考えることが出来ます。

 例えば、高速道路の降り口での渋滞は、排水溝の数や溜枡の詰まりになります。更にその後の一般道まで渋滞していれば高速道路の降り口の付近まで渋滞が広がり、高速道路そのものまで渋滞してしまうようなものです。

 ここで、ポイントなのは地表に降り注いだ雨水などの水は、都心部を中心にアスファルトの舗装路やコンクリートで覆われた地表を、高速道路を走るように排水溝にいち早く向かうしかなくなってきているということです。

 よく、「現行の排水設備の許容量を超えている・・・」という話を耳にしますが、このような現状のなか排水効率を上げるには、下水管をはじめとする様々な排水設備の口径を広げるということになります。

 しかしながら、このような災害インフラ投資が現実的かといえば、膨大な予算が必要なことも含めて現実的だとは思えません。

 ここで、着目しなければいけないのが、「降水量が増えたのか・・・」、「地表の高速道路化によって排水設備への流入量が増えた結果なのか・・・」ということです。

 そこで、近年あらためて注目されつつあるのが、水の流れの高速道路化を防ぐためのグリーンインフラという考え方です。

 このグリーンインフラという概念は、米国で発案された社会資本整備手法で、自然環境が有する多様な機能をインフラ整備に活用するという考え方を基本としており、近年欧米を中心に取組が進められているとされています。

 日本国内では、平成27年度に閣議決定された国土形成計画、第4次社会資本整備重点計画で「国土の適切な管理」「安全・安心で持続可能な国土」「人口減少・高齢化等に対応した持続可能な地域社会の形成」といった課題への対応の一つとして、グリーンインフラの取組を推進することが盛り込まれています。

 しかしながら、様々な学説や考え方による賛否が分かれる中、「我が国が直面する様々な課題を解決する上で示唆に富むもの・・・」というような方針に留まり、社会資本整備や国土利用等、国土交通行政分野における取組の方向性を示したものにはならず、都市部を中心に水の逃げ場のないコンクリートだらけの都市インフラ整備の方向性が続いているのが現状です。

 近年の自然災害の多くは、「水」によってもたらされています。豪雨による洪水や土砂災害にしても結果的には水がどのように立ち振る舞うか・・・であって、コンクリートなどによる構造物で完全にコントロール可能なものであるはずがありません。

 しかしながら、「コントロールできると思い込みたくなる・・・」のです。
 その大きな理由の一つは、目先の利便性です。

 モータリゼーションが進めば進むほど、舗装路の利便性が実感できます。「ホコリは立たないし、音もうるさく無い・・・、草も生えないから草取りしなくていい・・・、何よりも、車の動きもスムースだし汚れない。」未舗装であれば、全て真逆ですが、水の逃げ場は排水溝しかありません。

 逆の視点で見れば、未舗装の場合は、「草も生えるけど昆虫も含めたいろんな生物が身近にいる・・・、マイクロプラスチックの原因の多くを占めると言われるすり減ったタイヤの海洋流出の減少・・・、地球温暖化までとはいかないが、ヒートアイランドの緩和にもつながる・・・」など、人間生活の利便性に対して生態系の持続可能性に寄与する部分が多いことも事実です。

 これが、天秤の両端にぶら下がっているものだとすれば、もう少し足元の自然を大切にして一人でも多くの人が「ひと手間かける・・・」ことを惜しまない社会にしていくことで、水に関する災害についても少しずつ変化させていく可能性が残っていると考えることはできないでしょうか。

 少し前に、大手企業が除草剤を使って街路樹を除去しようとしたことが話題になりましたが、その行為について多くの人たちが、利己的かつ身勝手な行動であると思ったでしょう。
 さらに除草剤をつかうことで、「その周りの土もダメにしてしまう・・・」と感じた方もいたでしょう。

 しかし、現実には表土が出ていれば雑草が繁茂します。その雑草の除去も大変な作業になりますし、場合によってはそれなりの経費も掛かります。

 そのひと手間を誰かが担わない限り・・・、そのひと手間を掛ける意味を感じない限り・・・、「自然が有する多様な機能」を享受するグリーンインフラという考え方によって、持続可能性に近づくことは難しいのです。

 地形によって降った雨や溶けた雪が水系に集まる範囲、または集水域とも呼ばれる地域を示す「流域」という概念がありますが、河川や池に対してだけに注意が行きやすいですが、ありとあらゆる水が、地形の高低差を利用して海に向かおうとします。

 つまり、非常に広い範囲での保水力は地球というエコシステムにおいて重要な役割を果たしているのは、治水という視点においても同じことです。

 山林の保水機能があってこそ、河川が存在するのと同じことです。

 一時的な治水対策として、貯水タンクを利用することもありますが、そこには下水などから流入する細菌やウィルスに汚染された汚水を貯留することにもなりますので、衛生面でのリスクは否めないという現実もありますし、流入量の予測に誤りがあれば税金の無駄遣いにもつながってしまいます。

 グリーンインフラという概念は、「自然環境を守る」という概念とはあえて一線を画し、「自然の機能を利用する」と考えることで、社会活動と環境保全の調和を目指す仕組みです。

 それには、目の前の利便性を最優先するだけではなく、一人ひとりが「面倒な事・・・」に対しても少しずつ持ち出しをすることが普通になっていく事からなのかもしれません。


  


2024年09月05日

属人化と性弱説




 人は、放っておくと、属人化すると言われています。例えば、「チームでのルールとしてはダメだけど、ここだけは良いんじゃない・・・」というやり取りを通じて独自のルールとして容認してしまったことはありませんか。

 また、小さなレベルで「上には内緒でいいからさ」と、チームの方向性に相反することを促したりした経験はないでしょうか。そのようなやり取りを重ねることで、メンバーを味方に付けようとすることも、放っておくとやってしまう「属人化」の典型的な事例とされています。

 これは、自身がルールメーカーであるような言動を繰り返すことで、自分自身があたかもチームの中心に居るかのような状態をつくり、自身の承認欲求が満たされるからだと考えられており、「属人化への行動は、本能的に出てしまう・・・」とさえ言われている非常にハードルの低い行動パターンとされています。

 しかしながら、属人化したマネジメントがエスカレートしてしまえば、良心に耐えかねたメンバーによる「密告」によって、それが判明し、「責任をとって辞める」「会社の信頼を損なう」という顛末を迎えるというような事例が後を絶たないのも現実です。

 このような事例は、上の人に対する同調のみならず、「うちは、こうだから・・・」とか「昔から、○○だから・・・」というような「古くからの慣習」と呼ばれる実体のないものに対しても起こってしまうのが現実です。

 属人化を見過ごしてしまう原因の多くは、既存の慣習になびくことで自身の精神的なセーフティーゾーンを守ることからかと思います。

 例えば、「良くない状況だと解ってはいても、古くからいる人の拘りのようなものが周りの場を制圧しているようなムードになっていて、本当は多くの人が解ってはいても誰も言い出せない・・・」というような事は、どこにでもありますし、最近では名だたる組織においてもそのような状況を報道で見聞きすることが増えたような気さえします。

 ここでポイントとなるのが、「多くの人は気付いているのに・・・、誰も言い出せない。」という状況が多くの場面で現実に存在するということです。

 また、倫理観を曲げて同調することは最も良くないことなのですが、自身の倫理観を守るために周りとは一線を画した立ち振る舞いをしてしまったりすることで、「その人だけの領域」を知らず知らずのうちにつくりあげてしまうことです。

 その結果もたらされることが、属人化を促してしまうような「その人なりの独特のやり方・・・」なのではないでしょうか。

 自分なりに工夫することそのものは、非常に良いことなのですが、その工夫そのものが、「チームの目的達成のため」ではなく、「自分なりの正義を貫くため」になりがちになってしまいますので、その工夫にひずみが出てきている可能性も否定できません。

 さらに、別のケースでは、相手の真意を確認することなく、過去の経験から失敗のイメージを膨らませることで、「この場は、なびいて同調することの方が上手くいく・・・」と相手主導の選択に対して正当化しがちになってしまうことも多くなります。

 また、「気付いていても言えない・・・」ことも多く、そのチーム内で多くの人が望んでる方向とは結果的にかけ離れた状態になってしまっていることも少なくありませんし、ひずみが出ている状態に慣れてしまうことで、意識としては「ふつう・・・」になってしまうのです。
 
 これらの状況を考えていきますと、性善説や性悪説というような善悪で考えてしまいがちなのですが、人はそもそも弱いもので周りの状況に流されやすく、且つその方が上手くいくと考えがち・・・であるという、性弱説という考え方も出始めているようです。

 そうはいっても、そのひずみを「ふつう」として受け入れ続けることは、精神的にもダメージになるため、そのダメージに耐えられなくなった人は、そのチームから去って行ったり、反発を繰り返すという選択をすることで、自分を守ることになります。

 そのようなチームは、そのままにしておけばバラバラになってしまいますので、実際には何とか手を打つ必要があります。そこで、キーワードになるのが標準化です。

 標準化とは規格化と修正化の繰り返しのプロセスとされており、

 その時点で最良と思われる規格をつくる。
 それを全員に理解してもらうための教育などの機会をつくり実践を積み重ねる。
 それを全員に実行してもらうことで理解を深める
 という規格化と

 それによるマイナス効果を発見するたびに、定期的に、良い規格に修正していくという修正化の繰り返しとされています。

 属人化してしまったことで硬直化したチームも、このような標準化のプロセスを用いて成果の出やすいことから成功体験を積み重ねていく事で、チームの雰囲気も変化していくものです。

 つまり、現状の課題を切り分けた上でスモールステップでの目標を見据えながら、標準化の事例を一つずつ確実に積み重ねていくしかないのです。そして、その標準化を進めるうえでDXなどを活用していくのも有効な手段のひとつと言えます。
 
 その取り組みに対しても、「取り組んでいる事」と「出来ている事」の違いは自分自身が思ってるよりも大きいという認識が必要です。そのためにも「出来るまで・・・」のロードマップを明確にイメージすることと理解者を増やしていくことが大切です。

 「チーム全体の目的に近づくため・・・」に考えた場合と「自身がよく見られるためや自分を大きく見せるため・・・」に考えた場合とでは、自ずと行動が変化してきます。

 その目的が周りの人に理解されることで、はじめて協力者とつながり実践に向けての一歩にもつながるのだと思います。

 人は弱いからこそ「頼るチカラ」が必要であり、そのチカラを使うことで属人化から抜け出す一歩につながるのかもしれません。


  


Posted by toyohiko at 14:42Comments(0)社会を考える

2024年08月09日

自然との関わり方をあらためて考える



 コロナ禍の生活スタイルの中で、ソーシャルディスタンスという言葉がよく聞かれたのは記憶に新しいかと思います。そのような中、キャンプや釣りなどのアウトドアに関する楽しみ方に注目が集まり、「この機会に始めた・・・」などという方も多いのではないでしょうか。

 「不要不急の外出を控えましょう・・・」という状況の中、多くの人がそのような状況を続けるのではなく、工夫した結果が、自然環境に身を置く・・・という選択につながったのだと思います。

 そして、それが、リチャード・ループ氏が提唱した、「自然欠乏症候群」という考え方にもつながるような、行動変容のひとつだったのかもしれません。

 リチャード・ループ氏は、ヒトが社会生活の中で、自然と遠ざかることの身体的リスクという視点から警鐘を鳴らしてきました。

 その多くは、視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚と言われる五感の衰えによる怪我や事故に対する対応力に関するものだったかと思います。長い人類史の中で培ってきた、五感を通じての自然との関わりを考えれば確かにそうなのかもしれません。

 その一方で、ヒトが社会的動物である以上、五感も含めて身体が順応していくチカラも大切ですが、同じ種であるヒト同士の関わりである社会性という視点で考えてみることも必要なのではないでしょうか。

 確かに、人類は道具を使うことで大きな進化を続けてきましたし、文化や文明も培ってきました。
 しかしながら、技術や学問の進歩とあいまって、自然という空間に自身が身を置いた状況を考えた場合においても「何もかもが、お膳立てされている状態・・・」になりつつあります。

 この「お膳立て・・・」には、便利な道具もあれば、場所を選ぶことの無いよう進化した食べ物などもその一つなのかもしれません。

 その「お膳立て・・・」があることで、自分が置かれた環境のなかで、「身の回りのあるものを利用して乗り切るチカラ」という、社会的に大切なチカラを育む機会からは、現代の日常生活の中ではどうしても遠ざかってしまいます。

 例えば、「電卓があるのに何故、算数を勉強しなければならないの・・・?」や、「スマホの自動翻訳機能を使えば良いのに、なんで英語を勉強しなければならないの・・・?」という問いと同じのように、あることが前提として、思考を巡らしていることに次第に気付かなくなっていることは無いでしょうか。

 子どもの遊びも同じです、場所や道具をはじめとする様々なものを、周りの大人がお膳だてしてしまえば、人工的な環境下で遊んでいるのと同じになってしまいます。

 自然の中では上下左右あらゆるところから「何か」が起きるということが当たり前の世界です。たとえば、虫が飛んできたり、足元も建物の廊下のように平坦なわけではありません。ひょっとすると蛇が出てくるかも知れません。常に周りに注意を払っていないと怪我や事故につながることもあるというようなリスクへの対応力だけではなく、自分ではどうにもならないものに対峙するチカラを養うことにつながります。

 しかし、人工の構造物に囲まれた環境ではそのような注意を払う必要はなくなるだけでなく、身の回りの多くのものに対して、コントロール可能なものというような感覚に陥りそうになり、その感覚が行き過ぎてしまえば歪んだ万能感にもつながってしまうかもしれません。

 「自然」はあるがままの姿そのものであり、長いタイムスケールを経て、あらゆる問題に対する答えを私たち人間に突き付けてきます。
 気候変動や地球温暖化と言われるグローバルスケールの問題、種の絶滅や地域における様々な災害もその一つであるとともに、そのチカラの大きさからすれば、私たちの存在は小さなものに過ぎません。

種の絶滅や生態系の問題への解決手法に関しても食物連鎖の上位種を移入することで解決した事例はほとんどなく、むしろ新たなるより大きな問題に繋がっている事の方が多いという現実もあります。

 つまり、自然は私たちの思うがままへの「お膳立て・・・」はしてくれないのです。

 確かに、失敗しないためのお膳立ては大切なものなのかもしれませんが、そのお膳立てによって、失敗を知らなかったり、失敗をなかったことにする癖がつくことの方が、将来への大きなリスクに繋がります。

 だからこそ、あるがままに答えを出す自然に対して、抗うことなく寄り添っていくチカラを育む・・・という意識をもって自然と付き合うということを大切にしていく必要があるのかもしれません。



  


2024年08月02日

腸活はいつから始めるべきなのか




 「腸活」という言葉も一般的になり、様々なメディアでも取り上げられない日がないくらいになりつつあります。

 特に近年での研究成果もあり、かつては美容や瘦身などの一部の人の興味関心であったものが、免疫アップや自律神経を整えるなど、健やかな毎日を送るために欠かせないものという位置づけになってきつつあります。

 順天堂大学医学部教授で、日本スポーツ協会公認ドクターの小林弘幸氏によれば、新型コロナウィルス感染症で特に重症化するケースに於いて、高齢者、糖尿病患者、肥満の人が多く、そこでの共通点として腸内環境が悪いというようなこともあり、「腸活」に対する注目が高まった可能性を指摘しています。

 小林弘幸氏によれば、10年前ほどは「腸活」と言えば、50代になって自身の健康が気になり始めたくらいの世代の方の関心事、という傾向が高かったのですが、コロナ禍の影響で、多くの方が一度は体調不良になるという状況になってしまったこともあり、20~30代のようないままで健康に無頓着な生活をしていても健康を維持出来てきた世代の方にも関心が高まってきているようです。

 しかしながら、現実のライフスタイルを考えてみれば、このような若年層からの腸活は、「そもそも、若いからこそ必要・・・」ともいえるのかもしれません。

 腸活につながる食事の3原則があるそうなのですが、1つは朝食をしっかりとっていること。2つ目は、腹7分目くらいで抑えること。3つ目は、寝る3時間前に食事が終わっていること。この3つさえ守っていれば、何を食べてもいいとも言われています。

 その一方で、厚生労働省の平成26年に行った「国民健康・栄養調査」によれば、20代の朝食欠食率は、男女ともにその割合は20歳代で最も高く、それぞれ男性30.6%、女性23.6%です。
 さらに、一人世帯に限った朝食の欠食率は、男性の20歳代で65.5%、30歳代で41.4%、そして女性の20歳代で29.0%とされていますので、決して良い状態ではありませんし、他の世代からしても特徴的な数字となっています。
 
 これらの理由として挙げられるのは、いわゆる夜型の生活にあるとされています。

 ワーク中心のライフスタイルになってしまうことで、就業後、食事の時間が遅くなったり、その結果就寝時間が遅くなり、朝食を食べる時間が無 かったり、起床後に空腹感が出てこないような就寝時間直前の食事など、腸活にとっては良くないことばかりになっている方も多いのではないでしょうか。

 しかしながら、生活習慣病や大腸がん、さらにはメンタルヘルスに関する症状など、さまざまな病気につながる可能性がある事などはわかってはいても結果が見えにくく、変化がすぐにわからないので、なかなか腸活の重要性に気が付かないのが現状です。

 つまり、若いゆえに身体等のダメージを実感しにくく腸内環境にとって良くない生活を続けてもあまり影響が実感できないことで、現状のライフスタイルをつづけてしまいダメージを積み重ねてしまうのです。

 「お腹の健康」を中心に考えれば、睡眠不足を中心とした不規則な生活や、ファストフードが多かったり、アルコールの多飲など・・・良いことは一つもないのです。
若いうちはそれでも大丈夫かもしれませんが、そのツケが40代以降回ってくる可能性は否定できません。

 アスリートの世界でも、昔は「朝まで飲んでそのまま試合に行く」という豪快な選手も多かったように記憶していますが、最近では、「食生活が乱れるとパフォーマンスに影響が出る・・・」という理由で、食生活から見直すことで全体のパフォーマンスを上げていくという考え方は普通になって来ています。

 そうして考えれば、「腸活」は、中高年と言われる身体の不調を感じやすくなってから慌てて見直すよりも、仕事などでストレスがそれなりにかかるということや、腸内環境が乱れるライフスタイルに陥りやすい20代くらいから始めないと間に合わないとも言われています。

 早いうちから腸内環境を意識してライフスタイルを変えていく事は、メンタル面も肉体的な面の両方の面からみても健康の維持増進につながるのだと思います。



  


Posted by toyohiko at 10:35Comments(0)社会を考える

2024年07月26日

信頼と多様性の関係を考える




 Googleが行ったプロジェクトアリストテレスによって、チームの生産性を高めるために大切なことの一つとして「心理的安全性」という言葉が、クローズアップされるようになってきました。

 つまり、心理的安全性が高いことで、色々な視点で意見をぶつけ合うと同時に、多様な意見を尊重出来るという考え方です。

 しかしながら、「多様な意見の尊重・・・」に対する考え方が組織内に於いて定まっていないと、表向きは「なんでも意見してください・・・」と言いながら、お互いの顔色を伺ってみたり、「少数派の意見を中心にしなければ・・・」というような歪みが生じてしまいます。

 特に、「多様性」という言葉についても、「相手の主張は全て受け入れなければ・・・」という理解をしてしまうことで、疲弊してしまったり、自分自身の意見を殺すことが習慣になってしまうような事例も少なくないと思います。

 「意見を言い合える・・・」という、関係性に於いて最も大切なことは、お互いの関係において信頼がおけるということです。

 例えば、反対の意見を言ったとしても、その「コト」に対する意見であって、言っている人に対する批判ではない・・・という安心感などです。

 その一方で、ビジネスの世界では、「信頼の話は道徳的なことが中心で実益につながらない」と思われている方が割と多くいるとされています。しかしながら、売り上げや利益の向上など、明確に実益につながるというようなエビデンスも少しずつ出てきつつあるようです。

 フランクリン・コヴィー・ジャパンの竹村富士徳取締役副社長は、「信頼」はビジネスにおける隠れた変数で、結果(成果)は、「戦略×実行=結果」ではなく、「戦略×実行×信頼=結果」という式で導き出されると述べています。

 この式が、有効であるということであれば、結果はそれぞれのファクターの乗算ということになりますので、戦略や実行はマイナスにはなり難いですが、信頼関係がゼロやマイナスになってしまえば、結果は自ずとマイナスになってしまうということになりますので、もっとも大切な要素ということになり、組織の中にどれだけ信頼の文化ができているかで、結果は大きく変わってしまいます。

 しかしながら、心理的安全性につながる信頼はどのようにすれば得られるのでしょうか・・・?

 組織である以上、その組織の目的や目標があるはずです。その目的や目標に向かう・・・という共通の課題に対して、「貢献している・・・」ということが、前提になると思います。

 すなわち、結果に対する責任です。

 当然のことながら、チームワークを大切にしていくための様々な言動や立ち振る舞いは重要なのですが、周囲から見た時に「結果に対する責任」を感じ取れないということであれば、「細かいことが気になる小うるさい存在」になってしまう可能性も否定できません。

 「達成感・・・」という言葉がありますが、一緒に成し得ることで、相手に対する関心が高まったり、敬意を持てたりという経験は多くの方にあるのだと思います。

 このようなことからすれば、貢献につながるパーソナルスキルとチームワークにつながるエンゲージメントスキルは、両輪であることは間違いないのですが、「貢献につながるパーソナルスキル」を磨き、結果につなげてくれる・・・という信頼があってこそ、自然に敬意ある接し方に変化していくというように考えることも必要なのかもしれません。

 また、リーダーという立場になれば、その責任は更に大きくなってきます。

 例えば、リーダーが、「信頼が大切・・・」といくら口にしても、その人自身が周りの信頼を得られていなければ、「どの口が言うのか」と思われてしまい、先ほどの公式を用いて考えれば、結果はマイナスになってしまいます。

 「人を信頼する」という姿勢・行動を周りに見せているかどうかは、非常に大切なことになってきます。
それは、リーダーの人との接し方が、組織全体に伝搬していくからです。

 そして、リーダー自身が「人を信頼する人」であるためにリーダー自らが皆に模範を示すことしかないのです。

 このような信頼が、多様な価値を受け入れる風土につながるということであれば、まずは、「貢献につながるパーソナルスキル」磨き、実践を積み重ねることで、一つ一つ結果を積み重ねていく事が一番なのかもしれません。


  


Posted by toyohiko at 14:14Comments(0)社会を考える

2024年05月17日

治水と経済社会との関係を考える




 現代における治水の概念は、川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムから、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込み、汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」に変化してしまったことは、富山和子氏が著書「水の文化史」でも言及している通りなのだと思います。

 ここで、考えなければならないのが「何故、このような変化を多くの人たちが望んできたのか・・・」ということです。

 確かに、身近な生活の利便性ということで考えれば、どこにいても安全な水が蛇口から出てくるという状況は、今や日常生活の中で手放すことのできない生活基盤を支えるもののひとつです。

 そのためには、中山間部に生活している方はまだしも、都市部に生活している人にとって、身近な河川から取水し飲料水にするということは、衛生的にも科学的にも非現実的であり、遠く上流部のきれいな水を大規模なインフラ設備を利用することで、水の恩恵を得ることが出来ているという現実もあります。

 日本では、江戸時代を境に城下町というまちづくりが盛んになってきました。そして、城を中心に多くの人たちが、生活ができるようなインフラ整備が進んできたのです。

 その中でも、重要視されたのは物流であり、その当時、物流の主役であったのは河川を中心とした水です。このように水運と呼ばれるモノの流れができあがることで上流部から、食料や絹や綿などの衣食住に関わるものが集まるようになり、下流部に富が形成される・・・という流れが出来上がってきたのです。

 そうなってくれば、その「富」を上流からの水害から守るために・・・、という発想が大きくなってきます。

 そして、明治時代に入ると新たに鉄道という物流インフラが登場し、水運がどんどんすたれてきます。さらに、鉄道の敷設に伴う建設ブームも起き、木材需要の増加とともに山林の伐採が進み治水の元である治山もままならなくなってきます。

 しかしながら、下流部の富の集中と鉄道への物流インフラの転換などの理由で、世界中の治水の基本的な考えの一つである、「川の緩やかさの確保・・・」という概念はなくなり、降水を一刻も早く、海へ流すための連続堤防方式や高水工事と呼ばれる大きな転換が起きてしまったのです。

そのような、水は河川敷内に閉じ込め海まで一刻も早く流すという考え方は、明治29年の河川法制定を機に決定づけられたとされています。

 利根川を例にとって考えれば、東京という大都市圏の富を守るために、経済という取引のシステムのもと中山間地域の水、土、そしてその恵みの果実である農産物をさしだすことで成り立つシステムがすでにその時代に出来上がっていたと考えることもできます。

 かつての氾濫原がコンクリートで固められてしまったいま・・・、都市部には、水によって肥沃な大地をつくり上げたり、土壌によって、水を浄化するという生態系本来が持っている基本的な循環機能は破綻してしまっています。

 だからこそ、その機能が残っている中山間地域からの恩恵を得るしかないのです。

 このような治水の影響は、海にも影響を与えています。

 下水道が発達した現在では、河川から海に流れ込む水は、「荒廃した山から流れる水・・・」に変わりつつあります。かつての栄養豊かな水が育んだ海の恵みも漁獲高の変化という直接的な影響を与えつつあるなか、漁業従事者による山林での保全活動も増えつつあります。

 確かに、人々は、生活の利便性を追求していく過程で、河川との付き合い方を転換し、河川敷付近での居住も含め、多くの富を手に入れてきました。

 しかし、その決断は、「人間自身が様々なものを天秤にかけながら自ら下した・・・。」という認識を、自然災害の脅威が高まりつつある今だからこそ、考える必要があるのだと思います。



  


2024年05月10日

治水と環境の持続可能性について考える



 防災・減災という言葉があちこちで言われる中、私たちの命を水から守るという考え方は重要な位置を占めています。そして、豪雨災害や台風、さらには河川の氾濫など様々な気象現象によってもたらされる水の脅威は直接的に私たちの生活に影響を及ぼします。

 日本の治水の歴史を考えた時に、代表的な治水事業は利根川の事例です。

 ご存知の方もおられるかもしれませんが、そもそも利根川は太平洋へ直接注ぐ川ではなく、現在の江戸川、中川筋を流れて東京湾に注いでいました。
 そのために、関東平野は、荒川、利根川 渡良瀬川などの洪水が多く起きてしまう、不毛の低湿地だったとされています。戦国の世に豊臣秀吉が徳川家康を現在の首都圏である関八州に領地替えをし、そこに封じたのも関東平野がそうした不毛の地であったからだといわれています。

 現在の利根川が関東平野を横断して、銚子まで東へ向かうその流路は、江戸時代の治水の足跡であり、江戸文化の象徴とも言われています。

 そもそも、森林面積の割合が大きい日本の河川には、急峻で短いという特徴があります。
 それゆえに、降り注いだ雨が、一気に海まで到達してしまうのです。その一方で、雨が降らない時には枯れてしまうことも多い「暴れ川」とも言われてきました。

 その「暴れ川」の両岸に位置する比較的平坦で低い土地には、洪水時に河川が氾濫して流れ出した水が浸水してしまう氾濫原と言われる地域が広がるという特徴があります。

 その氾濫原であるがゆえに、そこには豊かな水資源が約束され、その一方で、氾濫原であればこその水害が宿命的ではありましたが、日本人はその暴れ川を巧みに治めて、そこに独特な文化を築きあげ、主たる土地利用を求めてきたのです。

 交通や水を中心に都市問題や環境問題に取り組んできた富山和子氏は、著書「水の文化史」で、「治水」について、「日本の近代化の基盤であり、同時に現代人と自然とのつきあいかたの象徴でもあった。治水を抜きにして日本の文化は語れないが、治水を見ればその時代の文化の体質は理解できる。治水とはそれほどに重い意味をもつ。」と述べています。

 古くは、治水=川を氾濫させないための護岸工事ではなく、降った雨を土に返そうとする思想であったとされています。
 
 かつて、武田信玄が霞提で、また加藤清正が越流堤で治水に卓越した技術を用い、洪水時に水を川の外へあふれさせることで、下流を鉄砲水の被害から救ったという逸話は現代にも語り継がれています。その考え方も、降水を可能な限り土に返し、あるいは土に留めようとするものでした。現在でも豊川河口域で残っている霞堤もその考え方による治水の一つです。

 水の恐ろしさは、水の量そのものではなく、水の勢いによる破壊力と、濁りと共に流れ来る土砂になります。「治水は治山にあり」という言葉があるように、かつては、治水の一環として、森林や竹やぶは、あふれ出る水の勢いを弱め、同時に土砂を渡すために山の保全が明確に重視され、遊水林、遊水地、遊水田などを配することで、急流河川を、ゆるやかにすることが人々の生活を守る行為そのものだったのです。

 また、水田も治水にとっては大きな役割を果たしてきました。

 水田は、降水を貯える遊水地として・・・、さらに、その水は地下水となり、やがて下流へ流れ出て川の水になります。また、川から引いた水も、やはり地下水となり、川の水となり、その水は更に下流でも使われるのです。
これが、水を使わない畑作ではなく、水田だったからこその理由があるような気がします。

 このように、水は水田を通じて川から水を貰ったり提供したりを繰り返しながら何度も再利用されるという水循環のシステムそのものなのです。

 今日のように都市化が進み、足元の降水は一滴残らず捨て、使う水は遠くから運び込んで汚して海へ捨てるという二重の「使い捨て」という水循環に変化していることに多くの人たちは気付いているでしょうか。

 人々は、生活の利便性を追求するあまり、かつては肥沃な土の源になっていた氾濫原の土地を切り開いたり、河川の縁辺地に居住するようになり、現代における治水の概念は、水を河川敷の中に閉じ込める・・・という方向に大きく舵を切られています。

 現在の中小河川の多くは、土砂の逃げ場がなく、放置することで河床に土砂が堆積してしまい、場合によっては、定期的な浚渫工事が不可欠となりつつあります。
 その浚渫工事によって、もとに戻りようのない生態系の攪乱が起きている可能性があるのです。

 また、水田には動植物含めて5,470もの種が存在するといわれています。

 こうして、治水という視点で考えてみても、私たちの水との関わり方の変化の大きさは、生態系の持続可能性に大きな影響を与えていることを考える必要があるのかもしれません。



  


2024年05月03日

消滅可能性都市について考える



 10年ぶりの「消滅可能性都市」の発表に多くの方が一喜一憂しているのではないでしょうか。この消滅可能性都市というのは、若年女性人口が2020年から2050年までの30年間で50%以上減少する自治体を民間有識者でつくる日本創成会議が「消滅可能性自治体」と定義したもので、2014年に次ぐ二回目の発表になります。

 この発表によれば、消滅可能性都市の大きなリスクは、「人口減少による自治体の破綻」という自治体経営の視点が大きいということです。

 確かに、インドや中国の現状を見れば人口というものが、経済的エンパワメントとして大きな価値を有し、国際的なパワーバランスの変化をもたらしていることも事実です。

 しかしながら、人口と自治体経営の維持ということのみで社会を評価し、そのような方向性での競争を煽ることが持続可能な共生社会の実現に向かっているのでしょうか。

 2024年の発表で興味深いのが、人口の増加が他地域からの人口流入に依存しており、しかも出生率が非常に低い自治体に対して、新たに「ブラックホール型自治体」と定義し発表したことです。

 このような、いわゆる「人口の取り合い・・・」をすることで、自治体経営の健全化を目指すという現状の都市間競争の激化は、その先のそれぞれのウェルビーイングにつながっていくのでしょうか。

 しかも、自治体の数のみで言えば少数のように見えますが、そこに関わる人口は日本全体の数割にものぼる人に関わってくる話になってきます。

 ここで気になるのは、水やエネルギー、食糧などの社会資本の偏在とそれらを支える、自然と呼ばれるような環境資産の過小評価です。

 水質汚染や大気汚染は、現実に起きていますが水や空気の価値を経済的に評価するようなことはあまりなく、被害は起きたときにのみ対処療法で対処することが当たり前のようになっている現状からすれば、「自然環境はただ同然の使いたい放題のもの・・・」になっているからこその評価なのではないでしょうか。

 現代の科学では、自然というものが有限であることは多くの人が頭では理解しているのにも関わらず・・・。

 気候変動や地球温暖化が叫ばれているなか、地震を含めた様々な自然災害によって様々な日常生活が脅かされている現実があるのにも関わらず・・・です。

 多くの方がご存じのように、水やきれいな空気は山間部の森林によって育まれています。植物工場と言われるような技術もできつつありますが、多くの食糧も長い歴史の上に培われた肥沃な土によって支えられているのです。

 そのような中、都市部と地方という対比の中で、経済的な投資については都市部に集中しているという現実もあり、都市部の利便性は益々向上していくのに対して、食や水のような生命維持に関する基本的な資産を地方から安価に提供するという図式は変わることなく、資本主義の名のもと当たり前のように受け入れています。

 その一方で、川などの自然環境に対して法律上の人格を持たせることで、自然環境に対する持続可能性を阻害するような、事案には起訴などの法律上の対応を可能にしていくというような他国の事例も増えつつあります。

 消滅可能性を持続可能性に変換していくには、現在のような「自然」を観光やレジャーのみで資産価値を評価したり、箱物と言われる構造物に対する投資と雇用の創出という従来の経済システムによる評価ではなく、人間の生活の根源を支えるかけがえのないものとしての価値を見直し、経済的な循環につながるシステムも同時に必要なのではないでしょうか。