身体のチカラ › 社会を考える
2024年04月26日
心理的安全性の落とし穴

「心理的安全性」というキーワードは、近年多くの場面で耳にするようになってきました。その理由の一つとしては、「昭和」という言葉で揶揄されるような、古きヒエラルキーが、チームの硬直化を招き、近年における組織の衰退を招いているという考え方が大きくなってきたからなのだと思います。
チームにおける心理的安全性とは、自分の考えや気持ちを誰に対してでも安心して発言できる状態や、個人が自由に意見や感情を表現することができる環境をあらわします。
このような心理的安全性が高い環境では、個人が失敗や間違いを認め、学び、成長することが容易になり、チームワークの向上とともにイノベーションも活性化され、パフォーマンスが向上すると言われているからです。
しかしながら、この考え方についても心理的安全性を、単なる「和気あいあいとした雰囲気づくり」や「和やかな職場風土」と誤解してしまうことで、上司は厳しいフィードバックを避け、メンバー間では過度な慰め合いが進み、結果としてチーム全体の成果志向が低下してしまい、成長の機会を阻害してしまうといった状況に陥ってしまうリスクがあるということです。
ビジネスを含め多くのチームにとっては、「求められる成果」を達成していくことでそのチームの存在が維持継続していくものです。
つまり、成果を出さねばならないチームにとっての心理的安全性とは、リスクを恐れずに意見を言える状態を示すもので、決して部下や同僚を甘やかすことではないということなのです。
当然、改善して欲しいことがあっても厳しいことを言わず褒め続けたり、飲み会を開催して家族のような関係を築いたりすることでもありません。
また、「何でも言っていい・・・」という考え方も、全ての言葉や行動が容認されるという意味ではありません。
そのような状況に陥れば、時には差別的な発言や攻撃的な態度を許容するような風土になったり、それらの態度や言動によって特定の人たちの被害者意識が増長し、周りからも腫れ物に触るような扱いになっていくなど、結果として心理的な安全性が損なわれる可能性があります。
個々の自己表現の自由と他者への尊重の両方が重要なのは言うまでもありませんが、人は、「男性と女性・・・」「若者と年寄り・・・」「文系と理系・・・」など自分の都合の良い属性に何かをはめ込むことで安心する傾向があります。
そういった日常的なバイアスが、多くの場面において相手への過剰な配慮や不敬に繋がってしまっていることも現実です。
「個性は性差を越える・・・」という言葉が示すように、属性に惑わされずに一人ひとりに対してしっかりと向き合うことも大切なことの一つです。
心理的安全性がもたらす良い効果としては、メンバーが自由にアイデアや意見を出し合えることで、チーム全体の意思決定や問題解決がスムーズになりチームワークが向上することです。
また、メンバーが自分の考えやアイデアを恐れずに表明できることで、新しいアプローチや発見が生まれやすくなるという創造性とイノベーションの向上やフィードバックを受け入れる文化や建設的なコミュニケーションにつながります。
さらには、メンバー間のコミュニケーションが円滑になり、感情や意見を自由に表現できるため、ミスや誤解が少なくなるというコミュニケーションの質の向上にもつながるのです。
このような効果だけであれば、心理的安全性が高いほどいいということになるのですが、いっぽうで、高すぎることによるデメリットも指摘されています。
一つ目は、合意形成をしていく上で「周りの意見の尊重・・・」という思考のもと、自身の意見に対して、異なる視点からの議論が抑制され、チーム内での多様性が損なわれる可能性です。
二つ目は、「失敗やミスを恐れずに・・・」という考えのもとで、自身の責任を回避する傾向についても懸念されています。結果に対する責任回避の思考は問題解決や成長の妨げにもつながってしまいます。
このような状況を繰り返してしまうことで、挑戦的な状況や意見に直面する場面が少なくなるために個人やチームの成長が停滞することについての懸念も指摘されています。
つまり、心理的安全性には全ての意見や感情を尊重する一方で、差別的な発言や攻撃的な態度についても、お互いに配慮したり、指摘し合うなどの双方向性を意識した上でのバランスが大切であると同時に、成果を意識することなく形のみにこだわってしまうことが、チームのメンバー各々の自己改善の機会を奪い全体のパフォーマンス低下につながることを忘れてはならないのです。
「あたたかさ」と「厳しさ」という相矛盾するふたつの要素のバランスこそが、求められる姿なのだと思います。
2024年04月12日
笑顔と創造性を考える

ヒトの顔は、他の霊長類と比較すると気持ちが伝わり易くなるよう進化をしていると言われています。その中でも特徴的なのは、眉毛と目です。
眉毛は、霊長類では顔と体毛との境界であったものがヒトのみが残ったことや、目についても、弱肉強食と言われる野生の世界では視線が相手にわかることがリスクになっていたが、ヒトは社会性を育むために視線を含めた目の表情が、非言語的コミュニケーションとしての大きな役割を果たしているために、目の輪郭や白目と言われる眼球に色素の無い部分が大きくなっていると考えられています。
また、人面魚という言葉がありますが、認知科学の世界ではたまたまできた形がヒトの顔に見えるパレイドリア現象と言われるものがあるようにヒトの「顔」に対する関心の高さもうかがえます。
大阪大学脳情報通信融合研究センターの中野珠実教授によりますと、「人間は、顔に興味を持つように出来ている、特に自分の顔には高い関心がある・・・」としています。
実際に、自分の顔と他人の顔に対する脳の反応の違いを計測したところ、自分の顔の方が脳の側坐核の活動が活発になり、その結果、報酬系の伝達物質と言われるドーパミンが放出されていることが解ってきました。
更に、顔加工アプリを利用して、ちょうど良いと感じる加工度合いを自分と他の人とで比較した結果、自分の顔は、他人の顔よりも強い加工を好む傾向があり、脳ではドーパミンの作用によって、自分が変わることでその変化に対する行動が強化されるという指摘もあります。
このような傾向は、自分に対してのみ現われるために、逆に言えば、自分の変化に対する高揚は自分だけで、周りは冷ややか・・・に感じていることも知っておく必要があります。
このドーパミンによる作用ですが、行き過ぎた加工に対して、「不気味の谷現象」と呼ばれる不自然なものに対する抑制を恐怖や不安を司る偏桃体がコントロールをしており、側坐核と偏桃体のバランスによって保たれているのです。
これらの事から、人は顔に対して思っている以上に関心を抱いており、且つ、自分自身の顔に対してはドーパミンの作用によってバイアスがかかっているということを知っておく必要があります。
そもそも、人間は社会的動物であると言われているように、「どう見えるか・・・」以上に、「どう見えているか・・・」という、自分自身の見え方がコミュニケーションについても大きく影響していることは、非言語コミュニケーションという概念からもお分かりかと思います。
東京大学先端科学技術研究センター客員上級研究員の吉田成朗氏によりますと、テクノロジーによって加工された表情の違いによる人間の行動に対する影響に関する実験を行った結果、顔の表情が行動変容や創造力にも影響を与える可能性についての指摘がなされています。
具体的には、洋服の試着などの時にも、そのモノよりも自身の表情が選択に大きな影響を与えることや、リモート会議でのミーティングでは、お互いの顔を笑顔に加工することによって、アイディアの数が1.5倍になったという結果もあることからすれば、「笑顔」の効果は思っている以上に効果があると考える必要がありそうです。
このような、笑顔と創造性との関係については、笑顔を見ることで、「自分が受け入れられている・・・」という安心感から発想が豊かになるのでは・・・と考えられています。
この安心感については、心理的安全性とも呼ばれチームビルディングの分野でも重要視されています。
表情フィードバックという考え方がありますように、「表情に表すのが苦手とか、いつも怒っているように思われている・・・」と悩んでるかたも多いかもしれませんが、あえて「笑顔」をつくってみることも、外見が変わっていく事で、周りへの良い影響も含めて自身の行動変容につながるのかもしれません。
2024年03月23日
「頑張る」と「頑張れ」を考える(Ⅱ)
今年は、「子どもの権利条約」が国連で採択され、その5年後に日本が批准してから30年になります。
また、この条約の批准については、「5 年ごとに、この条約において認められる権利の実現のために取った措置及びこれらの権利の享受についてもたらされた進歩に関する報告を国際連合事務総長を通じて委員会に提出することを約束する」と記されています。
その報告に対して、国連子どもの権利委員会より「最終所見」として2019年にも改善勧告を受けているのが、子どもの権利条約を批准しているOECD加盟国の中で日本と韓国の2国とされています。
その勧告の内容については、日本体育大学の野井真吾教授が「国連子どもの権利委員会の「最終所見」に見る日本の子どもの健康課題の特徴」という報告書で、「“競争主義的な教育制度”、さらには“社会の競争的な性格”が子ども時代と発達を脅かしているというのが、国際社会からみた日本の現状といえる。しかしながら、このような状況が日本の子どもたちに限定した健康課題なのか、それとも多くの締約国の子どもたちにも共通の健康課題なのかについては不明である。そこで、諸締約国政府に対する「最終所見」も概観することにより、この点の解明にも挑んでみたい。」と述べています。
そもそも、ここでいう健康課題について考えてみますと、戦後、子どもを取り巻く健康課題は、劣悪な衛生状態による感染症や寄生虫病、あるいは食糧難による虚弱児や脚気等といった問題が中心でした。そして、生活が豊かになっていくにつれて、むし歯、視力不良、肥満・痩身、アレルギー等といった問題、さらには、発達に関する様々な課題になどに移行してきた経緯があります。
更に、近年では、 過去4 回の日本政府への「最終所見」においても取り上げられた、虐待、自殺、体罰、いじめ、薬物乱用など、衛生的かつ経済的要因から社会的要因に変化しつつあることが顕著になってきています。
その背景にあるのが、あまりにも競争的な制度を含むストレスフルな学校環境であり、社会の競争的な性格により子ども時代の発達が阻害されるというような指摘です。
このような状況は、子どもに対してのみでなく「家庭の事は、家庭で解決する・・・」という、家庭依存社会的な考え方によって、「子どもの失敗は親の責任・・・」という社会の空気感や「ちゃんと育つ」ということに対しても、ヒエラルキーの上の方にいかなければ「ちゃんと・・・していない」という、「子どもの人生は親の責任」というような親の不全感につながるような競争的な社会の風潮に対する課題も多いのだと思います。
過去の勧告に対しても、日本政府は、「過度の競争に関する苦情が増加し続けていることに懸念をもって留意する。委員会はまた、高度に競争的な学校環境が、就学年齢にある児童の間で、いじめ、精神障害、不登校、中途退学、自殺を助長している可能性があるとの認識を持ち続けているのであれば、その客観的な根拠について明らかにされたい。」というような見解を示しており、国連子どもの権利委員会の勧告の内容に対して、異なる認識を示しているという現状もあり、この認識の違いそのものが、社会課題の根本的な要因の一部として垣間見られるようなところもあります。
競争そのものを否定するのには無理があるのかもしれません。
しかしながら、「誰の何のための競争なのか・・・」ということが、重要なのではないでしょうか。
「自分自身の意思で頑張る・・・」ことと、「何かの、抑圧から逃れるために、その方向に向かざるを得ない・・・」のは大きな違いがあると思います。
その象徴的な言葉が、近年話題になってきている「教育虐待」なのかもしれません。
日本社会では、大学入学や就職先が人生の到達点かのような価値観が蔓延していることが紛れもない事実として、否定できない部分があります。
確かに、医師や教員、社会福祉に関する様々な公的資格制度が、大学などの専攻や就学年齢と密接に関係しており、社会経験を積んだ後に改めてチャレンジすることに対するハードルが高いことも事実です。
それゆえに、人生の早い段階で決断を迫られ、その決断に対して再チャレンジがしにくいゆえに追い込まれてしまうプレッシャーが他の国と比較して、制度的に大きいこともあります。
そのプレッシャーの結果、親や他人の期待に応えること以外に関心がなくなってしまったり、大学受験後、思った通りの対応が返ってこなかったりすることに対して、感情的になったりすることもあり、頭ではわかっていても感情を抑えられない複雑性PTSDのような状況に陥るというような、教育虐待の影響として成人後の心身不調などの体調不良を訴えるケースも少なくないという現状も理解する必要があります。
大切なのは一人の人間として自身が「どのようになりたいか・・・」を尊重し、そして、周りの人が自分の都合によって結論を急がせずに待ってあげられる・・・ことが出来ることで、ようやく、お互いに対話できる関係づくりにつながるのだと思います。
その頑張り・・・、「誰の為なのか・・・?」、「何の為なのか・・・?」をそれぞれの立場で考え直した上で、周りに伝えることが変化のための第一歩なのかもしれません。
2024年03月16日
土があるのは地球だけ・・・

「土が地球だけにある」という表現は、地球上の生物圏において土の存在が特別であるという意味ではなく、他の惑星や天体にも、地表を覆う固体の表土や地殻が存在することが考えられます。しかし、地球の土壌は他の天体と比較して非常に複雑で多様な性質を持っていることからの表現とされています。
また、地球の土壌は生態系において極めて重要な役割を果たしていると考えられており、植物の成長に不可欠な栄養素を供給し、水や空気を保持し、地球上の生物の生息地として機能しているという理由から、土壌は水循環や気候変動などの地球システムの一部と考える必要もあるのです。
つまり、「土が地球だけにある」という表現は、地球上の土壌がその形成過程や機能、多様性において他の惑星や天体とは異なる特徴を持っているという象徴的な表現なのかもしれません。
そもそも、地球の46億年の歴史の中で、誕生以来40億年は土と言えるものは存在していなく、土が誕生したのは約5億年前からとされています。
そして、地球の土壌の歴史が浅いことに加え、特別であることの理由の一つは、岩石の風化、有機物の分解、微生物の活動、地形の変化などの地球の独特な地質学的プロセスや生物学的活動によって形成されることで多様な栄養素や生物の生息地を提供していることです。
東北大学大学院生命科学研究科の大久保智司特任教授によれば、土壌中には、土1gあたりに50~200憶個の土壌微生物が存在しているのですが、特定の種が優位になってしまわないという、いわゆる「一人勝ち・・・」の状態にはならない原則が働いているかのような多様性が保たれているのだそうです。
その理由の一つとして、土壌中の栄養源は非常に乏しいために増殖速度の速い種が独り占めしないよう、お互いの代謝物によって増殖を止めるような遺伝的な仕組みを持ち合わせているのでは・・・という仮説もあるようで、38億年の微生物の歴史の中で、一人勝ちではうまくいかないということを遺伝子的に学んでいる可能性もあるというのです。
そして、その多様な土壌微生物によって産生される、様々な微量元素によって地球上のありとあらゆる生物が支えられていると考える必要があります。さらに、土が出来る時間も膨大な時間がかかっていると考えられています。
森林総合研究所主任研究員の藤井一至氏によれば、アフリカでは数億年かかっていると考えらえる土もあるといわれていますし、東南アジアでも数千万年・・・、日本では、1センチの厚みの土をつくるのに100年から千年程度と考えられています。
特に日本の場合は、地震、火山の噴火、洪水など土壌の変化の大きい条件が重なるなどの要因があり、土になるまでの時間は、場所などの条件によって違うことに加え、降水量が多いために土壌中のカルシウムが流されることで酸性になり易いと言われています。
そのために、アルミニウムが土壌中に溶出することで植物に悪影響が出るなど、農地への影響があり、アルカリにするための処置の必要がある土壌とされています。
そして、土壌微生物を育み多様な微量元素を生成する仕組みのひとつが団粒といわれる構造です。
この団粒は、土を掘ったときにごろごろとした、土が固まったような構造のものを指すそうで、サラサラではなくこのごろごろとした塊が、土の成分どうしの間に隙間をつくり、水や空気の通り道になったり、微生物の居場所になっています。
この隙間に嫌気性菌や好気性菌と言われる微生物が混在する多様な微生物コロニーが生成されることで、2000μmのマクロ団粒には、0.2μmのミクロ団粒と言われるものがマトリョーシカのように入っていると考えられており、植物の根やカビ、落ち葉などからの有機物、粘土鉱物などの無機物を含めた多様な元素がほどよく混在するのです。
さらに、ミクロ団粒は、原生動物から微生物が身を守るためのシェルターにもなり微生物の多様性を担保するという役割を果たしています。
ここでポイントになるのは、このような多様性をもった団粒の構造は自然のチカラでしかできないということです。
近年では、この団粒に着目した不耕起栽培という耕さない農業についても注目が集まっています。
そもそも、土壌微生物を中心に考えれば、耕すという行為は、微生物にとっては良いことではないという考え方もできます。
団粒があることで、風雨による土壌の流出を抑制できると考えれば、団粒が無くなるほど土を耕すことは良くないということになりますし、耕すことで、土壌中の微生物の量が約7割減少するという報告もあるそうです。
WHO(世界保健機関)は、ワンヘルスという言葉を使い、「私たちの健康は、家畜の健康や環境の健全性と一体である」という考え方を提唱しています。その考え方からすれば、農地、すなわち土の健全性は重要なことになり、私たち自身の健康にも一番の近道になるともいえます。
そもそも、有史以来農業=耕作という概念が定着しています。耕すことの利点は、雑草の抑制、排水機能の向上、空気を入れて柔らかくすることにあります。そして、一番のメリットは、単位面積あたりではなく、大規模化による生産性の向上です。
つまり、不耕起栽培では単面積当たりの収量の向上が見込めても、雑草の抑制などの作業を考慮した場合に大規模化には向かないという現状でのデメリットもあります。
その一方で、有機物の半分は炭素です。空気中の炭素の量の2倍の炭素を土は閉じ込めておくことが出来ると考えれば、土の中に炭素を固定することで大気中の炭素濃度を下げられる可能性があると共に、窒素固定菌などの微生物が、大気中の窒素を有機化合物に変換することで土壌中の窒素の利用可能性を高められれば、土壌中への窒素の固定にも繋がります。
そう考えれば、不耕起栽培によって土が二酸化炭素の吸収源になったり、窒素固定の向上に繋がり、地球温暖化対策と食糧問題との両立の可能性も見えてきます。
「耕すか、耕さないか・・・」という問題は、ひょっとすると「どこまで、耕すか・・・」に変化していくのかもしれませんが、この問題を農業という一部の人たちの問題として置き去りにするのではなく、地球上の生物種のひとつとして「土」を見直すきっかけにしたいものです。
2024年03月07日
花粉症のリスクをあらためて考える

春先と言えば、花粉症の季節という方も多く、花粉症の症状に悩まされている方は日本国内でも年々増え続けているようです。
日本耳鼻咽喉科学会会報2020の報告によれば、国内の花粉症患者の数は、1998年の19.6%に対して、2008年は29.8%、更に2019年の調査では42.5%と急速な増加傾向にあり、現在では全体の4割以上の方が花粉の影響を受け、何らかの症状に苦しんでいるとされています。
花粉症は、スギやイネなどの花粉に対して、免疫システムが過剰反応してしまう、代表的なアレルギー疾患の一つです。
具体的な症状としては、くしゃみ、鼻水、鼻づまりなどをはじめとし、喉の乾燥や違和感、咳、喘息、呼吸困難のような上気道系に関する症状だけでなく、下痢、食欲不振、肌の痒みなども花粉症の症状と言われています。
さらに、花粉症によって睡眠不足になってしまう人も多く、重症化した場合のQOLの低下は、不眠からくるイライラ、頭の重さなどが重なり、骨折や糖尿病に罹患したときよりも下がることが分かっているそうです。
このような、花粉症の症状によるQOLの低下は、日常生活への影響が大きく、職場などでは、労働生産性のみならず、集中力を欠く・・などによる事故へのリスクの上昇も課題になってきています。
特に、運転などの場合には、突然のくしゃみによっての事故の誘発など気を付けなければならないことも多いという認識も必要とされています。
また、若年層の有病率の上昇も見逃せません、先の日本耳鼻咽喉科学会の会報2020によれば、スギ花粉由来花粉症の5~9歳の有病率が、1998年の7.2%に対して、2008年は13.7%、更に2019年では30.1%と約4倍になっていると同時に、若年層の花粉症は、アレルギーマーチと言われる食物アレルギーやアトピー性皮膚炎、気管支喘息などのアレルギー疾患への連鎖の可能性も指摘されています。
花粉症が増えている理由の一つとしては、花粉の飛散量の増加にあります。この飛散量の増加には、国内での木材需要の低下による、放置林化が進んでいることにも関係していると考えられています。
杉の場合には、樹齢30年をこえる樹になると1本当たりの花粉飛散量が増えると言われていますが、この20年間で、杉林における30年を超える樹の割合が1970年には50万ヘクタールほどで、全体の2割弱であったのが、2017年には、400万ヘクタールを超えるという状況になり、全体の9割を超える状況にまでなっていることからすれば、当然のように花粉の飛散量は増えてしまいます。
そもそも、人工林と呼ばれる杉林やヒノキ林は、戦後の拡大造林政策の影響もあり、森林面積の4割を占めるとも言われており、花粉飛散の問題も社会課題の一つとしての取組の必要性が議論されています。
また、水源涵養と言われるような、山間地域の保水力の低下や土砂災害の遠因となっていることからしても、放置しておいてはいけない社会課題の一つとして取り組む必要がありますが、林業の衰退や建築材需要の減少などの理由によって遅々として進まないことからすれば、元々の自然を取り戻すという手法での花粉に対する発生源対策については、現状の花粉飛散量の増加傾向に対しても、指をくわえてみているだけになっているのかもしれません。
そうであれば、そのような前提で花粉症のリスクを認識し、出来うる対策をしていく必要があります。
国際医療福祉大学医学部の岡野光博教授によりますと、花粉症の症状が出始めたごく初期では、鼻粘膜にまだ炎症が進んでいないため、適切な治療を行えば粘膜の炎症を止め、早く正常化させることができます。
逆に重症化してからでは、薬が効きづらくなります。治療には、体への負担が大きい強い作用の薬が必要になったり、正常化させるまでに長い期間や多くの費用がかかってしまいます。すなわち重症化させないために早期の治療開始が望ましいとされています。
花粉症に起因する食物アレルギーの事例も見られますので、食べ物によって症状が悪化することも認識する必要があります。
例えば、トマトアレルギーに関しては、トマトのアレルゲン(たんぱく質)は、スギ・ヒノキ花粉のアレルゲンと似た構造をしているために、交差反応と言われるような、免疫システムの誤作動によるアレルギー反応を起こすことがあります。
これらのように、タンパク質の構造が似ていることが原因によって、免疫システムが抗原とみなすこともありますので、食品をなるべく加熱調理することで、タンパク質の構造を壊すというリスクの回避が出来ます。
ただ、大豆に関しては加熱してもタンパク質の構造が壊れにくいために注意が必要です。
また、花粉症によって肌荒れを引き起こすことも解ってきました。これは、花粉が肌に触れることによって花粉のタンパク成分が、表皮細胞に取り込まれ、表皮細胞にあるトロンビンというたんぱく質が反応することで肌の状態が悪化してしまうのです。
よって、春先の紫外線対策とともに日焼け止めクリームなどで肌を保護することも有効かもしれません。
昔は、花粉症といっても、鼻水や鼻詰まりなどの軽微な症状を考えられがちでしたが、日常のQOLや社会の生産性の低下、さらには交通事故の誘発などの様々なリスクを考えれば、4割を超える人が症状に苦しんでいるこの状況は、個々の問題として放置して於けることではなくなっているのかもしれません。
コロナ禍の状況下では、衛生仮説に基づくのであれば、今後様々なアレルギー症状の増加が見込まれると警鐘を鳴らす専門家も多いとされています。
グローバルな社会課題の解決には、時間がかかるにしてもお腹の健康を含めた自身の免疫調整機能の向上など、出来ることはしてきたいものですね。
2024年03月01日
睡眠のリスクをあらためて考える

日本人の睡眠時間は、OECD33ヶ国中最下位、米国の調査では日本での睡眠不足による経済損失は15兆円以上との試算もあります。つまり、睡眠不足は健康への影響のみならず経済的な損失にもつながることが分かってきました。
つまり、一人ひとりの睡眠不足が、積み重なって大きな日本経済の損失につながっていると考える必要があるのかもしれないというのです。
理想の睡眠を科学の視点で見ていくと8時間だと言われていますが、時間が満たされればいいという訳ではありません。
中途覚醒といわれる、睡眠途中で覚醒状態にならない「質」と言われるものだけでなく、毎日、同じ時間に就寝し、同じ時間に起きるという「規則正しいリズム」も理想の睡眠には必要と言われています。
筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構の柳沢正史氏によりますと、睡眠不足の一番のリスクは眠気だとしています。
そもそも、睡眠と眠気は異なる概念と考える必要があり、メカニズムも異なるようです。睡眠は身体や脳が休息や回復を目的として意識的に休む状態であり、体内時計の仕組からしても本来の姿としても夜間に就寝するような仕組みになっています。
一方、眠気は身体が睡眠を必要とするサインであり、睡眠不足や疲労、ストレスなどが原因となります。眠気があると注意力や作業効率が低下する可能性がありますので、眠気を感じた場合は、十分な休息や睡眠をとることが重要ですが、その状態が常に睡眠不足によるものでは無く、ストレス、または病気などの睡眠以外の原因のこともあり、睡眠を取ることでそれを解消できない場合もあります。
睡眠不足が眠気を誘うということは言うまでもありませんが、連続的に睡眠をさせない状況をつくることで、生命の危機に陥るほど睡眠は大切だということも解ってきました。
ある研究では、1日4時間の睡眠を1週間から10日連続した場合、脳のパフォーマンスの低下によって、日本酒で2合程度の飲酒をしているのと同じ状態と考える必要があるというのです。
そう考えれば、時間当たりの仕事の処理能力の低下やミスの誘引のみでなく、感情のコントロールが出来なくなりますので、「嫌な奴・・・」になる事で、周りの人たちの仕事や人間関係にも影響を及ぼします。
ひょっとしたら、寝不足によってイライラやハラスメント的な行為に及ぶ可能性も否定できないと考えれば、睡眠をないがしろにすることの社会的なリスクは見過ごせないものと考えるのは当たり前としなければいけないのかもしれません。
熊本県が睡眠の状態をモニタリング調査した実験では、睡眠の質やリズムを改善することで、体重の減少や腹囲の減少がみられるなどメタボリックシンドロームに対しての効果や認知症のリスクの低下もみられたという報告もあります。
ここで、大切なのは、様々なデバイスの普及、発達によって睡眠の可視化ができるようになってきたために、様々なアプローチの可能性が生まれてきたことです。
健康にとって大切な、食事・運動・睡眠ですが、睡眠の重要性がますます高まってきたと言えるのではないでしょうか。
医学の世界では「0次予防」という言葉がありますが、身体の恒常性も含め、通常の状態を大切にすることは重要と考えられています。現在、日本睡眠学会では、今後特定検診の項目に「睡眠」を取り入れることを目指していると述べているほど睡眠は大切なことなのです。
世界で最も睡眠時間の少ない国の一つである日本では、まず、「睡眠」ということに関心を持つことから始めることが必要としています。
それには、睡眠に関する理解とその理解にともなう環境づくりの実践です。
睡眠には、レム睡眠とノンレム睡眠があることは多くの方がご存知かと思いますが、レム睡眠は睡眠の後半に起こることからすれば、睡眠時間が少ないことは、レム睡眠が殆どなくなるという考え方をする必要があります。
東京大学の林悠教授によりますと、レム睡眠の時だけ、脳の血流量が約二倍になる事が実験で明らかになってきました。
毛細血管は、物質交換の機能を持っています。特に脳の場合は、神経細胞が酸素や栄養を受け取り、二酸化炭素や老廃物を返すというような受け渡しの場になりますので、血流が2倍に上がるということで、脳のリフレッシュが行われているとすれば、認知症の原因の一つとして脳に老廃物が溜まることとされていることからしても、十分な睡眠時間の確保によるレム睡眠の向上は、認知症のリスクの低下にもつながる可能性もあるというのです。
さらに、睡眠にとって理想の環境を整えることも大切です。良質な睡眠には、「静か」、「暗い」、「朝まで適温である」この3つが重要とされています。人間も動物である以上、気温に対するストレスや、そのストレスに対応するための体温調節が必要になり、自律神経の一つである交感神経を刺激し、脳の覚醒反応を引き起こしてしまうことで睡眠の質が下がるとも言われています。
だからこそ、寝具の見直しや、睡眠時もエアコンなどを上手に使い、室温を含めた環境を整えることが、睡眠の質の向上に大きな役割をしていることも頭に入れておく必要があります。
眠気が引き起こす様々なリスクを考えれば、睡眠は余った時間にするもの・・・ではなく、睡眠を生活の真ん中に置いて考える必要があるのではないでしょうか。
柳沢正史氏によれば、「睡眠は家賃みたいなものなので、滞納すれば大変なことになってしまう・・・。」という認識が必要なのです。
2024年02月16日
生態系ネットワークとミティゲーション

生態系ネットワークという言葉はあまり馴染みが無いかもしれませんが、「もともとあった自然が、開発などで人間によって分断、孤立してしまった状態を、緑地や水辺による面的ネットワークによって、生物の移動や避難のための道をつくることで、生態系の創造や保全につなげること」とされています。
そのための具体的な手法の一つが、「まちなかビオトープ」という考え方です。
そもそも、ビオトープとは、Bio(生き物)とTop(場所)からくる造語で「それぞれの地域の、野生の生き物の生息空間」を意味する言葉です。そこに「まちなか」という言葉がつくことで、「目の前の環境に生物を呼び込む・・・」という意味に対して、特定の種について分断された生息環境を「つなぐ・・・」という意味が込められてきます。
例えば、誘鳥木という考え方があります。誘鳥木とは、特定の種の鳥が好む実や花をつける果樹や、周りを見渡しやすい高木などを上手く配置し、野鳥が集まりやすい樹木の植栽を促すという方法です。
特に鳥の誘引については、植物の種子や、水辺であれば水生生物の卵も一緒に運んでくれるということもあり、大きなビオトープをつくる際には、鳥類の誘引を意識的に行われることはよくあります。また、トンボのような昆虫であれば産卵用の簡単な水槽のような水辺に止まり木をつくるだけで誘引することができますので、庭先やベランダで簡単にビオトープをつくることも出来ます。
ここで、重要なのは「飼育」と「ビオトープ」との違いを理解することです。
飼育の場合は、閉鎖された空間で給餌をするということが前提になりますが、ビオトープでは、この二つを行わないことが原則になります。
給餌をしないということは、誘引したい生物種の性質や捕食の嗜好に合わせた空間づくりをしていく必要がありますので、誘引したい生物が好む植物を植栽したりすることも方法のひとつになります。
また、外界との空間的な分断をしないということが、生物種の避難先や生息域の拡大につながることで生物多様性にとっても大きなメリットにつながるとともに生態系ネットワークの一部にもなるのです。
特に、まちなかと言われる市街化されたようなところでは、生物にとって過酷な環境になってしまいます。たとえ、公園のような緑地があったとしても種固有の移動可能距離圏内に居場所がなければ、「孤立した環境」ということになってしまいますので、庭先やベランダにもちょっとした生物の居場所を意識していくことが生物多様性の保全につながるという考え方を大切にして欲しいのです。
また、「つなぐ・・・」だけでなく、棲み分けが必要な場合もあります。
里山を利用する生活をしなくなった、現代では人間の生活圏と大型野生動物の生活圏の境界線の緩衝帯が無くなりつつあることに対する懸念が高まっています。
熊の生活圏内への侵入の問題についても、熊の捕食するための団栗の不足という問題が議論されていますが、団栗不足の原因の一つは鹿の増加であり、鹿の増加は過疎化による猟師の減少という、野生動物の環境の問題だけでなく、人間社会の問題でもあるのです。
これらのように、一見、自然環境の問題のように見えていても、過疎化や限界集落によって地域コミュニティが崩壊し始めている結果のひとつである、とすれば社会的なアプローチによって解決の方向性を示していく必要があります。
フランスのように「住民の移動の権利」を法律的に保障するという考え方によって過疎地の公共交通インフラに対して、従業員やその家族の通勤などで利益を享受している企業などが広く薄く支え合うことでインフラを支えているように、大型野生動物の生活圏への侵入についても同様の考え方が必要なのかもしれません。
大型野生動物との緩衝帯をつくり直す活動として、大型野生動物が捕食するために団栗が生るような落葉広葉樹を植樹するような活動もありますが、これらの活動が、一部の善意によって支えられる活動ではなく、人間の生活圏を維持するための必要な措置として、より多くの人たちが仕組みにのっとって関わっていかないと手遅れになる、という考え方で対応していく必要があるのです。
外来生物や絶滅危惧種の問題も同様です。「外来種」=「悪者」という図式により「いけないものは敵視するのが当たり前・・・」という短絡的な発想を植え付けることの影響については考え直さなければならないことは前提として、人間社会を中心とした生態系に具体的に及ぼす悪影響は、最小限に留める必要があります。
そこには、「種」の人気や可愛らしさ・・・によって左右されるものではなく、その環境における「種」の保存の妥当性を正当に評価することが大切かと思います。
生態系というシステムは、複雑かつ絶妙なバランスによって支えられています。それ故に、人間の文化的で快適な生活と生物多様性との両立はなかなかうまくいかない現状があることも事実で、とくに大規模開発に伴う、森林の消失などは地球規模の脅威になっています。
そこで、その両立のための方策のひとつとして提案されているのが、ミティゲーション(mitigation)という考え方です。
ミティゲーションとは、英語で「緩和する」「軽減する」「鎮静する」「低減する」などを意味する言葉で、環境分野では、人為的行為が自然環境に与える影響を緩和するための保全措置を意味します。
企業や行政が関わるような開発行為に対しても愛知県では「あいちミティゲーション」という考え方で、開発などにおける自然への影響を回避、最小化し、それでも残る影響を代償するという順番に則って検討・実施する方針を示しています。
そこで、大きな期待を寄せるのが、企業の存在です。
企業が、生態系の保全に関わることには二つの意味があると思います。
一つ目は、「企業には、人を育てる力がある」ということです。SDGsの考え方が浸透していきつつある中、自らの収益性のみではなく、社会全体での役割を考える企業も多くなってきました。そのような中、地球環境全体を考えることが出来る人材育成も企業としての役割になりつつあります。
二つ目は、「企業は、経済的かつ空間的な資産を持っている」ということです。その資産に対して生態系ネットワークの視点を取り入れることで生態系のバイオキャパシティ再生にも大きな影響を与えることが出来るのです。
環境問題は、人間が考える以上、「人の気持ち」というものに大きく左右されます。だからこそ、日常生活の様々な場面で「自分自身も生態系の一部である・・・」という視点を持ち続けることが重要になってきます。
そういう意味でも、企業の役割をはじめ、自分自身の役割の一つとして、生態系ネットワークの創造は、今すぐにでも出来ることのひとつなのではないでしょうか。
2024年02月09日
「水の育て方」について考える

「水」と言えば、「透明感がある・・・」、「清らか・・・」、「すべてを洗い流す・・・」というような生命の源としての幻想的なイメージがある一方で、治水という言葉に象徴されるように、「すべてを飲み込む・・・」ものであり、あらゆるものを壊していくのも「水」です。
そもそも、多くの物質は液化、さらに気化するに従って体積が増加するという性質がありますが、「水」という存在は、液体から個体になるときに体積が増加するという特異的な性質を持っていると同時に、地球上のありとあらゆる生命体の源であるという、もっとも身近であり、そして最も不思議な存在のひとつでもあります。
生物の体内にあるものを除いた、地球上にある水の内訳をみてみますと、海水97.5%、北極や南極の氷などの固体化された淡水1.75%、そして飲み水になる可能性がある淡水は1%しかないと言われています。
その1%のうち97.5%が地下水、残りの2.5%が川や湖などの目にすることのできる水で地球全体からすると0.025%しかないのです。
その中の地下水と言われる、帯水層や伏流水などの枯渇に対する危機感が高まっています。このような帯水層と呼ばれるものは地中に浸み込んだ雨や雪が長い時間をかけて蓄積したものです。
この長い時間によって、ある時は水の浄化作用につながっていたり、ありとあらゆる微量元素を水と一緒に必要なところに運んでいく・・・という役割も同時に果たしてきました。
水の循環ということで考えれば、大気圏の中では、水の存在する場所や状態が違うだけだから大丈夫・・・と考える人もいるのかもしれませんが、果たしてそれでいいのでしょうか。
人間の生活を振り返ってみますと、衣食住全ての分野で地球上の様々な資源を活用し、発展を遂げながら富を蓄積してきました。言い換えれば、このような富の蓄積は、自然からあらゆる恩恵をいただき続けたわけなのです。その典型的な社会システムの一つが資本主義と言えます。
生態系は、複雑なネットワークを成しており驚異的な恒常性と回復力を持っていますが、近年の種の絶滅の速度などを鑑みれば、人類の営みによってなされた犠牲は回復力の臨界点を越えてしまったと考える専門家も多くなってきているなか、ポスト資本主義に対する期待も高まりつつありますが、具体的な方向性を示しきれないのが現状です。
生態系を中心とした地球の持続可能性を考えれば、回復力の臨界点を越えるまで痛めつけられても具体的な主張をできずに耐え続ける自然との関わり方を見直す時期なのかもしれません。
確かに、日本国内での度重なる豪雨災害や、世界的にも問題になっている干ばつからくる山火事・・・、気候変動という枠組みをどのように捉えたらいいのかさえも判らなくなっているような脅威も多くなってきているような気がします。
これらの現象を、「人類の社会生活に対する主張」と考えることも出来るかもしれませんが、人類が、この現実を主体的にとらえ、行動に移すまでには、大きなハードルがあることには変わりはありません。
これらのような、気候変動についても大きな影響を及ぼしているのが「水」の存在です。
地震大国と言われる、日本国内での地震の被害に、流動化や地盤沈下がありますが、これらのメカニズムについても、「水」の存在が大きく関わっています。
現在、世界中で「川」や「山」などの自然環境に関する法人格化が進んでいます。「企業を法人と見なすのであれば、川やその流域に人格を与えてもいいはずだ・・・」という考え方です。
実際に、2017年にニュージーランドのワンガヌイ川に法的人格を認める判決が下されています。このワンガヌイ川は、ニュージーランドで3番目に長く、 マオリ族が古くから神聖視してきた川で、1870年からこの川をめぐる権利を主張し続けた結果です。
また、川だけでなく、同年ニュージーランドで同様の法的人格を、タラナキ山に対しても法人格を認める判決が下されたとともに、その数年前には、テ・ウレウェラ国立公園が法的人格を認められ、政府が管理する国有財産ではなく、自立した存在になっています。
ニュージーランドでの判決に続き、インドではガンジス川とヤムナ川に法的権利として 「生きた人間に付随するすべての権利、義務、法的責任」を与えられ、コロンビアでは、最高裁判所がアマゾン川に法的権利を認めています。
さらには、エクアドルで2008年に制定された憲法では、自然そのものに、「その重要なサイクルを存続、持続、維持、再生する」権利を認めています。
そして2010年には、ボリビアで、「母なる大地の権利法」が制定され、「母なる大地とは、相互に関連・依存・補完し、運命を共有するすべての生命システムと生き物からなる不可分のコミュニティによって形成される動的な生物システムである」と認めています。
ヨーロッパでも、フランスでロワール川に対して法律上の人格を持つと仮定し、環境保全団体が代理人となり国を相手取って訴訟が起きています。
従来では、それぞれの種に対して様々な法律が存在し、その法規定によって判断していましたが、このケースは、「ロワール川」という固有の特徴をもった生態系全体を評価し、「川」を中心とした生態系全体が存続し続ける権利を認めるという、自然の法人格化という先進国での動きのひとつです。
これらの権利は現実的でなく、「美辞麗句にすぎないのではないか・・・」というような問題を解決するためにも、動植物を含めた様々な生命の権利を適切に評価するとは、どういうことなのか・・・などの様々な議論をそれぞれの分野の専門家を交えて、地域一丸となって行っていく必要があります。
そして、これらの法人格化によって、人間に害を及ぼす行為が起訴されるのと同様に、今後、これらの川に害を及ぼす行為はすべて起訴される可能性を有する国が実際に表れてきたのです。
声を上げられなくても、地球には一つの人格として、「生きて存続する権利、尊重される権利、バイオキャパシティ(生物生産力)を再生し、その重要な循環とプロセスを維持する権利」があると考えられる社会の実現・・・。
身近な、「水」の存在を通して、地球環境のみでなく人間社会全体を考える・・・
そして、その考えをもとに、身近な「水」に対して自身のできることを実践する。
「水を育てる・・・」という考えかたも次のステージにシフトしていくためにも、一人一人の小さな実践の積み重ねが必要なのだと思います。
2024年02月02日
「立派な原始人を育てる」を考える

「立派な原始人を育てる」という言葉は、文教大学の成田奈緒子教授が著書「発達障害と間違われる子どもたち」で述べている言葉です。
原始人と聞けば、「野蛮で、粗悪な・・・」というようなイメージの方も多く、現代社会には適応できないと考えてしまう方も多いのではないでしょうか。
しかしながら、動物として生きていくために必要な事・・・と考えれば、「日が昇ったら起きて、生きるためにしっかり食べて、日が沈んだら身を守るために安全な場所ですぐ眠る」 これは、まさに原始人の生活と同じともいえます。
多くの人にとって、動物としての本来の姿、という視点で私たち自身を俯瞰的に見ることを忘れてしまっているのかも知れませんが、「寝る・食べる・動く」というスキルは、どれだけ社会が変化したとしても生きるスキルとして重要なスキルであり、本能と呼ばれるような、身体そのもののメカニズムとしても重要なものとして位置付けられていると考える必要があります。
成田奈緒子教授によれば、脳の発達の段階においても、この「寝る・食べる・動く(逃げる)」のスキルの重要性について、「生きるために欠かせない働きをするからだの脳が育ったうえで、はじめて次に考えたり、想像するための脳やこころの脳の発達に繋がる・・・」と述べています。
そして、からだの脳を育てるためには、早起きし、しっかり食べ、よく寝ることをくり返すことを大切にすることです。
その中でも、生きていく上で本来必要なスキルは、自分自身の危険を察知し、逃げることも含めた対応を瞬時に行動に変換することです。まさに、「闘争か、逃走か・・・」という本能的なものです。
知識としての脳が発達していて、勉強が出来たり、何カ国語もの言葉をしゃべれたとしても、からだの脳が育っていなければ「自分が今、危険ではないか、逃げるべきか逃げないべきか」の判断はできません。この判断ができなければ、死に至る危険を放置することに繋がってしまいます。
仕事が忙しいからといって、ご飯を抜いてしまう。 寝る時間を削って仕事をしてしまい、睡眠時間を確保できないというような生活習慣が、直接的に自身に迫る脅威とつながるようなイメージにならないかもしれませんが、そのような環境から逃げずにそのままの生活を続けることでメンタルヘルスに影響を及ぼしてしまったり、ひどい場合には過労死というような最悪の顛末を迎えることもありえる、というイマジネーションが欠如してしまう原因も、「寝る・食べる・動く」を基本とする身体の脳がうまく育っていないことによって起きてしまうと考えられています。
多くの人は、食べたり、寝たり、動く・・・ということは当たり前のように出来るはず、とおもっているかもしれませんが、その「当たり前・・・」には、周りの人の習慣や思い込みによるバイアスの上に成り立っているという認識が必要です。
からだの脳の形成期と発達の関係を考えれば、周りの大人たちの当たり前によって、ヒトとしての基本的な感覚を形成していくのです。
成田奈緒子教授は、「食べること、寝ることをきちんと教えてもらった子どもは、何が本当に危険なことかわかり、そこから逃げ出すこともできるようになるのです。」と述べるとともに、「自分のことがわかる力」の大切さを訴えています。
発達障害の症候を示すような傾向の子どもには、自分がどういう状態で、どうしたいかがわかっていないこと、自分への感覚が乏しい子がおり、ここに自律神経のアンバランスさが加わると、自分の体調の悪さなどに気づけず、気がついたら倒れているというような事もあるようです。
このような状況は、自分の心や体の状態に意識を向けるのが苦手であることが原因でもたらされるとも考えられています。
自分の状況を把握する力、心や体の状態を感じ取る力は、自ら試行錯誤をくり返すことで成長しますが、親を含めた周りの大人が子どもの行動や失敗を予測して先回りしてしまうことで、子ども自身が自分で感じて考え、行動する機会を奪っていないかという可能性を意識する必要がありそうです。
現代社会に於いて、忘れ去られようとしている生物種の一つである「ヒト」の基本的な能力を育むことを、今一度大切にする・・・ことは、「原始人を育てる」に通じるだけでなく、現在のような不確実性の高い社会に適応していくためにも重要なことなのかもしれません。
2024年01月26日
睡眠と子どもの発達の関係を考える

子どもの健やかな発達・・・は、誰もが願うことだと思います。子どもに気になる行動があったり、周りの子よりもできないことが多かったりすることで、自分の子と周りの子どもと比べて、「これが出来ていない」「発達が遅くて不安」と思うことは、当然の事かと思います。
もし、発達障害と呼ばれるような症候であるのであれば、二次障害と呼ばれるような周囲の無理解による放置によって悪化することを避けるという意味で、早期に適切な対応をするということは大切なことの一つです。
文部科学省は2000年に21世紀の特殊教育の在り方に関する調査研究協力者会議を実施し、その最終報告で、「通常学級にいる特別な教育的支援を必要とする児童生徒に積極的に対応することが必要」という見解を示しています。
これを受け、2002年に小中学校の通常学級の中に発達障害の可能性を持つ、 特別な支援が必要な子どもがどのくらいいるのかを把握するため、教員に対してアンケート調査を行った結果、通常学級の中には6.3%、人数にして2~3名もの「特別な支援を必要とする児童生徒」がいるという報告がなされました。
その2年後の2004年には、子どもが小さいうちに発達障害を発見して、適切な支援を行うことを推進する「発達障害者支援法」が成立しています。このような流れそのものは、適切な子どもの発達を社会で支えるという視点で見れば非常に良い事だと思います。
しかしながら、文部科学省のある調査によると、2006年の時点では、発達障害児の数は全国で7,000人足らずであったのに対して、14年後の2020年には、発達障害児の数は9万人を超えたというのです。つまり、少子化で子どもの数が減り続けている中、この14年で発達障害児の数は反比例するように増え続け約14倍になったというのです。
小児科専門医・医学博士・公認心理師でもある文教大学の成田奈緒子教授によれば、この14倍という数字に対して、「長年、多様な臨床現場を経験してきた立場からすると、この子どもたちのすべてが発達障害児にはどうしても思えません。この中に少なくない数で、発達障害の診断がつかないのに、発達障害と見分けがつかない症候を示している“発達障害もどき”と言えるような状態の子どもたちがいるのでは・・・」と疑問を呈しています。
成田奈緒子教授は、「私自身の約35年にわたる研究・臨床経験を踏まえても、本当に発達障害と診断されるお子さんはそこまで多いわけではない・・・」と言います。
この状況について、教師や親御さんの子どもを見る目の中に「発達障害」という選択肢が1つ追加されたことにより、「この子も、発達障害なのかもしれない」と思う方が増えてしまったという可能性を考えれば、「先生の話を無視して歩き回る子」、「みんなと同じ行動ができない子」、「すごく不器用な子」という、いままでは、少し手がかかるだけと思われていた子どもたちが、発達障害という枠に当てはめられるケースが増えてきたと考えることも必要になってきたと言うのです。
発達障害は「先天的な脳の機能障害」と定義されるため、診断のためには「生まれたときからの生育歴」を含め診断基準に照らし合わせる必要があるのですが、生育歴にまったく問題はなくてもあたかも「発達障害のような行動」が見られる子どもが多くいるというのです。
このような子どもたちによく見られるのが、生活リズムの乱れと、テレビやスマホ、タブレットなどの電子デバイスの多用です。
生活のリズムに一番大切なものが、睡眠です。また、様々な電子デバイスは、光源を直接見るという行為につながることが多く、視神経を通じて脳をはじめとする多くの神経系に強い刺激を与えるために、睡眠にも大きな影響を与えると考えられています。
特に、子どもの成長の過程においては発達段階によって必要な睡眠時間は異なってきます。従って、一緒に生活している大人と同じ睡眠時間では足りていないということを認識しておく必要があります。
また、睡眠は脳の発達にも重要な役割をしています。睡眠不足が原因のイライラが、多動の症状に見えたり、不規則な食生活が原因で偏食に陥りイライラするなど、睡眠の質の低下につながるような不規則な生活のリズムがもたらす子どもへの影響が、発達障害と呼ばれる症候が似ている・・・ということも意識する必要があるというのです。
とはいえ、子どもだけ先に・・・も難しいかと思いますので、一緒に生活する大人自身の生活リズムを見直すことで、子どもの状態の変化につながるというケースも実際にあるという報告もあります。
家族や身近な人のために、自分自身の睡眠をもう一度考え直してみることも大切なことかもしれません。