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2024年01月20日
怒るは知恵の行き止まり・・・とあたまかき

「怒るは知恵の行き止まり・・・とあたまかき」は、私の知人の口癖でした。その中でも、最後の「頭かき・・・」という、力の抜け具合が頭に残っている言葉です。
ハラスメントという言葉が、様々な場面で使われるようになり自身の感情をおもてに表すことに対して気にかけることも多くなってきたのではないでしょうか。
また、「自分の機嫌は自分でとる・・・」という考え方も一般的になりつつあるなか、アンガーマネジメントという考え方も注目されるようになってきました。
そもそも、怒りの感情とは動物としての自己防衛本能であり、自然界で身を守るための生存戦略としてもっとも大切なもののひとつです。
「逃走か、闘争か・・・」という言葉は、危険回避に直結する行動を分かりやすく、表現されていると同時に、現代社会においては自身の生命の危機という捉え方は変化してきていると考える必要もあります。
現代社会に於いては、幸いにして原始の時代のように、日常的に野生生物から身を守るというような危機意識をもって生活を送る必要が無くなってきたことや、社会情勢の大きな変化などを考えれば、危機意識そのものは、直接的な「身の危険」から、人間関係や社会に対する「不安」のほうが大きくなってきたと考える必要があるのかもしれません。
「不安」に関する表現のひとつに、「どうしていいかわからない・・・」という言葉があります。
この「わからない・・・」という不安に対して、様々な感情が沸き起こってくるかと思いますが、その一つが「怒り」なのかもしれません。
また、世の中には、かつてのブラック校則に代表されるような「訳の分からないルール」が、たくさん残っています。その「訳の分からなさ・・・」に対しても、「自分の力ではどうしようもない・・・」という喪失感とともに、怒りの感情が湧いてくることもあるかと思います。
また、別の視点で考えれば、自分の中に、明確な解決策や、具体的なロールモデルがあることで冷静に事に当たることが出来るという場面を経験しているかたも多いのではないでしょうか
自分自身の喪失感によって、周りの人の言動が自分に対する批判に映ってしまうことで、被害者意識によって沸き起こる怒りの感情があるのだとしたら、怒りの感情は、自身のなかで、「万策尽きた・・・」という時に起こる感情と考えることも大切なのかもしれません。
まさに、「怒るは知恵の行き止まり・・・」です。
また、そのような状況に陥りそうになった自分の姿に対峙することも大切なことの一つだと思います。
誰しも、自身のダメなところを受け入れることは難しいことだと思います。
例えば、照れてしまう・・・、人の目が気になってできない、・・・ということもありますが、平常心を失ってしまうことで、恐怖や不安を感じ何も言えない状況に陥ってしまえば、客観的にみれば、「腹をくくれていない・・・」というように映ってしまうこともあります。
このような状況におちいってしまわないためには、次の3つの要素が大切だと言われています、
まず一つ目は、この状況で自分自身が目的に対して、なにをすれば良いのかを知っているということです。よく耳にする、「聞いていない・・・」「理解されていない・・・」という不満や怒りは、目的に対する認知の差によって起きてしまうと考える必要があります。
二番目は、この状況で自分自身の責任に於いて、どうすれば良いか・・・という判断ができることです。これは、「自分で判断していいんだ・・・」という自認の意識と、周りとの信頼関係にも関わってきます。
これらの二つは、知識や知恵につながるものになりますので、「知恵の行き止まり」のリスクを明確に表現しています。
最後が一番大切なのですが、この状況を良くしていこう・変えていこう・・・という意志を行動に転換するチカラで、まさに「やろうとするチカラ」です。
この三つのひとつでも欠けていると、うまくいかないというのです。
さらにこの「やろうとするチカラ」も、次の三つの原因によって損なわれてしまうと考えられています。
一つ目は、「闘争か逃走か・・・」不安や恐怖に対する、本能的な生体反応です。これに対する、対応策としては、肯定的に捉えることで脳をだますことや、ネガティブな反応を事前に認識し、対処方法を準備しておくことだと言われています。
二番目は、過去の経験などから・・・失敗に対するイメージが先行してしまい行動に移せないパターンに陥ってしまう「ネガティブ思考」と言われるもので、具体的な行動目標に切替えることで目の前の事に集中しやすいとされています。
三番目は、「自分がどのように見えているのか・・・」という俯瞰的な視点がないことで、自分自身のことを理解できていなかったり、自分自身の強み弱みが解らないために、具体的な対策がとれなかったり、客観的にみると「いつも同じパターンで失敗している・・・」ということにつながってしまいます。
この俯瞰的な視点の難しさ・・・は多くの方が感じている事なのではないでしょうか。
「自分を見つめなおす・・・」「自分に対峙する・・・」というような、力強い言葉に惑わされずに、「自分にも、こういうところあるからな・・・」というような、軽い気持ちで、出来ていない自分を認めることからでもいいのではないでしょうか。
「怒るは知恵の行き止まり・・・とあたまかき」の「頭を掻く・・・」というこの仕草の中にある茶目っ気のようなものに、自身への向き合い方の一つのヒントがあるような気がします。
2024年01月12日
幸せにならなければいけないのか・・・を考える

「生きづらさ・・・」という表現を耳にすることが多くなってきたと思う昨今・・・、幸福でなければならない、それゆえに「失敗が許されない・・・」「失敗させてもらえない・・・」という強迫観念や社会全体の閉そく感に苛まれてしまっていると感じることもあるのではないでしょうか。
確かに、幸福は素晴らしいものであり、大切なものです。
現実に幸福の利点に関する研究も多く、幸福な人たちは、社交的で、 探索好きで、独創的で、健康であることが多く、「人間のもっとも自然な安定状態だ・・・」とも言われています。
特に健康面で言えば、幸福感の高い人は低い人に比べて、風邪を発症する確率が50%も低いというような報告もあり、 幸福感は免疫機能を高める効果があるとも言われています。
このように、幸福感は非常に価値あるものと考えられていますが、実は、そうばかりとも言い切れない・・・というような研究報告もあるようです。
そもそも、幸福には「感情」の要素が含まれており、喜び、情熱、満足感など、個人が主観的に体験するものと定義づけられています。そして、「誰かが幸せそうだ」と見える時は、その人が頻繁にポジティブ感情を表していて、ネガティブ感情を見せることが少ない状態とされています。
京都大学こころの未来研究センター内田由紀子教授によれば、「幸福のネガティブ面」は主に二つあると言います。
ひとつは、一人の幸福による影響が他者に及ぶことで、社会の調和を崩してしまうことです。
幸福に関する実証実験によれば、「幸福になりたい・・・」という願いが最も強かった人たちほど、孤独感が強く、憂うつで、目的意識も低いという報告もあります。更に、ポジティブ感情も少なくなり、EQも下がっていたというのです。
「幸福になりたい・・・」という願望は、視点を変えれば自己中心的な思考とも言えます。自分の幸福感とポジティブ思考だけを大事にすると、他者のことは二の次になるので、恋愛関係、家族関係、友人関係の質が損なわれていくということからすれば、ある意味当然の事なのかもしれません。
仲間と一緒にいるときに「貴方だけ、特別なサービスをご用意します・・・」と言われたらどうでしょう・・・?
「愛情」とは、人のために自分の幸せを喜んで犠牲にすること・・・
「愛」とは、他者の視点を取り入れてものを考えること・・・
とも言われています。誰かが愉快な話をしていたら、頭の中で「これをパートナーや友人に話してやろう。きっと楽しいだろう・・・」と思って、さらに楽しい気分になるかもしれません。
自分の幸福に価値を置きすぎることはその妨げになり、その結果、孤独などの不幸な副産物が手元に残るというのです。
もうひとつは、「幸福」という幻想にとらわれすぎることで、現実から目を背けてしまう「現実回避」の傾向が顕著になる事です。このように幸福感にむやみに高い期待をかけることは、別の形で、幸福や成功を損なうことにつながるというのです。
世の中は予想もつかない動きの連続であることは多くの方が理解しているかと思います。だからこそ、あなたがたとえ礼儀正しく会話上手であっても、電車でたまたま言葉を交わした人が、挨拶もせずそのままさっさと、降りてしまうこともあります。
コントロールできるのは自分の態度だけであって、相手の感じ方、行動、反応はその人次第であることは、理解していたとしても過去の成功が自分の実力だと思い、幸運や周りの協力のことは忘れてしまうのです。
逆に失敗は状況のせいにして、どうしようもなかったのだと考える。こういう楽観的なバイアスがあると、幸福感とモチベーションを維持するには役に立ちますが、過去の過ちから学ぶことはできません。そしてさらに期待を膨らませて進んでいくことになるのです。
さらに、幸福のための選択をする上で、考慮しなければいけないバイアスがあるとも言います。
「欲しい」と「好き」という、二つの感情を一緒のモノだと考えてしまい、「何かを欲しい」ということと、「何かを好き」ということの違いによって起きる「欲しい/好きバイアス」と言われるものです。
脳神経科学の分野では、「欲しい」という心理と、何かが「楽しく感じられる」とか「好きだ」というのは、それぞれ別の部分の脳の働きであり、異なる心理プロセスであることが明らかになっています。
「欲しい」「満足したい」という強烈な欲望に押されて買い物をしたり、人生の大事な選択を行ったりする時に、それが長期的に見てどういう結果になるかを予見する能力もなく、慎重に考えずに行ってしまうことはないでしょうか。
幸福に関しては、この「欲しい」と「好き」の違いは特に重要と考えられています。
私たちはこの2つを同じものだと思い込みやすいために、手に入れた後もそれをずっと好きなはずだと考えるのですが、何かを欲しいという想いや、満足をしたいという際限のない欲望は、さらなる次の欲求に変化していくのです。
「欲しい」と思って何かを手に入れたその瞬間から、その高まった欲求は鎮まり、それを好きだという気持ちは変わらないが、かつてそれを求めた時ほどの強い気持ちはもうないという経験を多くの人がしていることからもいえることです。
幸福を願うことは確かに大切な事だと思います。しかしながら、幸福感を求めすぎるゆえのデメリットを考えれば、やみくもに求めることも考え直す必要があるのではないでしょうか。
調査によると、人は誰でも自分は他の人間より出来がいいと思っているそうで、「人並み以上効果」と呼ばれています。言い換えれば、ほとんどの人が「自分は平均以上だと考えている・・・。」ということです。
例えば、車の運転技術に関して尋ねた別の調査では、回答者の99%が、自分の運転の腕は平均以上だと答えています。
このような「虫のいい思い込み・・・」があるからこそ、私たちは不確定でやっかいな現実に立ち向かう自信が持てることも事実であるということを考えれば、幸福感とは良い距離感を保ちながら付き合っていく事が必要なのかもしれません。
かつて、P. ドラッカーが「幸福はもういいから、やるべきことをやれ」と皮肉にもとれるような言葉を残したと言われています。
幸福という思考や感情は、現在自分自身がどのような状態なのかを示すシグナルのようなものと捉えることが大切です。
そのシグナルそのものをコントロールするかのようなことを人生の目標にしてしまえば、自分自身のしていること自体の魅力が損なわれるばかりではなく、良い結果にもつながりません。
もし、「幸せでありたい・・・」と思うなら、幸せになりたいと頭で考えることをやめ、身を入れて目の前の人生を生きることの方が、むしろ近道なのだと思います。
ポジティブになろう、ネガティブを避けようと必死に頑張ることは無益なだけでなく、自分を取り巻く世界に見いだせるはずの喜びや関心、そしてその意味が、見えなくなってしまうからです。
2024年01月05日
認知機能と腸内細菌叢

加齢による認知機能の低下は、本人のQOLのみならず周りの人たちへの生活への影響の大きさもあり、認知機能低下の予防や改善については多くの研究者を含め優先的社会課題の一つと考えられています。
また、日本国内では、65歳以上の高齢者のうち、認知症と診断された人と、認知症ではないが、以前に比べて認知機能が低下してきており軽度認知障害といわれる人とを併せると約3人に1人とされているのが現状です。
そのような中、脳腸相関など脳と腸や腸内の共生微生物である腸内細菌との関係と認知機能に関心をもつ研究者も多くなり、2011年には、「認知症の有無によって腸内細菌叢が大きく変化する」という知見についての発表があり、その当時は未解明であった認知症の前段階である軽度認知障害と腸内細菌との関係性についても徐々に解明されつつあるそうです。
国立長寿医療研究センターもの忘れセンター客員研究員佐治直樹氏によりますと、認知症の有無によってエンテロタイプと呼ばれる食生活や生活習慣によって分類される腸内細菌叢の状態との相関関係について様々なことが分かってきたというのです。
このエンテロタイプとは、性別や人種に関係なく、食生活や生活習慣によって分類され、バクテロイデス(Bacteroides)属が多いエンテロタイプⅠ型、プレボテラ(Prevotella)属が多いエンテロタイプⅡ型、そしてルミノコッカス(Ruminococcus)属やその他の菌が多いのをエンテロタイプⅢ型と3つに分かれています
研究では、認知症がある人と認知症のない人を比較すると、認知症のない人のグループでは、45%がバクテロイデス属の多いエンテロタイプⅠ型だったのに対して、認知症のある人のグループでは、エンテロタイプⅠ型は15%で、種類の分からない菌が多いエンテロタイプⅢ型が85%を占めているという結果になりました。
つまり、認知症の人にはエンテロタイプⅠ型の割合が少なく、エンテロタイプⅢ型の割合が多いというようにエンテロタイプが異なっていることが分かったというのです。
また、「認知症の特効薬はないですか?」と聞かれれば、「残念ながら、現時点ではありません」という回答にならざるを得ません。
しかし、「予防につながる生活習慣はあります・・・。その一つが食事です。」腸内微生物叢や腸内細菌の代謝産物は食事と切り離せないことがその理由になります。
これらの関連性に対するメカニズムについても、腸内細菌の代謝物に注目し、さらなる研究が進んでいます。
腸内細菌は、大腸に届いた栄養源を代謝する過程で多種多様な代謝産物をつくります。どんな代謝産物が産生されるのかは、食事内容や腸にすんでいる腸内細菌によって異なります。
代謝産物の中には腸内で有害菌の増殖や腐敗産物産生を抑制する良い働きをする酪酸や酢酸のようなものもありますし、腸内環境悪化の指標でもあり、おならの悪臭の原因で腐敗物質ともいわれているインドールやスカトールなどもあります。
最近の研究では、腸内細菌の代謝産物は認知機能と関係性は大きく、認知症の人の便では、アンモニア、p-クレゾール、インドールなどの、いわゆる有害菌が産生する代謝物の濃度が高く、逆に、認知症ではない人においては、それらの物質はあまり見られないという報告もあります。
また、認知症の人には少なく、認知症ではない人に多かった代謝産物は乳酸であるとの報告もあります。
さらなる、統計学的な解析では、アンモニア濃度が1標準偏差(SD)上がると認知症リスクは1.6倍に高まり、乳酸濃度が1SD上がると認知症リスクは約0.3倍に抑えられるということも分かってきました。
アンモニアと乳酸について、少し補足しておきます。代謝物質の一部は腸管から吸収されて血液循環系を介して全身を巡りますが、血中アンモニア濃度が高くなると、認知障害やアルツハイマー病のリスクが高まるという研究報告もあります。
有用菌によって産生される乳酸は、有害菌の増殖を抑えて腸の運動を活発にします。そして、食中毒菌や病原菌による感染予防や発がん性を持つ腐敗産物の産生を抑制する腸内環境をつくることが知られています。
身体の健康には、腸内細菌叢における有用菌の占める割合を増やすことが重要です。腸内細菌の代謝産物と認知症の関係においても、有用菌を増やし有害菌を減らすことが重要であるということが見えてきました。
また、高齢者を対象とした興味深い研究もあります。この研究は、食事を日本食パターン、動物性食品パターン、高乳製品パターンの3種類に分類し、認知症の関連を追跡したものです。
東北大学で2016年に報告された内容では、日本食パターンの度合いが高い人で認知症発生リスクが低いとしていましたが、さらに、食事スコアを算出するにあたって加点する食事内容を、穀類・味噌・魚介類・緑黄色野菜・海藻類・漬物・緑茶を基本とする「伝統的日本食」と、これに豆類・大豆製品・キノコ 類・果物を加えた「現代的日本食」、さらにコーヒーを加えた「コーヒーを含む日本食」の3つに分類した結果によると、コーヒーを含む日本食のグループが優位に認知症に関して低リスクであるという報告がなされたいうのです。
佐治直樹氏によれば、コーヒーについては世界中で認知機能に好影響とする研究がありますが、また、認知症のリスク評価には、外出や友人との交友などの社会生活も大きく影響することからしても、「コーヒーを飲みに友だちと出かける」という行動と、良好な腸内細菌叢との相乗効果による可能性についての指摘をしています。
本人のみならず、周りの方々へのQOLに対して大きな影響をもつ認知機能・・・、脳腸相関という概念を取り入れた、腸内細菌叢からのアプローチと、孤立しないことを意識した、社会生活を大切にしていく・・・という双方からのアプローチは多くの面で大切なのかもしれません。
2023年12月28日
罪悪感と恥の意識

「失敗は成長の糧である・・・」というような表現をよく耳にするかと思いますし、失敗から学ぶことが多いということも事実かと思います。とは言え、「失敗を素直に学びに変えられるか・・・」というと、「これは別の話・・・」という想いの方も多いのではないでしょうか。
失敗をした時の心理状態を考えてみると、多くの人が「罪悪感」を感じてしまうと思います。
アメリカの社会心理学者ロイ・バウマイスター氏は、「罪悪感によって落ち込んだ人は、そういう気持ちを和らげるために、パートナーや同僚のために尽くすようになる」と述べています。
そして、罪悪感によって、「自分の行動が人にどういう影響を与えるかを学び、次からは気遣いができるようになると考えれば、失敗をした時に落ち込んだとしても、長い目で見れば自分の成長にとって、それがよかった・・・」という流れになればいいのですが、実際にはそう上手くはいかない・・・というのが現実です。
人間関係などの分野を専門とし、その研究が高く評価されているジョージ・メイソン大学トッド・カシュダン教授らは、著書「ネガティブな感情が成功を呼ぶ」で、「罪悪感」の有効性を活かすために、「罪悪感」と「恥の意識」を分けて考える必要性を訴えています。
つまり、同じ行為をしても、「罪悪感」ではなく、「恥の意識」を持ってしまうことで、問題はむしろ悪化するというのです。そして、恥をかかせればかかせるほど、その人の不安と攻撃性は増大し、周囲から孤立していき、さらに、「罰として恥をかかせるような行為が、悲惨な逆効果を生み、やめさせようとする行動を、かえって助長することにつながってしまう・・・」と考える必要があるというのです。
ここで、「罪悪感」と「恥の意識」との違いについて考えてみましょう。
それぞれに対する、心理的な状態を次のように表すことが出来ると言います。
「罪悪感」とは・・・
自分の行為とそれによって傷ついた人たちに注目する
自分がしたことを不快に思う
なぜ自分はあんなことをしたのかと自問する
心の痛みはそれほど強くない
悪い結果に対して自分には何かができると思う
緊張感と後悔を覚える
ダメージを修復し、 償いをしたいと思う
悪かったのは自分だと思っている
「恥の意識」とは・・・
自分という人間全体に注目する
自分自身を不快に思う
なぜ自分はあんなことをしたのかと自問する
強い苦悩と欠陥意識にさいなまれる
悪い結果に対し、 自分は何もできないと思い込む
身をすくめ、現実を避け、逃避したいと願う
隠れたいと思い、 それができないと (自分あるいは他者に対し) 攻撃的になる
他者を責める (スケープゴートを探す )
この二つを比較してみますと、「罪悪感」は、「過ちに対する自責の念」であり、「自分の行動が不十分ないし誤りだったと感じることによる自己非難」としています。
いっぽう、「恥の意識」は、別のものになります。人が恥の意識を覚える時には、単に自分の行為を過ちや悪行だったと考えるだけではなく、「自分自身を基本的に悪い人間と感じる」ことが大きな特徴と考えられています。
つまり、「罪悪感」の場合は、悪かったという認識は特定の状況に限られるのですが、「恥の意識」は、自分という人間そのものをネガティブに捉えてしまうのです。
ジョージ・メイソン大学の心理学教授であるジューン・タングニー氏は、犯罪抑止のカギは「罪悪感」を含めた道徳感情ではないかという仮説を、10年以上の長きに渡り研究し続けています。
そして研究の結果、「罪悪感」を覚える傾向のある服役囚はそうでない人たちよりも、過去の過ちのために深く苦しんでいることを明らかに するとともに、 彼らは進んで罪を告白し、謝罪し、自分が起こした問題の後始末をしようとする。
そして、出所後も、再び悪に手を染めて逮捕されることも少ないというのです。
さらに、道徳心に罪悪感が加味されると、人は対人関係に気を配る思いやりのある人間になろうとし、他者への攻撃などをすることが少ないという調査結果が報告されています。
人格というのは「誰も見ていない時にその人が何をするか」に表れると考えると、「罪悪感」という道徳感情は人格の基礎を形作るものとして価値のあるものと考える必要もあるのかもしれません。
そのためにも、その人を苦しめ、自分を嫌いになり、変わりたいとか身を隠したいと望み、時には自分を消し去りたいと思うような「恥の意識」ではなく、「罪悪感」のみを感じるために3つのアプローチがあるそうです。
まずは、「何をめざすのかを常に考える」ことです。その失敗を当人の価値観の欠如、愚かしさ、欲深さなどの「性格的欠陥」と、ごちゃ混ぜにして個人攻撃をしてしまうことも多いと思いますが、誰もが、「欠陥人間・・・」というような扱いをされれば、「恥をかかされた・・・」ことになります。
しかし、具体的な行為の間違いについての指摘であれば、心を開いて受け入れられます。更に、その人の強みや優しさについても折に触れながら、その長所を強調した上で、過ちの責任を指摘することで、相手も納得し易い状況になります。
次に、「共通の理解を持つことから始める」ことです。誰かが間違いを犯したら、まずその人の価値観や目標を理解していることを示す。その上で、相手の行動はその価値観に合わないもので、別のもっと健全な行動がふさわしいと丁寧に説明する。
そして、こちらの不快感を伝えて気持ちを共有することです。これは、そんなに簡単ではなく、相手の間違った行為を見逃してしまった方が楽だと思うかもしれませんが、 過ちを指摘することは、後悔している当人にとってはもちろんのこと、する側にとっても気分のいいものではありません。
しかしながら、そのフィードバックを定着させて相手の今後の行動を改善させようと行動し、自分もいい気分ではないということを率直に伝えることは有効であると考える必要があります。
最後に、「相手をコントロールするのではなく、自主性を持たせる」ことが大切になります。人は、「何かをしろ」と言われることに対して、一般に考えられているほど嫌がらないと考える必要があります。
例えば、家族から「ゴミを出して」と言われれば、皆さんは気持ち良くできますが、ゴミ袋を置く位置が悪いと言われたら不愉快だし、それをどうやるかをこまごま指示されることについては、不快な気持ちになります。
人々のモチベーションについて研究している多くの学者たちは、人間の基本的欲求のひとつで、衣食住のニーズと共に大事なものは、「自分の生き方を自分で決めたい」という欲求であると述べています。
失敗を今後に活かすためには、この後どうするべきかまで指示せずに、行動を改めるためにどんなことができるかを、当人に考えさせることを大切にすることも有効なことの一つだそうです。
「恥をかかされた・・・」という感情は、その相手のみならず、ひいては社会という実体のないものにまで広がり、肥大化する・・・ということなのであれば、「罪悪感」と「恥の意識」の違いをよく理解することは大切なことなのだと思います。
2023年12月01日
幸せホルモン「セロトニン」とレジリエンス

レジリエンスは、「困難をしなやかに乗り越え回復する力」ともいわれ、「回復力」「復元力」「耐久力」「再起力」「弾力」などと訳されており、精神的なタフネスという意味合いを持っている事などからビジネスの世界でも注目が集まっています。
また、鬱症状などのメンタルヘルスの回復に対して、セロトニン再取込阻害薬といわれるような、脳内のセロトニン濃度を増やすような薬が選択されることがありますが、実際にはセロトニン濃度の向上と鬱症状の改善のメカニズムについては、よくわかっていないのが現状だと言われています。
とはいえ、幸せホルモンと言われるセロトニンが目標達成のプロセスにおける努力行動の過程で、「きっとうまくいく・・・」という楽観と、「どうせだめだ・・・」という悲観の調整や、呼吸や睡眠、認知など「こころ」と言われる領域を中心に幅広い生命活動に関与していることがわかっており、多くの研究者が関心を寄せています。
沖縄科学技術大学院大学 神経計算ユニットグループの宮崎勝彦リーダーは、このセロトニンと目標達成のための努力行動に過程での、セロトニンの役割について、ラットを使用した実験について報告をしています。
この研究では、ラットの餌の獲得の状況の変化に対して脳領域のセロトニン神経活動をリアルタイムでモニタリングするという方法で行われました。
その結果、「ラットが餌場に鼻先を入れて、出てくるのはいつかいつか・・・と辛抱強く待っているという状況では、セロトニン神経活動が持続的に高まることがわかった」というのです。
そして、セロトニン神経を活性化することで、餌が出てくるまで待っている時間が優位に伸びた、ともされています。
さらに、これらの行動を数理モデルのシミュレーションを行った結果、セロトニン神経を活性化させることで将来報酬の確信度が向上し、「きっとうまくいく・・・」というような楽観的傾向が高まったということも示されたというのです。
この実験を行った、宮崎氏はこのようなセロトニンの働きに対して、「私たちが生きていく上で大切な、将来のために困難に立ち向かうチカラや、レジリエンスを高める事にも深く関係しているのだろうと考えています。」と述べています。
さらに、同じ努力行動であってもその目的によってセロトニン神経活動によるものなのか、それ以外の神経活動によるものかによってメカニズムとその行動結果について異なる可能性についても言及しています。
目的が「自分がやりたいもの・・・」のように喜びにつながるよなポジティブが動機によるものなのか、罰回避行動と言われるような、試験勉強や自分の立場が悪くならないために苦手な業務に対峙するというようなネガティブな動機のケースでは「やる気」といいわれる活動そのものの持続性が異なることは感覚的にわかっている方も多いかと思います。
このやる気の持続性が、同じ報酬に対して活動を低下させるドーパミン神経活動によるものと報酬そのものではなく報酬のプロセスに対して活性することで、繰り返しによる活動の低下がみられないセロトニン神経活動とでは異なるというのです。
幸せと満足とは違う・・・という考え方がありますが、この二つの違いについて「満足」には際限のない欲望のようなものにつながっているゆえにレベルが上がっていかないと満足度については、良い方向に変化しない状況に於いては満足度が下がってしまうと考えられています。
ひょっとすると、この二つの違いは観念的な違いではなく、セロトニン神経活動によるものとドーパミン神経活動によるものの違いによって説明がつくのだとすれば、「ものごとに対する考えかた・・・」というアプローチのみでなく、栄養素であるトリプトファンから幸せホルモンのセロトニン、・・・さらに睡眠ホルモンのメラトニンという生体メカニズムとしての循環に着目することで、レジリエンスの向上につながる可能性が示唆されたと考えることも出来るでしょう。
今回の研究結果は、「夢や目標を成し遂げる・・・」というような「なりたい自分」が明確であればあるほど、セロトニン神経活動が活発になり持続可能なこころの活力につながるという可能性が示唆されたとともに、腸管での産生量が多く、脳腸相関に密接に関係していると言われる幸せホルモンのセロトニンに対する関心がますます高まってくるのかもしれません。
2023年11月25日
ネグレクトと腸内フローラの関係を考える

ネグレクトは、子ども・高齢者・障害者などに対して、保護、世話、養育、介護などを怠り、放任する行為として、暴力などの身体的なものや、精神的虐待さらには性的虐待と並ぶ虐待のひとつで、日本では「育児放棄」を意味する傾向が強いとも言われています。
このネグレクトは、決して軽い虐待ではなく幼少期の長期にわたる影響は、うつ病や統合失調症などの精神疾患につながるとも言われており、その影響は成人期に発症するケースもあるようです。
さらに、幼少期には脳機能が環境によって変化しやすい時期とも言われており、それゆえに脳の発達には重要な時期であると考えられています。
また、多くの知見で、精神疾患患者では下痢や便秘等の消化器症状の併発率が高く、ディスバイオーシスと言われるような腸内環境の破綻との密接な関係に関心が寄せられており、消化器系からのアプローチによるメンタルヘルスの向上についての可能性への期待が高まっているとも言われています。
そのような中、藤田医科大学の講師國澤和夫氏のマウスを使用した幼若期でのネグレクトと腸内細菌叢の変化、さらに精神疾患に関連した行動異常についての研究報告について、ご紹介させていただきます。
この実験では、幼若期のマウスに対して社会的隔離によるストレスを4週間にわたり与えたグループと通常の飼育条件でのグループでの2つに分けて行っています。
その結果、隔離され幼少期にストレスを加えたグループについては、社会性の低下、空間記憶障害、意欲の低下等の精神疾患に関連した行動変化が認められたというのです。
また、隔離されたグループのマウスの糞便中の腸内細菌叢を解析した結果、アッカーマンシア・ムシニフィラという腸内細菌が著しく減少していたというのです。
このアッカーマンシア・ムシニフィラは、消化管内の粘液成分であるムチンが単一栄養源としていることで知られていることから、粘液産生細胞である大腸胚細胞についても調査したところ、その大腸胚細胞が著しく減少していることが解りました。
さらに、その隔離マウスに対して大腸胚細胞の分化増殖を促進させるレパミピドを処置した結果、精神疾患に類似した異常行動の緩解が見られたというのです。
隔離ストレスマウスは、大腸胚細胞の減少のみでなく、腸内細菌叢が産生するシスチンの減少も見られていましたが、レパミピドの投与によって血中のシスチン量が優位に増加したということも確認されたというのです。
この研究により、幼少期のネグレクトなどによる社会的隔離によるストレスが、消化器官内の胚細胞の減少や腸内細菌叢の変化を招くことで、タンパク質を構成するアミノ酸の1つでもあるシスチンの減少を招き、その結果精神疾患の発症に関与する可能性が示唆されました。
脳腸相関という言葉が一般的になり、食生活からのアプローチによるメンタルヘルスの向上に寄与する可能性が、実際のメカニズムの解明によって具体的に示されたということは、益々複雑化する様々な社会課題の解決において、腸内フローラの大切さは切っても切り離せないテーマになってきたような気がします。
2023年11月17日
「みんなで考える」と「みんなで決める」

「みんなで一緒に考えましょう・・・」というフレーズは、教育の場面や報道メディアなど、日常生活をしていく中でよく耳にする言葉の一つです。
このフレーズは、一見、周りへの配慮があり、より良い選択であるというような響きに聞こえる一方で、「自分で考えないで、みんなに合わせましょう」という意味合いに置き換え、自身の考えに対しての「意思表示を抑え、同調する・・・」という流れに陥ってしまう人も多いのではないでしょうか
特に、自身にとって関心が薄かったり、影響があまりない・・・と思われることなどに対しては、その傾向はさらに強くなってしまうと思います。
こうなってしまうと、「みんなが考える・・・」と思ってしまえば、自身も含めて一人一人は考えなくてもいいことになってしまいます。
さらに、自分の考えは、「みんなの考えとは違うし・・・」となることで、問題が起きたときや、課題が顕在化したときなどにでも、「私は知らない・・・」、「みんなで考えたのだから、私が責任を負う必要はない・・・」ということになります。
この「みんなで考える・・・」という方法は、「自分は考えないので、誰か指示してください・・・」ということにも通じるとともに、責任転嫁の風土への遠因にもなってしまうのかもしれません。
そして、「みんなで考える・・・」が、「みんなで思い込む・・・」というような、思考のバイアスにもつながってしまいます。そのためにみんなで考えていることと「違う現実」が起きたときに、現実の方に対して、「間違っている・・・」と考えてしまう傾向が強くなるとの指摘もあります。
「みんなで考える」と言いながら実際には、その場の空気を読み、他の「みんな」と、つかず離れずの距離感を保つために横並びで目の前のことに対して条件反射的に同調する・・・という行為を「考える」、としているのであれば、「考える」という言葉に、「みんなで」という言葉がつくだけで、「考える」の意味は、まったく違うものになってしまうのではないでしょうか。
そもそも、考えるということは多くの知識や経験をもとに、判断力を培ったり、知見を広めることにもつながりますので、「個」に寄与する部分が多いと思います。また、日常生活で見過ごされているような当たり前のことは、意外に、複雑に出来ているものです。
当たり前のことが当たり前ではない・・・という気づきには、「自らが考え、学ぶ・・・」ということは必要不可欠な事なのだと思います。
そのように考えれば、個々の考えを調整・集約し、「みんなで決める」ということのほうが大切であるとともに、より良い事なのではないでしょうか。
すなわち、合意形成です。
合意形成には、全会一致という意味だけではなく、「本来の私の考えとは違いますが、このチームのやり方としては、これが正しいと思って、全体の方針に従います」ということが理想の形です。
そのためには、同調ではなく、様々な考え方からより良い選択ができるとともに、納得できるための充分な説明と適切な時間が必要です。
また、「様々な考え方・・・」といっても、インターネットや都市伝説的な極端な意見に反応するかのように主張するケースも見受けられますが、これも狭いコミュニティの中での同調ともいえるのかもしれません。
このようなケースは、何が「事実」で、何が「勘違い」なのかを認識できず、「みんながどう言っているか・・・」という認識しかできない。
みんなが気づくまで気づかず、みんなが気づいた瞬間に「実は、自分もそう思っていた・・・」と手のひらを返したように主張するようなケースもよく目にすることのひとつです。
「みんなで一緒に考えましょう・・・」というよく聞くフレーズ、知らず知らずのうちに流されている同調圧力のシステムになってしまっているのだとしたら、一度考え直してみる必要があるかもしれません。
2023年11月10日
共感とネガティブ・ケイパビリティ

共感という言葉は、多くのところで耳にします。SNSの時代になり、「いいね」などの反応も共感の度合いを示す指標として、一喜一憂してしまう・・・という人も多いのではないでしょうか。
共感という言葉には、SympathyとEmpathyの二つの意味があるとされています。
Sympathyは、他人と同じ感情・気持ちになるという意味で使われます。相手の感情を理解して自分も同じ気持ちになる。言い換えると「あなたの気持ちや考え方はわかる、私も同じ・・・」という感覚で使うことが多く、同調という意味合いが強いとされています。
いっぽう、Empathyは自分とは異なる価値観や考え方を持つ他人に自己を投影し、相手が何を考えているのか、どう感じているのかを想像する力のことと言われ、自分自身が同じ価値観や考え方であるかは別として、「あなたの気持ちや考え方はわかる・・・」というように自己の価値観を変えるというのではなく、自己の価値観にプラスアルファの広がりをもたらす多様性にも通じるものがあるような気がします。
もともと、同調圧力が強いと言われる日本人社会では、「共感」という言葉にたいしてSympathy的な要素を求めすぎるために、同調性が感じられないコミュニケーションなどについて、「わかってくれない・・・」とか「あの人はおかしい・・・」というような感情に引き込まれがちであることも事実です。
多くの人は、何故「共感」を求めるのでしょうか・・・?
SNSの時代と言われるなか、承認欲求のためだけなのでしょうか・・・?
私たちの脳は、「分かりたがる」性質があるとされています。その「分かるため・・・」に「意味づけ」をするように出来ているそうです。これは、意味が分からないままだと、精神的に安定しない為に、人は不可解なものに対して、何とか意味づけというものをしてしまうというのです。
この意味づけの際によく起こるのが、希望の付加です。中立ではなく、平常性バイアスと呼ばれる希望的観測に偏った意味づけになってしまうのです。
事故や災害も、「あれは偶然なのだから、まさか自分が被害にあうことは無いだろう・・・」、という希望的な意味づけをします。このように、私たちの脳は生来的に、物事をポジティブに考えるようにできているのです。
だからこそ、「誰かが、わかってくれている・・・」安心感は、必要不可欠なのかもしれません。
「立て板に水・・・」という表現がありますが、流暢に次から次へと論ずることに対して、良くない印象を受けることはないでしょうか・・・?
特に、自身の悩みなどに対しての相談事では、そのように感じることも多いかと思います。このような場合の多くは、単純に答えが欲しかったのではなく、相手に、自分が抱く疑問や不安に対して、一緒に考えてみる姿勢を期待したのにも関わらず、その期待がはずれてしまったからなのだと思います。
「人に見ていてもらえる・・・」ことは、共感につながるとともに「やり続けるチカラ」であり、「諦めずに、やり遂げるチカラ・・・」にも通じると感じる方も多いと思います。
モヤモヤ力とも呼ばれる、ネガティブ・ケイパビリティも共感してくれる存在がなければ、ただの「モヤモヤ」になってしまい、チカラとしての能力にはつながらないのかもしれません。
人は、誰も見ていないと感じたり、誰ともつながっていないと感じた時には、苦しみに耐えられないとされています。その一方で、誰かがちゃんと見守ってくれてることで耐えられるものなのだとも言います。
世の中には、すぐに解決できない問題の方が多いにもかかわらず、教育現場も含め問題解決能力が求められがちです。
そのような状況の中、一見消極的に見えるかもしれませんが、「解決しなくても・・・」「訳が分からなくても・・・」何とか持ちこたえていく・・・このような姿勢には大きなチカラの源泉になる事が多いと言います。
モヤモヤが晴れるまで立ち止まることも、モヤモヤが晴れなくても・・・立ち止まらずに進み続けることも双方大切です。
そうして、持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き解決していく・・・。
「考え続ける・・・」ことは底知れぬ知恵への道標のようなものです。だからこそ、すぐに解決できなくても何とか持ちこたえていくことそのものが、実は能力の一つであるという認識は多くの人にとって必要なのです。
現代社会において、ネガティブ・ケイパビリティと言われる能力を発揮し続けるには、「他の誰かが、自分のことを想ってくれている・・・」かが解っているかどうかは大きな違いになると同時に、その共感のチカラこそが、耐え続け・・・やり遂げるチカラにつながってくるのかもしれません。
2023年11月02日
ネガティブ・ケイパビリティという考え方

ネガティブ・ケイパビリティ (Negative Capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」を指し、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味すると言われています。
この言葉は、古くはイギリスの詩人キーツが、1800年代初頭にシェイクスピアに備わっている能力とし、その後、 第二次世界大戦に従軍した精神科医ビオンにより再発見され、現在ではこの考え方が、精神医療の臨床の現場での治療を支えているとまで言われています。
能力という言葉の響きには、「何かを成し遂げる・・・」というイメージがどうしてもついて回るという方も多いのではないでしょうか。しかしこの考え方は、何かを処理して問題解決をする能力ではなく、そうではないものに対して「能力」という言葉を使っているところが大変興味深いところです。
ネガティブ・ケイパビリティに対して、ポジティブ・ケイパビリティという言葉もあるそうで、たぶん多くの方々はこちらの方が馴染み深い言葉なのではないでしょうか。
ポジティブ・ケイパビリティは、「問題を早急に解決する能力」とされ、小学校から大学受験、さらには就職試験に至るまで、試験では問題の解決能力が求められています。
そのために、教育課程の多くの場面で答えの出ないような問題をはじめから用意していないとまで言われています。これはとりもなおさず、教育とは、問題を早急に解決する能力の開発だというアンコンシャスバイアスともいえるのかもしれません。
作家で精神科医の帚木蓬生氏によれば、私たちの脳は、分からない対象物を前にしたとき、何とか分かろうとする性質があると言います。だからこそ、わからないことや思い通りに解決しないことに対して「モヤモヤ・・・」という感情が生まれてきます。
あらゆる分野での「分類」をするという行為も「わかろうとする・・・」ためには非常に都合がよく且つ安心につながる行為そのものだとも考えられています。その典型例がマニュアルです。
マニュアルの効果は言うまでもありません。特に新人教育などでは、「適当にやっておいてください・・・」や「人によって教えることや、価値観が違う・・・」ということでは新しい戦力のひとりとしてスキルが身につかないことを考えると非常に有効な手段の一つです。
場面場面に応じた対応の仕方、言葉づかい、仕草、笑顔の作り方、お辞儀の仕方などをマニュアル化しておくことで、一定のレベルに辿り着くことはできます。
しかしながら、マニュアルがあることの一番のデメリットは、「脳が悩まなくてすむ・・・」ということだそうです。「悩んだ末に理解したもの・・・」と、「マニュアルとして安易に受け入れたもの・・・」とでは大きな違いがあるというのです。
脳が悩まなくてすんだ結果、マニュアルに無いなどの、想定を超えた事態への対応が出来なくなり、思考停止に陥ってしまう可能性が非常に高くなると言います。その結果、対人関係的にも無機質な対応や、相手を一方的に遮断するような状況に陥ってしまう可能性も高くなるというのです。
「思い通りにならない・・・」というような事は、冷静に考えてみれば少なくないのは当たり前のことなのにもかかわらず、「思い通りになるはず・・・」という思い込みに揺さぶられるという現実は、多いものです。
この、「思い通りになるはず・・・」という想いが過剰に高まってしまうことで、社会や日常のちょっとした不安や不満を増殖させ、他者に対して攻撃的になり対人関係に支障をきたし孤立したり、自暴自棄に陥ってしまったりすることは決して良いことではありません。
「不確かさの中で事態や情況を持ちこたえ、不思議さや疑いの中にいる能力」、「諦めるのではなく、そっとしまっておくことでじっくりと機を熟すまで待つ能力・・・」そして、たとえモヤモヤの渦中にいたとしても、忸怩たる想いをもって現状を受け入れる・・・ネガティブ・ケイパビリティはまさにチカラそのものなのかもしれません。
2023年09月14日
変わらないモノと変わらない価値

「変化の時代」や「変化への対応」というような言葉を日常的に目にするようなことも多くなってきましたが、「変化のための変化」に振り回されてしまっているようなケースも少なくありません。
そのようななか、確実に変化しているものが、「社会」と言われる、複雑な要素が絡み合った実態のわかり難いものです。
社会というものは、個々の変化は無くとも、そのコミュニティを構成する世代や年代が、自然に入れ替わったり、その役割をする個人が交代することで、自然に変化をしていきます。
そのような状況は、言い換えると、「一番変化していかないのが個人・・・」ということもいえるかと思います。
また、周りを見渡してみると、「昔ながらのモノ・・・」と言われているような、長い間愛され続けている商品やサービスも沢山あります。
この、「愛され続ける・・・」という視点で、考えてみますと、愛され続けるために、変わらない・・・ということなのでしょうか・・・?
確かに、変わって欲しくないと思うものや、伝統と言われるものの中で「不変だからこそ・・・」と思われるものはたくさんあります。
そして、数十年にわたり愛され続けている商品やサービスもありますが、それらのものは変わらないことで愛され続けているのでしょうか、本当に何も変わっていないのでしょうか。
もし、何もかも全く変わっていないという中で、愛され続けたということであれば、その商品やサービスの領域における社会の変化が、周りにとってはっきりと感じられないようなスピードだっただけなのではないのでしょうか。
「社会の変化に気付かない・・・」という言葉は、多くの場面で耳にします。このことは、平常性バイアスによって「このままで、大丈夫・・・」という心理に陥ることも事実です。
「壊れなければ、気付けない・・・」と言われることがありますが、まちづくりであれば、スラム化というような日常生活に大きな悪影響が出るまで、平常性バイアスに惑わされ続けるという現実もあります。
多くの場合において、愛され続けるために「変わらない価値」を追求し、その「変わらない価値を持続するための変化」をし続けているのではないのでしょうか。つまり、変わらないための変化ともいえます。
そのためには、理念と言われるような大切にしている言葉を、社会の要請にあわせて再定義していくこともしていかなければならないことのひとつです。
この再定義こそ、「変わらない価値」のためには重要なプロセスなのだとおもいます。
もし、商品やサービスがまったく変わらないのだとすれば、社会の変化にともなう相対的な価値が下がることで、「変わらないからこそ、価値が低下してしまう・・・」という「変化」が起きることを理解する必要があります。
社会の変化への対応は、様々な現象をどのようにとらえるかということも含め、息が長く終わりのない取り組みになります。
そのためには、短絡的な切り取りによる情報に反応し、結論を急ぐのではなく「考え続けるチカラ」が必要です。
モヤモヤ力と呼ばれる、この考え続けるチカラには、自由な発想やアイディアにも通じることが実験によって明らかになっているそうです。
商品やサービスを提供する側とお客さまとの関係の中で、価値が伝わり易く、その価値を理解していただけるということは大切なことです。
変わらないための変化・・・をし続けるためにも、社会に対する価値をつねに確認していきながら、その価値を磨いていく作業ともいえるのかもしれません。