身体のチカラ › 社会を考える
2023年09月08日
ルールと合意形成について考える

社会には様々な、「ルール」と呼ばれるものがあります。また、ルールと一言でいいましても、法律のような厳密なものから、校則・・・更には、忖度や暗黙のルールと言われるような、実態がはっきりしないものまで様々です。
そのルールにもそれぞれの目的があると思いますが、その目的については、「全ての人にとっての利益につながるか・・・」と考えてみると、残念ながらそうではありません。
とはいえ、「何かを守るため・・・」という目的は、ルールという存在の共通目的のような気がします。
例えば、「自由と公正を勝ち取るため・・・」、「少数の方々を守るため・・・」や、「既存の社会構造を維持するため・・・」であったり、さらには、ブラック校則といわれるような、「理由はよくわからないけど、何も起こらないようにすることで、物事を穏便に済まそうとするため・・・」など、様々です。
近年目立つルールとしては、社会の構造が複雑になってくるとともに起きている法制度とのギャップを逆手に取り、一部の人間が不正を働いたり、不当な利益を得ようとすることに対する対応として、物事の手続きが複雑になったり、本来の受益者がそのためのコストを負担するようなケースも増えてきているような気がします。
そこには、ルールを無視したり、抜け穴を利用し、個人的な利益を優先するようなフリーライダーと言われる存在があり、「わがままのコストを、善意で賄う・・・」というような構造になってしまっていることも事実です。
ゴミの不法投棄に対する対応や犯罪抑止のために、社会の仕組が複雑になり、且つ、経済的にも負担増になってしまうというような事例も、このようなケースの一つだと思います。
また、環境や健康にかかわるような分野では、目の前の被害の抑止を優先するか、長期的な持続可能性を大切にしていくかでルールによって守られるものが異なってきます。
ルールは、本来そこに関わる人全員で決めるというのが理想です。しかしながら、全員の合意ということは難しいために、多数決というシステムを用いることで民主的に合意形成していくということを多くの場面で取り入れられていますが、少数意見をないがしろにしてしまうことによる社会構造の歪みに対する懸念が置き去りになってしまうことなどから、「多数決」というシステムに対する見直しの議論も出てきつつあるようです。
ルールに対する理想的な付き合い方は、「決める過程においては、様々な議論を大切に・・・」、「決まってからは、その方針を守る・・・」ということだと思いますが、残念ながら、そうはならないことも多いのが現実です。
「決まっていく過程が、不透明・・・」、「そもそも、決まっていくシステムそのものが、声の大きい既得権益者によって大勢を占められていることで、心理的安全性が保たれない状況の中で決まっている・・・」、「そんなこと、何も聞いていない・・・」など、様々な意見や、感情によってそのルールがうまく運用されないケースも数多くあるのではないでしょうか。
どんなルールにも、そのルールに関わる人全てにとって良い結果となる事は難しいことになりますので、当然、「納得できない・・・」という心理が働く人もいると思います。
このような心理は、ルールによって守られるものが、そのコミュニティにとって正当性の無いものとして認識されてしまうからなのだと思います。たしかに、権力を維持するためのルールが存在していることも現実です。
その一方で、そのルールに対して受け入れられない人たちからの、攻撃に対して対抗するために、相手からすればさらに偏ったルールで対抗するというような事は、人間社会の長い歴史の中で絶えることなく続いています。
そして、「聞き入れてくれない・・・」という感情をぶつけることで、より良い提案としての訴えも、単なる「文句」としてしか聞こえなかったり、相手にとっても「文句を言っている奴ら・・・」と解釈されてしまうことで都合よく利用されてしまう場面などもあったりします。
その結果、このような悪循環が対立や暴力に及んでしまうことも事実です。
このような事態に陥らないためにも、それぞれのルールに対する合意形成こそ大切にしていく必要があるのではないでしょうか。
しかしながら、多くの場合、「ルールは自分たちが決めるもの・・・」というような、無自覚な特権意識が介入することで、そのプロセスにおいて合意形成がないがしろにされ、ルールがあるが故の分断というような状況が起きやすくなってしまいます。
こうして考えれば、ルールを作る側が、様々な意見や反論を避け、合意形成をないがしろにすることで、その作る側が追い込まれるという構図はおのずと見えてきます。
だからこそ、作る側が、合意形成のプロセスを大切にし、「守るべきもの・・・、大切にすべきもの・・・」に対する共通の認識を持つことは、作る側にとって最もメリットがあると考える方が良いのではないでしょうか。
「丁寧な説明・・・」というフレーズを、最近よく耳にします。しかしながら、後出しじゃんけんのように、このようなフレーズを聞かされても、素直に受け入れられないという感情にもなってしまいます。
先ほども言いましたように、誰にとっても良い結果となるルールは、なかなかありません。「一旦、決めたから・・・」といって、そのまま変えずに放置するという状況はあってはならないのです。
だからこそ、うまくいかないルールは、合理的な判断のもと、ルールを決め直す・・・というサイクルを多くの知見や意見を取り入れながら何度も回し続けるということが必要です。
合意形成をないがしろにしてしまったことで、そのルールが合理的な判断による行動のガイドラインではなく、感情による無意識の偏見・・・の要素が入ってしまう可能性があるのであれば、合意形成のプロセスこそ大切にしていくべきなのかもしれません。
2023年09月01日
加齢と腸内環境との関係をあらためて考える

かつて、成人病と言われていました糖尿病、心筋梗塞、脳卒中などの疾病は、今や生活習慣病と改称されています。その大きな理由は、これらの疾病が加齢によってリスクが高くなると考えられていたのが、加齢の影響のみでなく、日頃の生活習慣による影響が非常に高いことがわかってきたことにより、習慣によっては若年層の方々にも大きなリスクがあるという理由からです。
これと同じような状況が、腸内環境と言われる腸内細菌叢の状態においても明らかになってきました。
2016年から7年間の、腸内細菌DNA検査サービスを行っている民間企業での検査で蓄積された腸内細菌叢データとライフスタイルデータを用いて、年代別の腸の状態を解析したところ、Z世代と呼ばれる20代の年齢層の腸の状態の悪化が顕著であるという報告がなされたというのです。
腸内細菌叢の多様性と食生活から判定する同社独自の「腸年齢判定」によれば、もっとも状態が悪いのが50代であったものの、この50代に類似した状態になっているのが20代だったというのです。
50代の結果については、加齢の影響ということからしても予想通りということになりますが、20代の結果については加齢以外の大きな要因によるものと考えざるを得ないということになります。
この結果について、食生活を中心とした生活リズムに関係してるとされています。
20代については、朝食の欠食率があらゆる年代の中で一番高いことや、実際に、20代の若者の過半数が肉食中心の欧米人に多いバクテロイディス属優勢の構成になっていることからも、コンビニ食など脂肪分が多い食事がメインになっている傾向がうかがえる結果と考えられます。
このバクテロイディス属の腸内細菌は「痩せ菌」として知られている腸内細菌のグループですが、その一方で、バランスが崩れると、うつ病などの精神疾患を含むさまざまな病気にかかりやすくなるとの指摘もあります。
近年の研究では、腸内環境を良好に保つには、腸内細菌の多様性が不可欠という見解が大勢を占め始めています。
その多様性を損なってしまう最も大きな要因として考えられるのが、偏った食事です。「身体を構成するのは、食べ物から・・・」という考え方があります。
近年では、食べ物のみではなく、食べ物を基にしたポストバイオティクスと呼ばれるような、腸内細菌から代謝される様々な人体にとって有益な物質も含めて栄養素として「身体をつくる・・・」という考え方に変化しつつあります。
体力がある若い世代だからこそ、無理ができてしまうし、無理をしてしまいます。
健康というものは、健康な人にとっては「空気のような存在」になっているのだと思います。言い換えると、あって当たり前なので、無くなったら・・・ということは考えないということです。
しかしながら、生活のリズムや食生活の習慣は、たとえ具合が悪くなってからでも、なかなか、治るものではありません。
20代の朝食の欠食率についても、自らの意思をもって朝食を食べないという判断をしているケースは、少数派だと思います。
近年の、体内時計の概念を取り入れた時間栄養学の考え方や、日本人の多くが悩んでると言われている「睡眠」についても、睡眠ホルモンであるメラトニンを十分に確保するには、朝食時にトリプトファンなどの良質なたんぱく質を摂取する妥当性などからしても、朝食のメリットは多いはずです。
とはいえ、実際には勤務やインターネットを使った様々な娯楽を理由に、夕食の時間が遅くなったり、就寝時間が遅くなることで、朝食の時間にお腹が空いていないことや、朝食を用意したり、食べたりする時間がないことが要因となる欠食ということが実情ではないでしょうか・・・
これも、単なる「習慣・・・」といってしまえば、「そうである・・・」、ということなのだと思います。
今回の調査によれば、このような習慣が定着し腸内年齢にも、高齢化が進んでいるという実態があるのだとすれば、若い世代だからこそ食習慣の見直しによる「腸活」が必要なのかもしれません。
2023年08月25日
自然の権利を考える

「地球にやさしい・・・」という言葉を最近見かけなくなったような気がします。
この「・・・やさしい」という言葉に、何とも言い難い人類の傲慢さを感じていた方も少なくないのではないでしょうか
地球温暖化、気候変動、豪雨災害に大規模な山火事・・・、と人類の叡智ではどうにもならない地球規模の現象が日々私たちの生活に対して、影響を及ぼしているという現実からしても、「自然」といわれる壮大なシステムの偉大さは言うまでもなく、多くの共存種の一つである人類が、その偉大な自然に対して、「やさしくする・・・」という発想のアンバランスさはぬぐえません。
また、環境破壊といわれるような、自然に対しての様々な仕打ちを人類が行い続けていることも事実です。
そのような中、様々な生態系の維持保全に対して、法律上の権利と考え、環境破壊という行為を犯罪とするような、裁判の事例が世界中で起こりつつあります。
その一つが、フランスのロワール川での事例です。この事例は、ロワール川を法律上の人格を持つと仮定し、環境保全団体が代理人となり国を相手取って訴訟を起こすというものです。従来では、それぞれの種に対して様々な法律が存在し、その法規定によって判断していましたが、このケースは、「ロワール川」という固有の特徴をもった生態系全体を評価し、「川」を中心とした生態系全体が存続し続ける権利を認めるという新しい発想です。
そこには動植物を含めた様々な生命の権利を適切に評価するとは、どういうことなのか・・・などの様々な議論をそれぞれの分野の専門家を交えて、地域一丸となっておこなっているそうです。
当然、自然というシステム全体が人類の行っている、様々な行為に対して具体的に評価し、訴えてくることはありません。結果としての現象を人間自身が、それぞれの判断で評価を下しているのが現実です。
日本国内における高度経済成長期の「公害問題」などは、生活の利便性の追求や新しい文明への憧心によって自然というかけがえのないシステムをないがしろにした結果です。
自然の意見は聞くことはできません。
だからこそ、「意見の違い・・・」「解釈の違い・・・」「優先順位の違い・・・」から色々なことが起きてしまいます。
「見ているものは同じでも、見えているものは違う・・・」という言葉があります。言い換えれば、それぞれの立場で都合の良い解釈を主張し合っているというような事は、こと自然のような複雑なシステムに対しては起こりやすいと考える必要があるのだと思います。
今までも、外来生物などの特定の動植物による環境破壊への対策を振り返っても、問題となる生物に対する捕食者を増やしたり、移入するなどの対応において長期的視点で成功したという事例はほとんど見られないのが現状です。
自然の権利を守る手段の一つとして、河川や湖沼などの個別の生態系を一つの人格として考えるという考え方は、理解できますが、「自然の変化」は、様々な要因が複雑に絡み合った結果であるということと、その変化のタイムスケールも多様で、かつ長いものです。
ということからすれば、まず私たちが考えなければいけないことは、意見を主張しない「自然」の意見を聞き取るチカラを私たちが身に付けることで、本来の自然の価値を理解することが先なのかもしれません。
2023年08月18日
頼るチカラとフリーライダー

ダニング=クルーガー効果という言葉を聞いたことはありますでしょうか。
この言葉は、1990年に米国コーネル大学のDavid DunningとJustin Krugerにより提唱された考え方で、自分自身に対しての認識が不足していることで、「自分の能力を実際よりも過大評価してしまうこと」による様々な影響についてに関するものです。
自己認識に対する不足は、「優越の錯覚」と呼ばれることもあり、自分の能力を正しく認識できないことによって、自身の欠点に対して向き合えなくなり、自身が優秀であるという錯覚を起こしてしまうとされ、このような「優越の錯覚」に関する認知バイアスは、古くから多くの研究がなされているようです。
自己認識がうまくなされていないことによる影響として、自己評価と実際の能力との乖離があるのにもかかわらず、周りからの指摘やアドバイスを素直に受け取れないことが多くなってしまいます。
さらに、自身と周りとの評価のズレを受け入れられない事などの原因により、結果的に周りとのコミュニケーションに支障が出てきてしまうことです。
このダニング=クルーガー効果によって引き起こされてしまう様々なリスクについて考えてみますと・・・
まず初めに、「自身を過大評価」してしまうことについて考えてみましょう。例えば、新しい環境や習慣に慣れることを、能力の向上と錯覚してしまうケースなどもこれにあたります。実際に能力が向上したわけではないので、取り組みに対する真摯さが損なわれていく傾向があります。
次に、「 知識不足に陥ってしまう・・・」ことです。これは、自己の過大評価にもつながることになりますが、能力が低い者ほど、本質を捉える力や物事を判断するにあたっての知識の総量が足りないにも関わらず、「自身の知識は充分である・・・」と錯覚し、知識をこれ以上増やす必要を感じなくなってしまう傾向があるようです。
その一方で、能力のある人ほど、「周囲が自身と同等の知識を持っている・・・」という考えのもと、知識不足を認識する中でより多くの知識を求めようとする傾向が強いとされています。
更なるリスクについては、「他者を適切に評価できなくなってしまう」ことです。そもそも、自己評価は、周囲からの反応や他者からの評価に大きな影響を受けています。そのために、自己評価にズレが大きい人は、周囲や他者に対する評価も誤ってしまう可能性が大きいと考えなければいけません。
業務であれば、自身の上長がダニング=クルーガー効果に陥っている場合、部下である自分に対する評価は、不当に低いか、根拠なく高い可能性もあると考える必要があります。
その他のリスクとしては、「困難への対処が出来なくなる・・・」ことだとされています。
「根拠のない自信」は、困難や壁にも前向きに挑戦するモチベーションになりますが、自己認識と直面した現実の壁とのギャップが大きい場合に適応できなくなる傾向も強くなります。そのため、困難や壁に直面したときの逃避行動につながる傾向が強いために、「本来の役割とは違うところに口を挟んだりしてしまう・・・」ことも認識しておく必要があります。
最後に、既存の業務に対する負担やリスクのある業務を回避し、現状維持を優先してしまうケースです。
業務であれば、自身の業務はもちろん、部下の提案に対しても何らかの理由をつけて否定し、可能な限り責任を負わないように立ちまわってしまったり、組織の成長を阻む存在になることで、チームに対しても大きな影響を及ぼしてしまいます。
これらのような傾向が強い方は、「十分な仕事をせずに報酬を受け取っている・・・」や、「他者の手柄を自分のものにしてしまう・・・」ようなフリーライダーという存在になってしまいます。
フリーライダーのチーム内での存在についても、「生産性の低下」「チームワークの乱れ」「優秀なチームメンバーの離反」など様々なリスクにつながっていくとされています。
この「フリーライド」と「頼る」という二つの言葉に同義性を感じる方もいるのかもしれませんが、「頼られる」ことで感じる貢献感などを考えれば、全く違う意味を持つと考える必要があります。
ここまでの、説明を聞けば、自己認識の甘さが本人のみならず、周りの多くの人に対して、ネガティブな影響を与えてしまうことは理解できると思いますし、「正確な自己認識なんて、誰が出来るの・・・?」という現実があることを考えれば、このダニング=クルーガー効果そのものは、誰もが陥ってしまう状況であるということも認識しておかなければなりません。
ダニング=クルーガー効果に陥ってしまう主な要因として、「フィードバック不足」、「他責思考」、「自己評価の誤り」とされています。その中でも、自己に対するフィードバックを受け入れるには、それなりの勇気が必要であることも現実としてありますので、他者からのフィードバックに対して反発することで、他責思考や自己評価の誤りにつながるケースも少なくありません。
そのためにも、フィードバックを受け入れやすい環境に身を置くことです。
その一つとしては、多くの人たちの出会いやつながりを大切にすることです。家庭や職場などの環境は、既存のヒエラルキーの構造が出来上がっていることが多く、自分の意見が通り易い環境であったり、固定化された人間関係の中では新しい発見や、自分自身を見直す機会が失われやすくなります。
特に、年齢や性別、立場にとらわれず、自分に都合の悪いことまで、真摯な姿勢で伝えてくれるような人との出会いやつながりを大切にし、積極的に他者の意見に耳を傾けることが重要です。
また、自分自身のパフォーマンスを客観視するために、可視化することも有効な手段の一つになります。可視化の手法の一つとして、数値化できることについては、数値化することで客観的な視点を持つことが出来ます。ただし、数値化することで目的と手段が混乱しないよう注意をすることも同時に必要です。
「自分が見えていない・・・」ことによって、人間関係に及ぼす影響は思っている以上に大きいとともに、周りに対しての態度が見えていないことも含め、「悪気が無いのが、一番悪い・・・」とか「歪んだ正義」というようにも見えてしまうこともあります。
「頼る」ということは、自分で完結させることなく他者と積極的に関わることを意味します。だからこそ、「この人の役に立ちたい・・・」という関係性がないままに、頼るという行為をすれば、頼った相手にとってはフリーライダーに映ってしまうのかもしれません。
2023年07月27日
頼るチカラと支戦場

「ついつい、なんでも自分でやってしまう・・・」「人に任せられない・・・」という悩みを持っている方は、意外に多いのでないかと思います。
その原因の一つは、相手に対しての信頼関係が築けてなかったり、敬意が持てないことで、「どうせ、出来ないだろう・・・」という気持ちが、払拭できないことにもあるかと思います。
もう一つは、自分が見えていないことによる思い込みの強さによって、「思い通りにしたい・・・」「思い通りに出来るはず・・・」という行動規範から逃れられないことです。
真面目な人ほど、ある種の「正しさ・・・」によって、周りの人たちから見える自分の姿に対して、「正当化」という理由付けをすることで、「変わらない決意」をより強固にしているのかもしれないというように映っていることも事実だと思います。
「植物を育てる」ということで考えてみれば、水やりを含めて誰かが世話をしないことには枯れてしまうということは、多くの人が理解していると思いますが、「自分がやらなければ、誰もやらない・・・」という思考になってしまうと、自分自身のやることがどんどん増えてしまうし、新しいことにチャレンジしたり、現在ある優先的な課題を解決することも出来ません。
しかも、植物であれば、放置することによって、いずれ早い段階で枯れてしまう・・・ということは、自明のことであって、それが、自身の率いるチームであれば、どのような顛末に陥ってしまうのかは、想像に難くありません。
私の知人が、長い間、盆栽を趣味にしていました。その方は、旅行が好きで数日間家を空けることも度々あったようです。
盆栽は、自生の植物とは違い鉢植えという、ある意味、閉じた生態系を人工的に作ったものであるために、自然の状態と比べても数倍手をかける必要があります。もちろん、水やりもその一つです。そして、その知人は、旅行などで家を留守にする際には、自身の知人に水やりを頼んでいたそうです。
数年経って、「盆栽はやめた・・・」といって、その方は、趣味である盆栽をやめてしまいました。
その方曰く、「留守にする度に、人に頼むのが大変になってきて・・・」との理由で、趣味をやめたようですが、ひょっとすると、「他の人に頼む・・・ことのできる、関係性」を保ち続けることが出来なかったのかもしれません。
その人にとっての「盆栽」がどのくらい大切なものであったかは、わかりませんが、「やめる」という判断をするときに、「趣味の盆栽を続ける」ことと「人に頼める関係性を構築し続ける」という、二つの要素が必要だったということを認識した上で、「関係性を構築し続ける・・・」くらいなら「盆栽をやめても・・・」という判断になったのだと思います。
盆栽であれば、文句も要望をいうことも無く・・・、状態が悪くなって枯れるだけです。
これが、チームという人の集団であれば、どうなってしまうかはお分かりかと思います。
「自分でやる方が、楽・・・」という、ということは「周りに対する、気遣いの大変さ・・・」と比べてみれば、確かにそうなのかもしれません。
その一方で、みんなで協力し合って一つの目的に向かった方が、より良い成果であったり、より大きな成果につながるだけでなく、達成感も大きいことも多くの方は理解しているのだと思います。
一番いけないことは、「自分でやる方が、楽・・・」という口実を、「自分でやった方が、良いはずだ・・・」と正当化して、問題をすり替えたり、自分自身をだましたりすることです。
「本来、自分自身がするはずの事・・・」は、それぞれの立場であるはずです。
リーダーの立場であれば、自分自身が動くのではなく、チームのメンバーが活き活きと目的に向かっていけるよう、サポートしていく事が「本来、自分自身がするはずの事・・・」になるかと思います。
人間関係のトラブルの多くは、「他人の問題に、土足で立ち入ること・・・」で起きると言われています。だからこそ、「誰の課題であるか・・・」という仕分けがうまくできていないことで、無意識のうちに「他人の問題」に介入してしまうことで、お互いの関係性がうまくいかないことは良くある話かもしれません。
本来の「自身が解決しないといけない課題・・・」が、自分の本戦場とするのであれば、「他人の課題に、興味本位で介入すること・・・」は、本戦場ではない、支戦場に勝手に立ち入ってきた厄介者・・・としか映らないのです。
やって欲しいことと、任せて欲しいこととの境界線は、お互いの信頼関係によってなりたっています。
勿論、お互いが本戦場での成果を認め、敬意をもった関係性であれば、「本来、すべきこと・・・」から、距離を置く必要がないのかも知れません。
「結果が出てないので、その場に居づらくなって・・・」というような心理は、誰にでもあると思います。また、結果が出ていないからこそ、すべきことはたくさんあるはずだし、少なくとも、周りからはそのように見えているのだと思います。
結果が、出ていない時というのは、自分に目を向けるので、手一杯になってしまい、結果に気持ちを集中させられなくなるとも言われています。その多くが、自身の評判を得たり…上げたり…という、自己承認欲求からくるものであれば…、単に、周りが見えていない行為としか映りません。
だからこそ、お互いの信頼を大切に・・・「本来、すべきことは、何なのか・・・」「そのすべきことに、真摯に向き合えているのか・・・」を自身が、考えていく必要があると思います。
他人からは、・・・その姿が、よく見えているものですからね・・・。
2023年07月15日
非言語コミュニケーションのチカラをあらためて考える

コミュニケーションの重要さは、いまさら言うまでもありませんが、皆様は、言語情報のやり取り以外による非言語コミュニケーションをどのくらい意識していますでしょうか。
通常の社会生活では、あまり意識したことが無いかもしれませんが、人間社会においての言語によるコミュニケーションの歴史はわずか数万年とも言われています。
言い換えれば、それ以前は、言語を利用しない非言語コミュニケーションによって、社会性を構築したり、様々な、敵か味方かを判断したり、周りが何を考えているかを察する能力を磨いてきたとも言えます。
米国の心理学者であるジョン・フリーマンによれば、人はわずか0.1秒ほどで信頼性や能力、上下関係に至るまで、確認し判断します。もちろん敵か味方か・・・も、です。
そういった意味でも、「顔は、重要な情報源である」ということも言えるのかもしれません。
まだ、未知の部分も多いようですが、このような「顔」を中心とした視覚情報による認識機能は、後天的な認知機能であるにも関わらず、1歳になる前くらいの月齢から持ち得ている能力の一つであり、その判断には、個々の生活環境や固定観念に左右されるステレオタイプ的な要素が介入するというリスクも同時に持ち合わせていると言われています。
そもそも、脳は、そこにあるはずのものを予測することで素早く情報を処理するような仕組になっています。つまり、過去の経験などに基づいて予測するということになりますので、過去の経験に一定のバイアスがかかっているとしたならば、そこには潜在的な偏見のようなものが出来てしまうという可能性があるということになります。
逆に言えば、このような能力を利用することによって、「洗脳」と言われるような偏見に満ちたステレオタイプを作り上げることもできるということにもなりますが、その一方で、顔や表情の信用度は、誰が見ても一致した共通点があることも解っているそうです。
顔の表情を中心とした視覚情報とともに、もう一つの、重要な要素と言われているのが「声」です。
声は、言語ではないか・・・?と思われるかもしれませんが、ここでいう声というのは声の表情ともいえる「声のトーン」についてです。
デンマークの音声学者オリヴァー・ニーブールによれば、声は、信じがたいほど複雑で重奏的なシグナルで、感情をコントロールするよりも声のトーンをコントロールする方が難しいとも言われています。
声は、100以上の要素によってなりたっているとともに、感情からくる筋肉の動きの変化に対しても大きな影響を受け、それにともなう脳の様々な機能や身体の変化が、声に現れることも解っているそうです。
皆さんもお分かりかと思いますが、「聞き手が話し手の意図を理解するのは大変なこと・・・」です。
声のトーンや間などの変化をつけることで、その効果が高まることが解っており、古代ギリシア時代から行われていましたが、現代では失われつつある能力とまでいわれ始めています。
自分の意思を相手に伝えたいときには、「何を言うかではなく、どのように言うか・・・」とまで、言われています。
だからこそ、どのように伝えるかを工夫する必要があり、「速度・音量・間・声の高さの変化」などもその要素のひとつです。
声の表情については、カーナビでの実験事例もあるそうで、カーナビの音声に表現の豊かさを加えた場合に、間違った指示であるのにも関わらず指示に従う傾向があったと言うような結果がでたと言うのです。
つまり、人を惹き付ける声・・・は、信頼を前提とした思考・判断に誘う傾向があるという結果が示されたのです。
この表情や声を上手に操り、様々な人格を創り上げる俳優という職業があるように「表情や声」は、大変重要な情報伝達源になります。
また、人は心理的同期によって、敵・味方の判断も含めて様々な関係性について声をだすタイミングや視線を合わせるタイミングなど、何気ない会話でも非常に複雑な動きにつながる判断を瞬時にしています。そしてその結果を利用し、「自分の思いどおり・・・」を達成しようとする場合もあります。
人間は、他人の気分によって影響を受けやすいようにできています・・・。
非言語コミュニケーションには、「信頼」を構築していくための大切な要素が多く含まれています。もし、知らず知らずのうちに使っているのであれば、あらためて古代ギリシア時代のように意識していく事が必要なのかもしれません。
2023年07月07日
身近なマイクロプラスチック問題を考える

環境中のマイクロプラスチックに関しては、海洋生物に関するセンセーショナルな映像を含め、海洋生物に対する生態系への脅威となる環境問題という認識の方が多いのではないでしょうか。
しかし、このマイクロプラスチックに関しては海洋中というものだけではなく、意外に身近な問題であり、生態系に関する限定的な問題から、人体の健康に関する問題である・・・ということに変化しつつあるようです。
例えば、あなたが料理をするときに使用するまな板の素材を想い浮かべてください。
今では多くの家庭で、ポリエチレンやポリプロピレンなどで出来ている、いわゆるプラスチック製のまな板が利用されているのではないでしょうか。
このプラスチック製のまな板は、軽くて使いやすい・・・ということもあり世界中で利用されています。
しかしながら、最近の研究ではプラスチック製のまな板を使用することで、大量のマイクロプラスチックが発生してしまう可能性があることが判明したというのです。
皆さんもご存知の通り、まな板は刃物を使用するときに使いますので、よくよく考えれば・・・ということもありますが、実際にデータとして提示されると捉え方も異なってくるという事例の一つ、とも言えます。
実験は、5名のボランティアがスチール製の包丁で人参を切り、あらかじめプラスチック粒子が含まれていないことを確認した水で、包丁とまな板を洗浄した水にどのくらい含まれるか・・・という方法で、アメリカ・ノースダコタ州立大学を中心とした研究チームによって行われました。
その結果、100マイクロメートル未満の球状のマイクロプラスチックが、年間にポリプロピレン製のまな板で調理すると7,940万個、ポリエチレン製まな板では1,450万~7,190万個のマイクロプラスチックが発生するとの推定結果が示されました。
この量のマイクロプラスチックを重さに換算すると、ポリプロピレン製まな板からは年間49.5gのプラスチック粒子が、ポリエチレン製のまな板からは年間7.4~50.7gのプラスチック粒子が発生していることになると報告されています。
この研究結果からもわかるように、マイクロプラスチックの発生の原因は、日常の化学繊維製品の洗濯による流出も含めて、意外に身近なところにある・・・という認識が改めて必要であるということです。
また、マイクロプラスチックと言えば「海洋中・・・」といったイメージが強いために、海洋も含めて、水環境の問題という認識の方も多いのかもしれませんが、大気中にも多くのマイクロプラスチックが飛散しているという報告もあり、2023年5月に発表された試算では、都市に降下するプラスチックは1日当たり数十kgにも及ぶとも言われています。
さらに、2022年に初めて、人の気道の奥でマイクロプラスチックが見つかったことで、呼吸器系への重大な健康被害が危惧されるようにもなりました。
「この気道の奥・・・」ということからしても、有毒な汚染物質や化学物質を含む可能性が考えられるマイクロプラスチックを吸い込んだ場合の、深刻な健康被害を想定した、呼吸器疾患の予防や治療の懸念も出てきています。
そのために、上気道におけるマイクロプラスチックの移動や沈着に関わる流体力学を応用したシュミレーションモデルまでも、既に開発されているそうです。
この研究を行いました、ニューサウスウェールズ大学シドニー校のモハマド・S・イスラム氏は「何百万トンものマイクロプラスチック粒子が、水や空気、土壌で見つかっています。世界で生産されるマイクロプラスチックの量は急増しており、空気中のマイクロプラスチックの密度も著しく増加しています。さらに、2022年に初めて、人の気道の奥でマイクロプラスチックが見つかったことで、呼吸器系への重大な健康被害が危惧されるようになりました。」と述べています。
これらのことからも判りますように、マイクロプラスチックについての課題は、海で起こっている海洋生物を中心とした生態系への影響という話ではなく、既に大気中や土壌にも当たり前のように存在し、人体の健康被害に直接つながっている可能性のある身近な課題であるとともに、「多くの方が、日常生活の中ですぐにでも取り組めることが沢山ある問題である・・・」という認識が必要なのかもしれません。
2023年06月24日
ライフスタイルと睡眠について考える

睡眠の大切さについては、多くの方の関心事になりつつあるとともに、スマートウォッチをはじめとする様々なデバイスの発達によって、多くの実態が解りつつあります。
そのような中、ミシガン大学のチームが、スマートフォンのアプリケーションを利用し、世界各国の6,000人近くの睡眠パターンを調査し、年齢や性別、国の違いが睡眠に及ぼす影響を調査し、以下のような報告をしています。
まず、一つ目に 女性の睡眠時間の平均は、男性より30分長く、就寝時間は女性の方が早く、起床時間が遅い。
二つ目は、中年の男性は、ほかの年代・性別に比べて、睡眠の質が悪い傾向が見られた。
三つめは、若い人の睡眠パターンはさまざまで幅広いが、高齢になるほど個人差は減っている。
四つ目については、睡眠時間が最も短い国はシンガポールと日本で、平均7時間24分になり、睡眠時間が最も長い国はオランダで、8時間12分であった。
五つ目は、国別の睡眠時間については、起床時間より、就寝時間のほうが影響が大きい。
六つ目は、就寝時間帯に眠りを促す生物学的な感覚がスマートフォンやタブレットなどの様々なパーソナルメディアデバイスの普及などの社会的な理由によって弱まっていたり、無視されていることがわかった。その結果、就寝時間が後ろにずれ、睡眠時間が削られているとしています。
このことは睡眠前に「光を発する画面」を見ると、睡眠と関係するメラトニンの分泌量に影響があり、中断を伴う、質の悪い睡眠の原因になり得るという研究結果が2014年にも発表されています。
最後に、「屋外の光を浴びている」人は、主に屋内で過ごす人と比べて「就寝時間が早く、睡眠時間が長い」ことも報告されています。
その一方で、今回のミシガン大学の研究以外での報告を見てみますと・・・
2021年版の経済協力開発機構(OECD)の調査では、33カ国中、日本人の平均睡眠時間は7時間22分と最短であると同時に、男性より女性のほうが13分短く、これは日本を含む6カ国だけの傾向であるとの報告がありました。
同時期の、2020年のNHK放送文化研究所の「国民生活時間調査」でも同様の傾向が見られます。例えば40代では、平日の睡眠時間は男性が6時間58分、女性が6時間53分。休日はさらに男女差が大きく、男性が8時間23分で、女性が7時間46分というような報告もあり、平日に最も寝ていないのは50代女性で6時間36分。次が60代女性の6時間52分、そして、40代女性の6時間53分という結果になっています。
これらの結果からしても、各国の平均からすれば女性の方が睡眠時間が長いことに対して、日本では、女性の方が短いというような、国による差があることも事実です。
2021年に行われた社会生活基本調査で、6歳未満の子どもがいる共働き夫婦の家事関連時間を見ると、妻は6時間33分、夫は1時間55分であったというような調査報告もあり、広島大学生活経営学の平田道憲名誉教授によれば、「外で仕事をする妻も増える一方なのに、日本の夫の家事労働時間は先進諸国と比べてもまだまだびっくりするぐらい短い」というような指摘と共に、家庭依存社会に起因する妻が起床時刻を早くしたり、就寝時刻を遅くしたりして家事時間を捻出している可能性を示唆しています。
これらの結果を考えると、健康に関する最も重要な要素の一つである睡眠が、社会的な習慣や、ライフスタイルによって大きな影響を受けていることに、あらためて注目することが自身の睡眠の量や質の改善につながるのかもしれません。
2023年05月02日
社会的関わりと健康の関係を考える

「人間は、社会的動物である・・・」という言葉があるように、人間の生活にとって社会的な関わりは最も重要なものの一つであり、長期的な孤独については、精神的な影響のみならず身体への悪影響も以前から示唆されています。
「一人暮らし」と言えば、以前であれば若い世代の人が、将来の夢を追いかけて・・・というようなポジティブなイメージを持つ方もいるのかもしれませんが、現在では、老若男女問わず「独居」と呼ばれるような社会的孤立に近い生活様式の割合の増加は世界的にも社会問題の一つとして挙げられるようになってきています。
実際に欧米諸国のなかでは、「孤独」や「孤立」という問題に対して、具体的対策を設けるための担当閣僚を任命しているような国も出てきていますが、日本では、民事不介入の考え方に象徴されるように、「家庭の事は、家庭で解決する・・・」というような、家庭依存社会的な考え方が浸透しており、実態がよくわからないというのが現状だと思います。
このような状況の中、オーストリア・ウィーン大学の研究チームが短時間での孤立と身体への影響についての実験を行いました。
この実験では、日常生活で重度の孤独または社会的孤立を経験していない18歳~33歳の女性被験者30人に対して、「8時間にわたり社会的接触を行わない日」「8時間にわたり食事をとらない日」「8時間にわたり社会的接触と食事の両方がない日」のいずれかを3日間にわたり、ストレスの指標となる心拍数や唾液中のコルチゾールレベルストレスをはじめ、気分、倦怠感についてのデータを測定するというものです。
この実験での「社会的接触」では、人との直接的な接触だけでなく、インターネットやスマートフォンへのアクセスだけでなく、人の写真が掲載された雑誌なども読むことも制限し、研究者との接触も無いという状況で行ったそうです。
この結果、8時間に及ぶ社会的な孤立は、「社会的孤立と食事を抜くことの間に顕著な類似性があり、いずれの状態もエネルギーの低下と疲労の増加を引き起こした。更に、食事を抜くことが文字通りエネルギーを失わせるのに対し、社会的孤立はそうでないことを考えると、食事を抜いた時と同程度の倦怠感とエネルギーの低下を引き起こすことは驚きです。」と報告しています。
以前から、孤独は、身体的にも精神的にも健康に悪影響を与えることが知られていますが、科学系メディアのScience Alertは、孤独による身体のエネルギーの減少について、ストレス反応によるものであるとし、孤独感が、身体に対するストレス反応を引き起こし、身体のホメオスタシス(恒常性維持)を維持するための反応が変化したことによる影響を示唆しています。
具体的には、孤独感は身体の自律神経系を刺激し、交感神経系の活動を増加させます。このために、ストレスホルモンであるコルチゾールの分泌が増加し、血糖値が上昇させるのです。
また、交感神経系の活動が長期的に高まると、心臓や血管に負担がかかり、高血圧や心臓病などの疾患を引き起こすリスクが高まります。
一方、孤独感は副交感神経系の活動を低下させてしまいます。副交感神経系は、リラックスや回復を促進する働きがありますので、孤独感が長期的に続くと、副交感神経系の低下が続き、睡眠障害や免疫力の低下などの健康上の問題を引き起こす可能性があります。
このように、孤独感が身体的な反応を引き起こすメカニズムは、身体の恒常性反応が変化することによって起こると考えられ、社会的つながりが欠如することで、身体は外部環境に対する適応反応を変化させ、ある種のバランスを取ろうとします。しかし、長期的に続く孤独感は身体に負担をかけ、健康リスクを高めることが明らかになってきました。
このように、孤独は単に「気持ち・・・」の問題ではなく、明確な健康リスクであることをあらためて認識したうえで、多くの人との関わりを中心にした大切にしたいライフを真ん中に置き直す必要がありそうですね。
2023年04月22日
「不寛容」をあらためて考える

不寛容社会という言葉が、あちこちで聞かれるようになり、「自分の考えと合わない・・・」というような相手に対する批判や、さらには人格否定に至るような事例が増えてきたと言われています。
このような、傾向は2010年代以降、SNSの普及とともに個人の発言力が大きくなったことと関係しているとも言われています。
「不寛容であること・・・」と「個人の発言力が大きくなること・・・」との相関関係については、これから様々な議論が必要かと思いますが、多様性も含めた社会全体の成熟という視点で考えてみれば、「個人の発言力」が大きくなってくることは、同調圧力が大きいと言われる日本社会に於いては、多くの気づきとイノベーションにもつながる重要な要素の一つであると思います。
そこで、「人は何故、相手を許せなくなるのか・・・」を考えていきたいと思います。
その多くは、「たぶん、このようになるだろう・・・」という予測値と異なる答えに対する不安なのかもしれません。
言い換えれば、個々の感じている「ふつう・・・」が、異なるために、その人が考える「ふつう」と違った回答を受け入れることが難しくなってしまうという事になります。
例えば、0歳児の赤ちゃんに「ちゃんと座っていてくれない・・・」という感情になる人はあまりいないかと思いますが、2歳児、3歳児になってくると・・・「ちゃんと座っていてくれない・・・」という感情が沸き上がってくることもあります。ひょっとすると、「私の事を馬鹿にしているのかも・・・」というような思考に陥ってしまうことすらあるのが現実です。
しかしながら、子どもの発達の段階や、個別の発達の違いが理解でき、「ふつう」のアップデートをすることで、目の前で起きていることに対する寛容性にもつなげられるとすれば、目の前の子どもとの信頼関係に対しても大きなプラスに作用していくのではないでしょうか。
このように、知ることで寛容性につながるとすれば、「不寛容」というメカニズムについても理解しておくことが、寛容性を高めるための有効な手段の一つと考えることも出来るのではないかと思います。
心理カウンセラーでメンタルレスキュー協会理事長の下園壮太氏は、「我々は寛容な人・不寛容な人と分けて判断しがちだが、寛容さとは個々人の性格よりも“状態”の影響の方が大きい」と述べています。
例えば、元気でストレスがかかっていない状態では、理性的な思考で統一感のある行動がとれ、「いかに問題解決をするか」というような思考で新しい気づきを得たり、トラブルも成長の一つとして捉えることが出来るのですが、精神的負荷が少しずつ増えてくることで、傷つきやすくなったり、自信を失い始めたりというような変化が現れると言います。
この段階では、まだ残った気力や体力で乗り越えられてしまうため、この状態で日常生活を続けている人も少なくないとされています。
この状態を放置し、さらに精神的負荷が増えてしまうと、イライラという状態があらわになってくると言います。
このイライラは、人間の自己防衛本能のひとつで、「不寛容」とは人間に本来備わっている当たり前の反応と考えることが必要だとされています。
さらに、下園氏は、「こうした他者への不寛容さには個人差があり、それに影響を与えるのが、個人がもともと持っている価値観だ・・・」とし、この価値観は、過去の成功体験に基づいた信念や自信からきていることが多いとしています。
だからこそ、自分自身の不寛容な状態に気付いたら、「性格を反省するよりも、まずは休息を摂ることが第一・・・」と下園氏は強調しています。ストレスレベルを出来る限り正常に戻すことで物事の見え方さえも変わってくるのかもしれません。
また、社会での自分自身の立ち位置の捉え方によっても寛容性というものは左右されやすいと、信州大学医学部子どものこころの発達医学教室の本田秀夫教授は述べています。
例えば、「他者との違い・・・」という視点で考えれば、どちら側から見た時に「違い」と認知されやすいか・・・という事です。
残念ながら、多数派が「ふつう」で、少数派は「違うほう・・・」という、くくりで考えがちです。しかしながら、ここでいう「ふつう」や「違うほう・・・」というのは、自認意識が大きく関係し、少数派の方が被害者意識に陥り易いというのです。
また、「自分と違うものを、排除しようとする・・・」気持ちは、「他人より優位に立ちたい」という心理からきているとされることが多いようですが、このような感情が他者を攻撃するわけではないとも本田教授は述べています。
「優位に立つ人、立ちたいと考える人は、自分の気持ちにゆとりがあり満足している状態では、劣位にある人に対しあまり攻撃性をもちません。ところが、何らかの精神病理があったりストレスがかかっていたりすると、自分よりも下に見える人を蔑んだり攻撃しようとすることがあります。これがハラスメントやいじめです」とし、また、何かを克服しようとしている相手に対して、自分と同じ解決策が有効だという前提でのアドバイスも、それは「押しつけ」というように映りますので、「ひとは、それぞれ違う困り方をしている・・・」という考え方も大切にした方が良いとも述べています。
多数派が、少数派に対して抱く偏見や差別は、慣れ親しんでいないものに対する警戒心として本能的に備わっている部分があると考えられていますが、教育など様々な経験や日常における多様性によって変えられる可能性もあると言います。
「一人でできること」を良しとする文化の中で、自分自身を「多数派・・・?」、それとも「少数派・・・?」というような属性を気にかけ、無関係な人からも評価されているような自己責任意識からくるストレスは避けられない部分もあるかもしれません。
その結果、周りの人たちにとって心理的安全性が低い状態に陥り、「言ってもらえない・・・」ことや、「人の話を聞き入れることが出来ない・・・」ことで、「ふつう」のアップデートが出来なくなることに気付けば、自身を取り巻く、様々な関係性も変化してくるのかもしれません。
もちろん、一番大切なのは、「休息を大切にして身体のコンディションを整える」ということはお忘れのないように・・・。