身体のチカラ › 社会を考える

2023年04月07日

ポジティブリストとモチベーション




 ポジティブリスト制度とは、使用を認める物質のリストを作成し,使用を認める物質以外は使用を原則として禁止する規制の仕組みで、食品添加物や農薬、さらには包装容器の素材に至るまで、様々な分野で導入されている仕組の一つです。

 この仕組みのメリットは、安全性が確立されていない物質を完全に排除でき、製品の安全のレベルを高めることにつながります。
しかしながら、新しい知見やアイディアへの対応については、「ダメなモノ・・・」を、「大丈夫なモノ・・・」に一つずつ転換していく必要がありますので、スピーディーな対応には難しい面もあります。
 例えば、特定保健用食品などの保健効果の認可について、主成分などはほとんど変わらないが、味や風味の変更を目的としたフレーバーの変更によっても、認可を取り直す必要があるなどです。

 この事例のように、「食の安全」に関することであれば、ポジティブリストがうまく機能することも多いと思いますが、この考え方を、社会のルールやマナー、規範意識に取り入れてしまうとどうなってしまうでしょうか。

 先ほども言いましたように、ポジティブリストのリスクは、新しい知見やモノの考え方への対応が遅れてしまいがちになるため、先進的な考え方をする人たちや、新しいことに挑戦しようとする人たちにとっては「理由の説明できないルール」に陥りがちになってしまうことです。

 そのようなデメリットがあるのであれば、社会制度の中にはポジティブリストはあまり存在しないだろう・・・と思うかもしれませんが、意外に多いことも事実です。例えば、学校の校則などは、ポジティブリストの考え方によって成り立っている事例のひとつかもしれません。

 学校の校則で、よく言われる内容としては、髪型、靴や靴下をはじめ、下着に至るまでの様々な服装に関する指定です。注目すべきは、その指定の理由に関して、合理的理由が明確ではなく、守る方も守らせる方も・・・納得した上で、運用していないケースが多いことです。

 先日、WBCで日本中が盛り上がっている中、代表のラーズ・ヌートバー選手のペッパーミルパフォーマンスが有名になりました。同時期に甲子園球場で開催された、選抜高校野球選手権で、選手が同じ行為を行い審判に注意されたという事例も記憶に新しいと思います。

 この選手は、どのように感じたのでしょうか・・・
 この指摘は、この選手の野球人生に対して、プラスの影響を与えたのでしょうか・・・
 この審判は、ひとりの人として、目の前の選手の今後の活躍を願い、堂々と指摘したのでしょうか・・・

 「世の中には、理不尽なこともあるのだから・・・その理不尽さを教えてあげなければならない」という考え方をする方も、まだまだ多いことも事実です。

 その「理不尽さ・・・」が生み出すものは、いったい何なのでしょうか・・・
 その「理不尽さ・・・」が生み出したものの責任は、誰がどのようにとるのでしょうか・・・

 そのような人ばかりではないと思いますが、多くの人はこのような、「訳の分からない指摘をきっかけに・・・」余分な事はやめておこう、というスイッチが入ってしまうことも多いと思います。

 この、「余分な事・・・」は、本当に余分な事なのでしょうか・・・

 本当は、この「余分な事・・・」こそ、新しいアイディアや、挑戦そのものだとしたら、このように、ポジティブリストのルールに縛られることで安心しているが故の社会への代償は、思っている以上に大きいのかもしれません。

 理不尽なルールによってなされた指摘や沈黙も含めた様々な行為は、その相手にとって、「自分の気持ちを理解してくれなかった相手」の一人として映っていることを理解する必要があります。

 そして、その代償は、自らに降りかかってくるのです。

 指摘した方からすれば、「上に言われたようにしただけなのに・・・」とか、「自分の立場ではどうしようもない・・・」という状況があることも事実です。
 「自分は、そんな責任はないのに・・・」と思うかもしれませんが、何故、「自らか・・・」と言えば、そのようなコミュニケーションの一つひとつは、自らの目の前で起こるからです。

 そして、そのやり取りの先には、「この目の前にいる人は、責任を取るつもりがないんだな・・・」というように映るという事も残念ながら、厳然たる事実です。

 そして、目の前の相手の言行不一が、「お前だけには、言われたく無い・・・」という感情を相手との関係性の中に、不用意に介入させてしまうことで、相手のモチベーションを奪ってしまう可能性も考えなければなりません。

 だからこそ、「なにを守ろうとしているのか・・・」、「その規範によって何を損なうのか・・・」を自らが明確に意識する必要があります。
仮に、守ろうとしているものが、自身の立場や権威であったとしても、それすら守れない・・・という事もあるのではないのでしょうか。

 やりたいことが出来るからこそ、「成功させたい」という想いが湧いてくるものです。非認知能力と言われる、やり抜くチカラや正解のないものに取り組む姿勢の醸成に、ポジティブリスト的な考え方が大きなリスクとして関わっていると考える必要があるのではないでしょうか。


  


Posted by toyohiko at 09:42Comments(0)社会を考える

2023年03月17日

環境中のプラスチックゴミ問題をあらためて考える




 3年にわたる、感性症対策中心のライフスタイルが変化しつつありますが、これまで、ソーシャルディスタンスや不要不急の外出を避ける・・・といった呼びかけのなか、残念ながらまちなかにゴミが散見されることも事実です。

 「ゴミは、社会の縮図・・・」という側面もあります。実際に韓国では、北朝鮮からの漂着ゴミのモニタリングをすることで、隣国の生活様式についての調査をしているという研究者もいます。
 「ゴミ拾い」という社会貢献活動は数多くありますが、見かけるゴミの多くは、レジ袋であったり、お菓子などのパッケージや、最近とみに多くなった不織布のマスクといったプラスチック製品が多いのが現実です。
 
 これらのゴミは、本来であれば家庭や職場で適切に処理され環境中で見かけるはずのないもの・・・という認識をあらためて持つ必要性も感じます。

 プラスチックゴミの象徴ともいえる存在の「レジ袋」ですが、近年の大きなトピックスとして注目されているのが「レジ袋の有料化」です。
 この有料化に対しても、ごみを減らしたり、ごみを正しく捨てることがいかに大事なのかを、社会に広く知ってもらうための「意識改革の象徴」であり、海洋中のマイクロプラスチックの削減に直接つながるという事では無いという認識の専門家も多い
という事からしても、「技術の問題なのか・・・?」、「社会の規範意識の問題か・・・?」というジレンマは残ったままであるという気がしてなりません。

 そのような中、生分解プラスチックに関する技術も着々と進みつつあります。
 
 国内の醸造メーカーのなかには、以前からしょうゆ油を廃棄することなく、既に工業用せっけんや燃料に再利用している会社もあります。
さらに、2020年には、そのしょうゆ油を原料に岩田大学と東京農業大学と共同で、生分解性プラスチックの生合成の研究をはじめ、水素細菌の一種を利用し、PHAと呼ばれる、微生物を利用したバイオプラスチックを合成できるというところまで研究が進んでいるそうです。

 日本醤油協会が2007年に発表した「環境自主行動計画についての調査票」によりますと、国内で1年間に廃棄するしょうゆ油の量は約4,600トンにのぼるとされています。

 このトピックスだけを、フォーカスしていけば、環境への負荷の軽減に向けた、循環型社会に向けての正常進化・・・と捉えることも出来るのですが、そもそもの「何故、環境中のゴミが減らないのか・・・」の根本解決には至らないという現実も残っています。

 以前にも、ご紹介しましたが、現在の生分解プラスチックの技術は万能ではなく、温度や湿度、微生物の分布など、さまざまな条件が揃わなければ、なかなか分解されないなど、一定の条件下において分解されるという性質を持っています。

 それゆえに、「生分解プラスチックでできているから、いままでのようにポイ捨てしても良いじゃん・・・」という雰囲気の助長につながるのでは・・・という懸念を示す専門家がいることも事実です。

 生分解プラスチックの技術は、確かに技術の進歩を促し、新しい可能性としての価値の創造につながる素晴らしい技術であることは間違いありません。
 その一方で、技術開発のコストとして商品の価格に転嫁する必要が出てきますので、「ポイ捨てをし続けることでの影響・・・」は、多くの人が負担することになります。

 もちろん、プラスチックが悪いわけでありません。生活に様々な豊かさをもたらしてくれる素晴らしい技術の一つです。

 そのような中、環境中のプラスチックゴミ問題と生分解プラスチックとの関係は、「ワガママのコストを善意で支える社会・・・」の持続可能性についてという大きな社会命題を突き付けられているのかもしれません。


  


2023年02月17日

自己開示性と伝えるチカラ




 自己開示性の大切さは、寡黙であることが評価された時代から変化しつつある現代社会に於いて、多くの方が感じ始めているかと思います。
「あなたのためを想って・・・」からくる様々な言動に対して、「そんな、ことだとは思わなかった・・・」とか、「嫌いだから、冷たくされている・・・」というような、実際のコミュニケーション不在によるお互いの気持ちのすれ違いも、現実には少なくないのではと思います。

 また、その一方で、知りたいことを聞いているのに、「欲しい答え」とは違う答えで返されてしまうという事も、日常生活の中で意外に多いのではないでしょうか。

 「欲しい答え」がかえってこない、理由を考えてみると様々な理由があるような気がします。

 まず、考えられるのは相手に答えて欲しいことが正確に伝わっていないという事です。
また、伝わったとしても相手にとって都合が悪かったり、隠したいことに対する質問であったりすると、意図的に答えをずらされてしまったり、はぐらかされたりという場合もあります。

 相手が、故意にずれた回答をする場合については、別の課題になりますが、実際のコミュニケーションは、その場だけで完結しているものではなく、今までのその人に対して、感じたことを積み上げて出来上がった「偶像としてのパーソナリティ」という無意識の偏見の上に情報が修正されて伝わっている可能性も捨てきれません。

 つまり、「あの人は、どうせ○○と考えているに違いない・・・」とか、「どうせ、理解しようとはしてくれないだろう・・・」という想いから、受け取る方の側が、本人の意思とは関係なくゆがめてしまうという事です。

 自分の考えを伝えることの重要性は多くの方が理解できると思います。
 しかしながら、「伝える」ことと、「伝わる」ことは違うということを理解しておく必要があるという事です。

 言い換えれば、「伝える」内容は言語によって行っていますが、伝わるのは全体の93%とも言われています非言語的コミュニケーションによって行われているという事です。

 いくら、主張している内容の正当性があったとしても、相手に対して威圧的であったり、攻撃的な態度や表情で接してしまえば、その姿勢が、相手の防御や反撃のスイッチを自ら入れさせてしまうという事です。

 自己開示は、「やって欲しいこと・・・」と「任せて欲しいこと・・・」の境界線をはっきりさせる効果がありますので、自分の考えがしっかりと伝われば、お互いの関係性を良い方向に導くための有効な手段にもなります。

 逆に、その境界線が曖昧であれば、草野球などで、見られる、どちらが、ボールを取るのかがわからない為に真ん中に落ちてしまう「お見合い・・・」状態や、両者とも自分が取るつもりでぶつかってしまい、怪我につながる・・・という事は、ビジネスも含めて日常のコミュニケーションにも見られることです。

 2006年に国連総会で採択された国連障害者権利条約(CRPD)においても「Nothing about us without us.(自分たちのことを、自分たち抜きで決めるな)!」を大きなスローガンとして掲げており、良くしてしまいがちな・・・過剰な配慮や無意識の偏見を常に意識することの大切さを、改めて表明しています。

 この考え方も、適切なコミュニケーションがなされぬまま物事が進んでいく事が、「自分の立場だけ、大切にしている・・・」と伝わってしまい、事態が良い方向に進まないという現実に向けての反省なのかもしれません。

 「自己開示性が大切」と言いますが、どのような言い方をしても良いという訳ではありません。
もちろん、過去の経緯などから感情的な対応になりがちになってしまうという事があるのも事実です。しかしながら、感情的になると事態が良い方向になるかと言えば、多くの場合は悪化してしまいます。

 その場の感情に流されず、相手の考え方や立場を理解した上での敬意を大切にすることが、自分自身の主張や考えも伝わり易くなる、という意識も忘れてはいけないことの一つであり、「伝え方のスキル」にもつながると思います。

  


Posted by toyohiko at 12:42Comments(0)社会を考える

2023年02月10日

性善説と性悪説




 性善説は、ヒトは皆、本来は善人である・・・という前提での考え方で物事を進めていくときなどに使う言葉になりますが、「人間は社会的動物である・・・」からこそ、お互いに助け合うことを大切にするよう、本能に備わっているという説があります。
 多くの人が、頼るよりも頼られた方が、うれしい気持ちになる・・・という事も、本能的に「誰かの役に立つ・・・」ことを大切にするメカニズムの一つなのかもしれません。

 その一方で、多くの生物がそうであるように、安定的な捕食対象物を相手より優位に確保するための奪い合いが繰り返されているという現実もあります。

 また、性善説は信頼、性悪説は、相手に対する疑いや、敵対、攻撃というような意味合いをもつことは言うまでもありませんが、「あなたのためを想って・・・」に代表されるような相手に対する、抑圧的な善意も、裏を返せば「どうせ、あなたじゃできないんでしょ・・・」という性悪説からきているというように、この二つの考え方は、表と裏という関係だけでなく、複雑に絡み合っていると理解する必要があります。

 パターナリズムという言葉がありますが、「父権主義に由来し、強い立場にある者が弱い立場にある者の利益のために、本人の意思にかかわらず介入・干渉・支援すること」をしめす言葉です。
 
 このパターナリズムについて、2022年にスイスのジュネーブで開催された国連障害者権利委員会において、日本の現状について勧告がなされました
 その内容としては、教育や医療の現場で「法律や政策が、障害者に対するパターナリズムのため、条約が求める障害の人権モデルと調和していない」というような懸念が示されたと同時に、「この問題にかかわらず、日本の社会全般に起こっている軋轢とも言える事象の背景には、パターナリズムが潜在していることを認識し、日本社会の持続可能性を考えるうえで留意すべき」との指摘があったともされています。

 2006年に国連総会で採択された国連障害者権利条約(CRPD)においても「Nothing about us without us.(自分たちのことを、自分たち抜きで決めるな)!」を大きなスローガンとして掲げており、良くしてしまいがちな・・・過剰な配慮や無意識の偏見を常に意識することの大切さを重要視しています。
 
 現在、世界中で懸念されている「社会の分断」も、「最初の分離は、一生の分離」という言葉があるように、出来る自分と出来ない自分の両方を受け入れることで、不必要な他者との違いを感じることが少なくなるのではないでしょうか。
 
 かの、C.マルクスは、「構想と実行の分離によって見た目の生産性は向上するが、技能の剥奪が発生し、分断を引き起こす・・・」と資本主義や生産性至上主義の負の側面を指摘していますので、役割の分化によってもたらされるプラスの作用と、それによってもたらされるマイナスの側面の両方があることは、従来から指摘されている懸念事項の一つです。

 そして、分断の原因の一つとして考えられるのが、立場や考え方の違いによってもたらされてしまう、「あの人たちは、私を排除しようとしている・・・」とか、「信用できない・・・」という、性悪説です。

 立場や考え方の違いがあることは、「あたり前・・・」でありますし、その違いを認め合えることは大切な事です。

 そこには、性善説の考え方と性悪説の考え方が、混在し、使い分けていくことで社会の平穏が保たれているという現実もあります。

 「ワガママのコストを周りの善意で支払う社会」というのは、言い換えれば、犯罪のリスクを回避するために、社会の様々な手続きが煩雑になったり、そのために人員配置や設備投資を強化する必要が生じることで、時間とコストが結果的に上昇してしまう・・・とういうようなことは、良くあることです。

 性善説のみで、社会を運営しようとすると、このような犯罪に通じてしまうような独善的な考えに対して、脆弱な社会システムにならざるを得ません。

 性善説が大切なことは、多くの方が理解しているかと思いますが、それだけでは社会がうまく回っていかないという事も、残念ながら事実です。

 「無理難題を聞き入れる・・・」ことと、「認める」ことは違います。言い分は理解できるけど、譲れない・・・ということは、日常的にも数多くあるはずです。

 そこには、相手に対する敬意や尊厳に対する規範意識を大切にしながら、「自分たちにとって、やってはいけない事・・・」などのネガティブリストを、お互いの関係性の中で、しっかりとつくりあげることが重要になってきます。

 また、人は完璧ではなくヒューマンエラーは起こるものということを前提にするか否かで、パターナリズムに基づく過剰な介入や、「また、どうせ・・・」とか「邪魔された・・・」という感情からくる、被害者意識が沸き起こってくる確率が下がり、相手に対する接し方も変わってきます。

 性悪説も必要ではあるものの、自身の被害者意識からくる攻撃的な態度や言動は、相手の攻撃性を引き出してしまう事などから考えても、お互いの信頼関係を壊してしまう劇薬であることを認識しておく必要もあります。

 性善説と性悪説は、どちらか一方の価値観では割り切れない現実があるからこそ、「信頼」の礎となる性善説による考え方がより多くの場面で通用することが理想の姿です。

 だからこそ、多くの人が持ち得ている「出来ない自分」を律するためにも、お互いのための「大切にしたい規範意識」を常に意識しながら、アップデートし続ける必要があります。
 
 「あたたかさ」と「厳しさ」という、一見矛盾するようにも見えるふたつのことの両立も答えの一つなのかもしれません。



  


Posted by toyohiko at 16:52Comments(0)社会を考える

2023年02月03日

正当化と被害者意識について考える




 物事を「正当化されてしまった・・・」、「論点をはぐらかされた・・・」という経験は、誰にでもあると思いますが、なぜそのような感情になるのかを考えていきたいと思います。

 「正当化されてしまった・・・」と感じるという事は、相手とのやり取りの中で、そのように感じる言動や態度、・・・ひょっとすると態度までは出ていなかったけど、表情で感じ取った・・・という事実があったという事になります。

 言い換えれば、「正当化している」かどうかは別にして、相手にそのように感じさせる何かがあったということなのです。

 ここで、注目したいのが「こんなはずではなかった私」です。

 例えば、路上にゴミが落ちていることに気付いたとします。あなたは躊躇なく拾うことが出来るでしょうか・・・?いつでもどこでも、どんな状況でも・・・出来るでしょうか・・・?

 おそらく、答えは「ノー」なのだと思います。

 ゴミは、拾ってみると解りますが、拾った後の事を考えなければなりません。見える範囲にごみ箱がある場合であれば、拾ったゴミをどう処理するかは、すぐにイメージできます。しかしながら、拾ったゴミをどう処理したらいいかイメージできなかったり、何らかの理由があり、正装していたりすれば、話が違ってきます。

 普段から、ゴミ拾いなどの活動を熱心にしている人でさえ、「あえて、見過ごす・・・」という選択をする場合も実際には多いのではないかと思います。

 そんな時に、突然現れてしまうのが、「こんなはずではなかった私」です。

 「拾わなかった自分」をどこかで、見られていなかっただろうか・・・。とか、「本当なら、ゴミを拾っていたはずなのに・・・」という想いが、膨らんできてしまうと、頭の中では、「拾えなかった理由」でいっぱいになってしまいます。さらに、その言い訳を探し始めると、「批判されたくない・・・」という被害者意識につながってしまう可能性を考える必要があります。

 被害者意識のマイナス面として、よく言われてるのが「冷静な判断が出来なくなる・・・」ことです。感情的なバイアスが介入することで、対象となる相手を加害者として見がちになってしまうからです。

 険しい表情や、「でも・・・」とか「だって・・・」のようなD言葉に代表される相手に対する反発的な態度や言動は、自分を正当化するための相手を攻撃する武器として使ってる可能性を考えなければいけません

 ましてや、子どもや年下の人であったり、立場が下だと思い込んでいる人の方がしっかりやっていたりしても、「こんなはずではなかった私」の矛先がその相手に向いてしまい、「プライドが傷つけられた・・・」というような想いになる事もあります。

 また、何かを「一緒にやろう・・・」というような状況で、関心の程度や価値観の違いから来る取組への違いも、「やってくれない人・・・」「反抗的な態度・・・」と、その相手を加害者にしてしまうのも自分自身だったりします。

 しかし、相手から身を守ったり、攻撃をしなければならない理由は、本当に存在するのでしょうか。

 「自分を大きく見せる」ために、自分自身の「こんなはずではなかった私」を打ち消さなければならないという焦りによって、目の前の人の言動が、「責められている・・・」という歪みに感じ取ってしまうせいだとしたら、まさにひとり芝居です。

 相手を、「許せない・・・」という感情も、本来その人が、「許す・・・」とか「許さない・・・」という問題でないことも多く、意外と他者の問題に対して、そのような感情で介入してしまうこともあります。

 コミュニケーションの多くは、お互いの関係性を円滑にしたり、現実にある課題を解決することが最大の目的であるはずです。

 「こんなはずではなかった私」を打ち消すために、相手に向き合ってしまえば、その感情が大きく膨らみ、勝ち・負けのような「敵を倒す」目的にすり替わってしまい、あらたな問題が生まれてしまうことは容易に想像がつきます。

 「イライラ・・・」「モヤモヤ・・・」という感情の多くが、自分自身の問題である可能性を省みることが出来れば、普段抱えているストレスとの付き合い方も変わってくるという考え方も必要です。

 そのためにも、被害者になる前に、加害者の存在としての「出来るはずのことが出来なかった自分」を、素直に受け入れることが出来れば、「自分を大きく見せる」ための罠にはまることなく、相手との良い関係にもつながるのかもしれません。


  


Posted by toyohiko at 11:13Comments(0)社会を考える

2023年01月20日

感情と身体との関係を考える




 皆さんは、胸に手を当てずに、心拍の鼓動を認知することができますでしょうか・・・?
このような時に、自身の心拍を正確に把握することが出来る人と、全くわからない人がいるそうです。

 人間には、視覚や嗅覚、さらには触覚など外の世界を認識する外受容感覚と、痛み、痒み、呼吸や心拍、空腹、疲れやだるさなど体内の状態を認識する内受容感覚の大きく分けて二つの知覚を持っています。

 例えば、外傷などの知覚と腹痛などの知覚は異なる仕組みで認知しているということで、この内受容感覚が正確な人の場合には、さきほどの「心拍数の把握」も正確にできるとされています。
 しかしながら、わからない人については、全くわからない・・・というほどの個人差があるというのも内受容感覚の特徴のひとつと言われています。

 この内受容感覚と言われるものは、身体が「リラックスした状態ではない・・・」という状態を脳の島皮質と言われる部分が働くことで認知すると言われていますが、一見、身体の状態を知らせるセンサーと思われがちな内受容感覚が人間の「感情」と大きな関わりがあることが解ってきました。

 このような関わりは、脳の可視化技術が発達してきた、ここ20年余りで急速に進んできたと言われており、身体の不調に対して感情からアプローチすることや、その反対の手法で解決していく可能性についての研究も進みつつあります。

 事故などの、後天的な高次脳機能障害についても、医療技術の進歩によって運動機能を維持できるケースも多くなりつつあると言われていますが、一方で、「運動機能が維持されていても、社会生活を送れない・・・」というケースが多いとも言われています。
 名古屋大学病院 脳神経外科の本村和也准教授は、社会生活が送れない理由として、感情をうまく表現できないことにあると述べており、「感情」が仕事や人間関係などの社会生活において重要な役割をしているとしています。

 また、「感情」も、身体の異変の一つとして脳が認識していると考えられています。

 慶応義塾大学で認知神経科学についての研究を行っている梅田聡教授によれば、「頭に血が上る・・・」というような激しい感情の感覚も、視覚や耳からの情報が、脳の偏桃体に送られ、それが自律神経に伝達され、心拍数が上がったり、血圧が上がるなどの変化につながり、さらにその情報が脳の島皮質が感知し、前頭前野からの「過去の経験」や、「周囲の状況」などの認知と照合することで、「怒り」という感情につながるいうことが解ってきたと述べています。

 つまり、我々が感情を感じるときは、身体のなかで起こっている変化を認識することで初めて感情というものが起きてくるというのです。
 そして、「脳が周囲の状況を把握する・・・」ことと、「強い感情を感じる・・・」こととは別のことであり、その脳の情報を身体に伝達する役割をしているのが、交感神経や副交感神経などの自律神経をはじめとする、意志とは関係なく働く神経系が担っているのです。

 言い換えれば、一旦、認識した情報とその情報に対する身体の反応とを併せることではじめて「感情」という認識になるという事になります。

 さらに、武蔵野大学幼児教育科の今福理博准教授によれば、先ほどの、内受容感覚の個人差はその人の社会性、言い換えれば「他人の感情を感じ取る感覚」と大きく関係していると言います。

 80名を対象とした実験において、自身の心拍数などを把握するテストなどによる内受容感覚の個人差と、他者の表情への自然な反応などによる共感し易さの調査によれば、内受容感覚の正確性と共感性とは相関関係があるという結果が得られています。

 今福理博准教授は、共感を、「自分の身体で、相手の痛みや悲しみをシュミレーションし、相手の感情を感じとること・・・」と説明しています。そして、「自分の身体の中の感覚を正しく認識することは、社会性を築くうえで欠かせないもの・・・」とも述べています。

 このことは、自分はその感情状態になっていなくても、「相手が・・・」と想像するというシュミレーションをすることによって、自律神経の反応が起こり、それによって島皮質の反応につながるということで、説明がつくようです。

 そして、 このような連鎖によって「仲の良い集団」が出来上がってくるとも言われています。
「仲の良い集団」というのは、言い換えれば「相手と色々な心の状態や、身体の状態が同期する集団」ともいえますので、このような結果、「分かり合える・・・」「理解してくれる・・・」という信頼関係が培われるともいえます。

 身体と感情との関係は、内受容感覚との関わりを通じて様々なことが解明されつつありますが、「非常に個人差の大きい内受容感覚」を、自分はどうしたらいいのか・・・?という疑問が残る方も多いかと思います。

 自分の「感情」に気付きにくい人は、内的な身体の変化に気付きにくいために、初期のシグナルを見過ごしてしまい慢性痛につながったり、重症化した状態になって初めて気づくというリスクが高くなってしまう可能性があるとされています。

 これには、いままで気付きにくかった「感情」を意識することで、「身体の変化」に気付き易くなり、痛みの重症化などの予防につなげようとする取り組みも実際に行われているようです。

 いっぽう、HSP(Highly Sensitive Person)と言われるような感受性が高い方は、同時に内受容感覚が過敏すぎる場合もあると言われています。過敏性腸症候群などもその一つとも考えられていますが、この場合は身体の変化による痛みになれることで、島皮質の過剰な反応を抑えるという取り組みも模索中とのことです。

 心拍の把握については、内受容感覚が鈍すぎても鋭すぎても・・・正確な把握が出来ないことが解っています。
実際の心拍数を確認し、感覚のズレを修正していきながら内受容感覚を調整することで、不安に関する指標の軽減と共に、不快な身体症状の軽減にもつながったという研究結果もあります。

  国立精神・神経医療センターの関口敦室長によれば、この実験の結果、島皮質と前頭前野も結びつきが強くなっていることが解ってきており、「不安を増大させない・・・」効果にもつながるというようなメンタルヘルスに対する新しいアプローチにつながる可能性も示唆しています。

 身体と感情・・・一見、「何のつながりもない・・・」ように見えていたものが、自律神経を通じて、脳の認知と深いかかわりがあるという意識で、自身の感覚に向き合うことは、身体と心を整える・・・ことにつながっていくのかもしれませんね。


  


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2023年01月06日

経験から得られるもの




 経験には様々なものがありますが、いっぽうで、解釈も様々な意味になってしまうというややこしさがあります。

 言い換えれば、複数の人間が同じ教訓を引き出すということはほとんどないということになります。つまり、人は経験から様々なことを学ぶ・・・という考え方も、「その人なりの解釈・・・」によって、多くの経験からも、特定の教訓しか得ることがないという可能性を理解しておく必要があるということです。

 すなわち、経験をどのように利用するかは、その人次第である・・・ということになるのです。

 たとえば、何らかの誤りを繰り返してしまうパターンなどの場合にも、誤りそのものを認めたとしても、その後の結果、「また繰り返す・・・」という確率が高いという現実もあります。

 「ずっと、こうしてきたから・・・、今更変えられない」、「親や、ほかの人のせいにする・・・」「教育や社会という、漠然とした大きな枠組みのせいにしたり・・・」という思考の結果、現状の理解を正当化するというように、ある種の情熱をもって誤りに固執してしまうことはないでしょうか。

 こうして、考えると人間が変わるプロセスは簡単なものではなく、人間が変わるには、慎重さと忍耐、として何よりも、個人的な虚栄心ともいえる承認欲求に対して、距離をおいて付き合うことが大切なことだと言われています。

 非認知能力という言葉があります。学力などと言われる認知能力ではない対人的なものや、レジリエンスなど、答えのないものに対して立ち向かっていったり、あきらめないチカラもこの非認知能力にあたります。

 幼少期の「遊び」は、この非認知能力を育むために大切な行為だと言われ、その分野に関する研究も進みつつあります。
 その研究によれば、「楽しく遊ぶ」には遊び相手の気持ちを理解する必要があり、自分の思うまま・・・ばかりでは楽しくないという経験を積むことで、相手の気持ちを推し量るチカラを身に付けていく事につながるとも言われはじめています。

 人と人とをつなぐ関係性を大きな枠組みで表現したものが社会です。そして、社会は分業という形で支えあってこそ成り立っています。

 オーストリアの精神科医で心理学者のアルフレッド・アドラー氏によれば、「本来分業は、人を分けるものでもなく結び付けるためのものと考える必要があります。誰もが他者を助けなければなりませんし、他者と繋がっていると感じる必要があります。そうすることで人間の精神に求められる大きな結びつきが成り立つのです。」と述べています。

 そしてこの結びつきを「文化」という言葉で表現しています。
 だからこそ、人間の社会性は必然だともいえます。

 また、アルフレッド・アドラー氏は、著書「人間の本性」で社会性を阻むものとして、次のようにも述べています。

 「甘やかされた子どもは、困難の克服を練習する機会を与えられていないのでその後の人生に対する準備がほぼできていません。暖かい雰囲気の小さな領域から出て人生に向き合えばほぼ決まって反動を受けます。そこにはひどく甘い親のように過剰に義務を果たしてくれる人はいません。」

 そして、その子どもについても、「その対象となる子どもは、多少なりとも孤立します。彼らにとっても人生には良いイメージはありません。繰り返し至る所で悪い印象を受けると予測しているからです。そして、自分の人生や課題は特別に困難だと思っていますから、破綻が起きないように注意しながら自分の境界を守ろうとし、いつも不信の目で周囲を見ているのです。」と、「甘やかされた経験」によって、物事のとらえ方の偏りが起きてしまうという可能性を指摘しています。

 更に、こうした子供に共通するもう一つの特徴として、お互いに支え合うことで社会が成り立っているという「共同体感覚」があまり育っていないとも指摘しており、ものごとに対しても「他者よりも自分のことを考える」という捉え方が顕著であり、全体的に世界を悲観的に見る傾向が強いとも述べています。

 経験をどのように捉えるかで、その後について大きな違いが出てきてしまうという現実とともに、その一方で健全な社会生活を送るためには、「お互いに支え合う・・・」という共同体感覚が大切であり、その感覚を阻む要因の一つに自己承認欲求があることも理解できると思います。

 かの松下幸之助氏は、「素直さ」の定義について、著書「素直な心になるために」で次のように述べています。

 まず一つ目は、「現状を受け入れる」ことの大切さについてです。どうしても人は、目の前の現実に対して、ジブンゴトとして受け止めることが苦手だったりします。先ほども申しましたように、他者や、社会という実態のないものに対して責任を転嫁してしまいがちです。だからこそ、自分の問題として受け止めることが大切だという事なのです。

 そして、二番目は、その現状に対して「前向きに対応する」ことだとしています。これは、自分の問題として受け止められればこそ・・・という側面もありますが、「前向きに・・・」という姿勢が多くの支えや、頼るチカラにも繋がるのだと思います。

 また、松下幸之助氏は、「素直さ」が無い・・・弊害として、「人の話を聞けない故に、人の知恵を活かせない」ことや「人が話をしてくれなくなり・・・、支えてくれなくなる」とも述べています。

 経験によって得られるもの・・・も、必ずしも同じではなく・・・現状のこだわりを強固にしていくために利用してるだけかもしれないという認識をもって、様々な経験に対して向き合っていく必要があるのかもしれません。



  


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2022年12月30日

ヒトとの共生微生物がもたらす未来を考える




「人間の腸内に住む細菌の理解が爆発的に深まることで、2023年には医学に新たな考え方がもたらされるだろう。」これは、英国マンチェスター大学の免疫学教授ダニエル・M・デイヴィスが腸内細菌をはじめとするヒトとの共生微生物と医学との関係性について述べた言葉です。

 日本国内では、あまり馴染みのない言葉かもしれませんが、マイクロバイオータと呼ばれる、ヒトの共生微生物に関する研究は、科学の世界では大きなトピックスとして非常に関心の高い分野の一つです。
 近年は、日本国内でも脳腸相関という言葉が多くのメディアで取り上げられるようになり、「おなかの健康」が消化管内の共生微生物と大きく関係しているだけでなく、睡眠やストレスなどのメンタルヘルスにも大きな関わりがあることが注目されつつあります。

 こうなってくると、多くの人たちの関心は、「どんな、腸内細菌が良いの・・・?」ということになりますが、「健康」な腸内細菌がどのように構成されているかの解明は困難であり、且つ個人差が非常に大きいことに加え未解明の部分が多いという現実もあります。

 例えば、善玉菌の代表選手で通称ビフィズス菌と言われるビフィドバクテリウム属の腸内細菌がありますが、この細菌が存在しないタイプの人がいることも現実として存在します。
 この人が、健康的に問題があるかというと、必ずしもそうは言えない・・・健康状態であるケースの場合もあります。
 京都府立医科大学 内藤裕二教授によれば、このような場合、ビフィドバクテリウム属の腸内細菌の役割を他の種の細菌が担っているために、全体として問題のない健康状態を保つことができると推測されると述べています。

 腸内では、善玉菌、悪玉菌、日和見的な菌が、2:1:7の割合で共生しているというのが通説にはなっていますが、その一方で、「健康な腸の生態系には何らかの重要な機能を担う一連の細菌が存在すると同時に、明らかに人体に害を及ぼすような細菌とは共生していないはず・・・」という考え方もあり、善玉、悪玉・・・という捉え方も現時点での考え方ということなのかもしれません。

 そのような中、研究に関する環境も大きく変化してきている様子です。

その一つが、技術の発展によって大量の遺伝子情報を素早く解読できるようになり、必要な微生物の存在を数種類だけ把握するのではなく、細菌叢という単位でどんな生態系を形成しているかを把握することが今までよりも容易になってきたことだと言われています。
 現実には、腸内細菌の健康に対する影響に関してのメカニズムについては未解明の部分が多いことも事実です。

 現在の知見では、腸内細菌は、短鎖脂肪酸をはじめとする生態活動を通じての代謝物が作用する場合と、微生物自身が直接免疫細胞などに働きかけをすることで作用する場合、のいずれかのアプローチによって人体に影響を及ぼすのが一般的と考えられています。

 従来では、免疫システムに対するアプローチなどは、様々な免疫細胞に微生物自身が働きかけるために細胞の構造や形が重要だと考えられていました。
 そのために、免疫システムに対する働きかけに関しては、「必ずしも生きて、腸まで到達する必要はない・・・」という考え方が主流でしたが、様々な研究が進んでいくうちに免疫システムに対しても共生微生物の代謝物との関係性に関する新しい知見も出てきています。

 例えば、近年マウスに繊維質の多い餌を与えると、腸内で短鎖脂肪酸の濃度が高まり、それに相関してマウスのぜんそく発症リスクが下がっていくというような結果も出てきていいるという現状からすれば、「免疫システムへの働きかけについては、必ずしも生きて腸まで到達する必要はない・・・」という、従来の考え方の前提についても見直していかなければならない可能性も出てきています。

 また、植物が、物質を介して相互にコミュニケーションをおこなっているように、消化管内の共生微生物も相互のコミュニケーションによって役割の分化とともに免疫システムとも相互作用を積極的に行っている可能性も否定できません。微生物同士のクロストークという言葉の存在もその可能性の一つです。

 個々の細菌を一つ一つ解明していくというところから、細菌叢という単位で遺伝子レベルでの解析手法がより一般化することで、この分野の可能性については次々とアップデートされていく期待がますます高まってきています。
 
 未だ未知の世界が多い、ということは可能性も大きいということになります。だからこそ、「遺伝子レベルでの解明」という技術が多様な知見とともに、この分野の大きな可能性に発展していくことを期待しています。

  


2022年12月22日

「沈黙は金なり・・・」を考える



 あの人とは、「意見が合う・・・」とか、「意見が合わない・・・」というような表現をよく耳にしますが、「意見が合う・・・」とはどのような状態をいうのでしょうか。

 よくしてしまいがちになるのが、「どちらかの意見に合わせる・・・」という事ですが、これでは、「どちらかが折れた・・・」ということであって、「意見の一致・・・」という事では無いことは理解できますが、現実にはこの「どちらかが折れる・・・」という事で、まるく収めようとする癖がついている人も多いのかもしれません。

 ある意味、ひとの数だけ価値観があって当たり前なのですから、「あなたの言っていることは理解できるけど、私はこう思う・・・」という、エンパシー型の共感が普通であることが望ましいのにかかわらず、自分の意見を言っても、なかなかうまくいかないという経験値にもとづいて避けてしまうケースも多く存在するのだと思います。

 また、「目的」が置いてきぼりになってしまい、手段の違いで意見がかみ合わないという事も良くある話で、このような場合は、お互いに本来の目的にまで一緒にさかのぼることで、お互いの想いに共感できるという事も少なくありません。

 しかし、意外に手強いのは・・・なかなか意思表示をしないタイプの人です。

 「沈黙は金なり」という言葉がありますが、このことは対峙する関係における、駆け引きという意味では有効なのかもしれませんが、身近な関係性に於いてはそうとは言えない部分が多いような気がします。

 相手が、「何を考えているかがわからない・・・」という事は、時によっては威圧とか脅威になります。

 一般的には、「解らないものに対して、不安や脅威を抱く・・・」とか、わからないからこそ、「攻撃的に接してしまう。」ということは、生物の危機管理能力として持っている反応の一つです。

 当然、「意思表示が少なく、多くを語らない・・・」状況にも理由があるはずです。
例えば、立場の上下があったりすると、上の立場の人は、「自分が発言することで、周りの人が言いにくくなる・・・」と勝手に考えてしまったり、下の立場の人が、場面の空気を読んでしまい「こんなこと言っても、どうせ相手にしてくれない・・・」というような、お互いに「自分の推論」のなかに押し込めてしまうことも少なくないはずです。

 また、身近に感情のスイッチが入りやすい人がいたりすることで、場の雰囲気がその人の感情に流されてしまうことに対する危機意識から、あらかじめ予想されるという・・・という想いで「多くを語らない・・・」癖がついている人もいるのかもしれません。

しかしながら、この「多くを語らない・・・」という事は、お互いの関係性に於いて、心理的安全性の高い状態と言えるのでしょうか・・・?

 「解ってくれるはず・・・」では、相手の「推論」の領域から抜け出すことはできません。

 確かに、自身の「考え」をどのようにして示すのか・・・はこれからの時代、大変難しい問題なのかもしれません。
従来のように、「強い態度を示す」だけでは、必ずしも受け入れてもらえないという考え方は多くの方が理解しているのだと思います。

 「もっと、しっかりと話をすればよかった・・・」という、想いをした経験のある方も多いのではないでしょうか。

 だからこそ、相手の「推論に押しつぶされない・・・」ためにも、本来の自分を表現する意識と、自身の価値観をより明確にした上での、「誤解されないための、立ち振る舞い」が、より大切なのかもしれません。



  


Posted by toyohiko at 15:02Comments(0)社会を考える

2022年12月16日

生物の進化から学ぶ「適応力」というチカラ




 現在、地球上の全生物は200万種、総重量470Gt(ギガトン)と言われています。その200万種のうち、人類を含めた哺乳類が約6,000種、植物は40万種、昆虫に関して言えば、全生物の半数にも及ぶ100万種とされています。

 また、重量で言えば、総重量の95%以上が植物といわれていますので、地球上のあらゆる生物の中で、重さで言えば圧倒的に植物が多く、種の多さで言えば昆虫ということになります。

 このような状況は、生物の進化の過程における種の特徴によってもたらされた結果ともいえるのかもしれません。

 「進化」といえば、チャールズ・ダーウィンの進化論による「強者生存ではなく、適者生存・・・」であるという考え方がありますが、植物や昆虫のそれぞれの特徴についての研究が進むにつれて、「生き残りをかけた競争」だけではない・・・というような考え方が出てきました。

 このような考え方の大きな転換のきっかけになったのが、微生物同士のクロストークと同じように、植物同士においても様々なコミュニケーションをしていることが次第にわかってきたことです。

 東フィンランド大学の化学生態学者であるジェームス・ブランド氏によれば、植物同士は物質を介して様々な、コミュニケーションをとっていることが解ってきたとしています。
例えば、ある樹木が虫や動物に捕食されたときに、不思議とその周辺の樹々はあまり食べられないという研究結果があります。

 この現象は、捕食された樹が何らかの方法で情報伝達を行い、捕食者が嫌がる毒性物質を他の樹木が出していることが解っています。

 また、コミュニケーションを司る物質は、匂いといえるような空間を介して伝達できるほどの微細な構造をしているともされています。

 さらに、植物以外にもメッセージを送っている可能性について、植物が、昆虫に対して捕食対象の生物がいることを発信するというような、「物質を介して植物と昆虫の間のコミュニケーション」が存在するというのです。

 光合成という仕組みにとって重要な「葉」の有無や日当たりの良し悪しについても、常緑樹と落葉樹のような植物同士が地中の菌類を介して栄養分をシェアするためのネットワークを持っている可能性も解ってきました。

 ご存じのように、植物は自身の力で移動できません。「動けないこその仕組・・・」のひとつとして、人間の見えていない・・・膨大なコミュニケーションをとりながら、競争ではなく、ネットワークを介してお互いに協力することで安定した生態系を支えているとも言えます。

 また、昆虫の特徴は飛翔能力と、完全変態と言われる成長に従っての身体の変化です。しかも、昆虫の約9割がこの飛翔能力と完全変態の仕組みを持っています。

 白亜紀を境に、生物種は膨大に増えたとされています。この時期、植物に「花」というシステムが現れ、この「花」という存在が花粉という、昆虫にとっての捕食対象ができ、植物との共生関係も含め、多くの花粉を捕食するための飛翔能力を身に着けたと考えられています。

 また、昆虫は完全変態という能力によって環境への適応能力が爆発的に上がったとも言われています。

 この変態という仕組みは、単に身体の形が違うだけではなく、捕食する対象や住む環境も違う・・・ということが最大のメリットになります。
 変態の段階によって、捕食するものが同じか、異なるかが大きな違いとなり、住む環境が限定されたり、種数も限られるようになっている現実からみれば、この変態というシステムにも大きな意味があると考えられています。
 特に、完全変態をする昆虫の中には実の中、木の中、朽木の中、葉の中、土の中と幼虫期に外敵から身を隠しやすい生態をしているものも少なくありません。

 この完全変態の仕組みは、済む場所の差別化による環境への適応や捕食の対象を差別化することで、競争から逃れてきた結果による進化と考えることもできます。

 このように、自然界の多くを占める植物や昆虫の進化の過程を考えても、「競争に勝ち残った・・・」のではなく、「あらゆる資源をシェアし、競争しない」ことで、自然の摂理は成り立っているのかもしれないと考えていく必要がありそうです。

 そして、この考え方は、この先の社会の持続可能性へのヒントのひとつになるのかもしれません。