身体のチカラ › 社会を考える

2022年12月09日

自分の健康は誰が守るのか




 「健康経営」という言葉が一般的になるようになり、目の前の成果だけを求めるのではなく、長期的な視点で一緒に働くチームのメンバー一人ひとりの「健康」についても、お互いに配慮する必要がある・・・というような考え方が広まってきました。

 これは実際に、過労といわれるような心身の状態は、命に関わる事故につながる可能性も否定できないという現実があるからです。

 「24時間戦えますか・・・!」というお互いを過剰に鼓舞するような表現についても、「昭和・・・」という言葉で、時代錯誤と揶揄するような変化が現れつつあることも事実です。

 いうまでもなく、「健康」の意味するところは、病気や怪我をしていないか・・・というような身体のコンディションだけでなく、メンタルに関することや、社会的な安寧がもたらす安心感もが含まれる広い領域になります。

 例えば、「休みにくい・・・」とか、「早く帰りにくい・・・」というような心理的にネガティブになってしまうような状況を、許容する風土と実行に移すことが出来る仕組みの構築は欠かせません。
 「休みにくい・・・」「早く帰りにくい・・・」などの心理状態に陥ってしまう理由を明確にしていきながら、一つずつ丁寧に解決していく必要があります。
「自分しか知らない、出来ない・・・」という仕事をなくしていくというようなことも、解決方法の一つです。

 その一方で、理解や風土が出来てきたとしても・・・、体調不良等の頻度の問題については、また別の話になります。

 プロスポーツチームの事例で考えると分かりやすいと思いますが、怪我や体調の不良は、試合出場の機会に直接影響します。すなわち、他の選手に交代しなければなりません。
 もちろん、試合に出るだけが全てではありません。しかしながら、その選手にとって試合に出場し活躍することで、チームに貢献していると考えた場合に、試合に出られなかったことで貢献できなかったことになります。
 当然のことながら、出られない状況が・・・長く続いてしまえば、チームに対して役にたつことがなくなってしまい、結果的にそこでの居場所まで失ってしまうことにつながりかねません。

 「試合に出て活躍する役割」から、役割を変えることで貢献し続けることも出来ますが、そのままでは居場所はなくなってしまいます。

 私たちは結果が出ないときについ周りの責任にしてしまうことがあります。これは、自身や家族の健康に関することも同じです。

 「好きで病気になったわけでは無い・・・」「事故なんだからしょうがない・・・」というような想いになる方もいるかと思いますが、病気にも生活習慣病という言葉があるように、日常の習慣によってリスクを減らすことはできます。

 例えば、若い世代を中心とした朝食の欠食率の高さについては、時間栄養学の概念が導入されたことによって健康に対するリスク要因としても度々話題になっています。

 様々な、アンケート調査などの結果によれば、朝食欠食の大きな理由として、「時間がない・・・」「朝、お腹がすかない・・・」などが挙げられています。

 しかしながら、ここに挙げられている理由とされているものは、実は、原因ではなく、「原因からもたらされた結果」であるという捉え方をする必要があります。

 この場合の原因は、起床時間も含めた就寝時間の問題や、睡眠の質に対するリスク要因になる就寝前のスマホやゲームをしてしまう習慣であったり、間食もふくめた就寝前の食事の量や時間帯が消化器官に対して負担をかけてしまうライフスタイルという事になります。

 このような事例を考えても、「私は悪くないんだ」と言わんばかりに訴えても、すべてを周りの責任にしていると映ってしまうことの方が多いのかもしれません。

 このように周りの責任にしてしまうという事は、「自分以外の誰かの責任・・・」であり、「自分は被害者である・・・」という主張をしていることになります。
 このような、発想になってしまうことで、その責任の先を探すことに一所懸命になってしまい周りの人たちを責めてしまうこともあり、その結果として、人間関係をも悪化させてしまいます。

 さらに、自分を被害者にすることで何か事態が変わるかというと、何も変わらないと思います。

 そして、「私は変わらない・・・」と宣言している事と同じになってしまいますので、人間関係を悪化させるだけでなく、「孤立」にもつながってしまいます。

 先ほども言いましたように、健康の様々な、要素の中に社会の安寧というものがあります。社会という大きな括りになるとわかり難くなってしまうかもしれませんが、人同士の平穏な関係性です・・・。

 「この人の幸せを・・・」とか「あの人に会いたい・・・」というような気持ちそのものが生きる活力の重要な要素であることは言うまでもありません。

 もちろん、「病気や怪我をしてはいけない・・・」という事ではありません。周りの人たちとのつながりを大切に考えた時に、「出来ることをやってこれたのか・・・」「被害者意識に陥ってしまい・・・何かのせいにしていないか・・・」という事なのだと思います。

 健康と言っても、身体は一人ひとり全て違います。「痛み」というシグナル一つをとっても、そのシグナルに対する感受性も人それぞれです。だからこそ、本来であれば自分の身体は自分自身が一番わかっている・・・というものであり、自分しかわからない・・・というものでもあるのです。

 だからこそ、健康であり続けるには、自分自身の心身の状態を受け入れて、次につなげるチカラが必要なのではないでしょうか。

 そして、
 「自分の選択はどこが間違っていたのか・・・」
 「自分の考えのどこがよくなかったのか・・・」
 「偏った、思考の癖・・・になっていないか・・・」
 「では、どういう選択をしたら、うまくいくのか・・・」
 「今回の失敗から学んだことは何だろうか・・・」

 と解決策につなげることで、本当の意味での「自らの健康」につながるのだと思います。

  


Posted by toyohiko at 16:33Comments(0)社会を考える

2022年11月10日

「頼るチカラ」をあらためて考える




 「働き方改革」という言葉がよく聞かれるようになり、「休みがとれる・・・」とか、「早く帰ることが出来る・・・」というキーワードが注目されるようになってきました。

 その一方で、仕組みそのものではなく、「私がいないと・・・」とか、「休むと、周りに迷惑がかかる・・・」という感情がどうしても先にたってしまい、「頭では解っているのだけれど・・・」なかなか実行には至らないケースは、少なくないのではないでしょうか。

 このような状況は、「自分で何とかしなければ・・・」という自己責任論的な思考や、自分の力で完結出来ないことに対して、「完璧さを欠く、不完全」というような意味会いに陥ってしまう人が多いからなのかもしれません。

 実際に、自身のプライベートに合わせて休みをとったり、早く帰るために、自身の都合だけで何とかなる、という立場の人は少ないはずです。

 そのためには、周りの人たちへの理解や協力が欠かせないものになってきます。この「周りの人に対して、理解や協力をしてもらう・・・」という行為そのものが、大きなハードルになっている人が多いという、現実の課題を解決していく必要があります。

 まず第一には、精神的なハードルです。このハードルの高さについては、個々によって異なるとは思います。
しかし、現実には多くの場面で、無関心且つ傍観的な関係性の中で結果的に発生してしまっている「頼りっぱなし・・・」を、多くの場面でやってしまっていることを省みた場合に、特定の事象だけに対して、過度に考えすぎているという捉え方もできます。

 最近では、「仕事だから・・・」という理由からくる、プライベートライフでの責任放棄は「会社への引きこもり」とか「社内ニート」という言葉で、揶揄されるような傾向も出てきつつあります。
仕事とかプライベートというような場面の切り分けではなく、お互いの理解や協力はあらゆる場面で必要な事のはずです。

 「任せられないこと、頼ることが出来ないことは相手に対する無意識の偏見の表れであるとともに、敬意の無さ」と考え方を転換することが出来れば、もっと「頼る」という言葉をポジティブに捉えることが出来るし、頼ることそのものを「スキル」の一つと考えることも出来るようになるのではないでしょうか。

 そして、実際に他人を頼りにし、自身がやって欲しいことをやってもらうには、して欲しいことを、具体的に伝える必要があります。
 よく、「自分でやった方が早い・・・」というパターンに陥ってしまうことがあると思いますが、確かに他の人にやってもらうことは大変です。言い換えれば、頼ったり、任せるためには、そのためのスキルが必要だという事です。

 先ほどの、パターンのように「自分でやった方が早い・・・」から、ついつい自分でやってしまう。だから、自分しか知らない業務が増えて大変な想いをしているという場合は、業務の目的や、その目的を解決するための方法としての理解が浅いために、実際に他人に伝えようとした時に、上手く伝わらないというような経験をしたことはないでしょうか。

 自分だけでやり続ける仕事の方が、案外問題点を放置し続けてしまったり、「解らないことが、分からない・・・」けど、このパターンで言われたとおりにやってきたので何のために、何をやっているのかはよく解っていない・・・ということもよくある話です。

 頼ったり、任せることが、その業務そのものの精度向上につなげるための手法であり、スキルそのものであるという考え方もできます。

 最後に、頼むにしても「全部・・・という訳ではない。」というのが現実です。先ほどのスキルにも通じることにもなるのかもしれませんが、「やって欲しいこと」と「任せて欲しいこと」の境界線を明確にすることが大切です。
 意思の疎通がうまくいかないことで、やり過ぎてしまい越権行為と思われてしまったり、やってくれると思い込んでしまい、業務そのものに穴をあけてしまったりという事は良くあることです。仕事という事だけで割り切れればいいのですが、大抵の場合が、お互いの関係性にまで影響を及ぼしてしまうことにもつながりかねません。

 そのためには、「困りごと・・・」に対して、「任せて欲しいこと」をアイ(I)メッセージで伝えることが出来る自己開示性と「やって欲しいこと」を言ってもらえる心理的安全性の両方が備わっていることが必要になってきます。

 この、「やって欲しいこと」と「任せて欲しいこと」の境界線をお互いの中でしっかり確認しながら進めていく事は、思っている以上に重要です。そして、境界線を明確にしていく事で、ネガティブリストでのコミュニケーションが可能になり、相手に対する感謝や敬意だけでなく課題解決のスピードアップにもつながります。

 「他人に頼ることが出来ない・・・」という理由を色々と考えたときに、「自分の考え方を理解してもらう」、「うまくいっていないところをさらけ出す」・・・など、少々ハードルが高いと感じることも事実です。

「頼るチカラ」は、ダメな事ではなく、「自分自身が変わるという意思」と考えて実践してみてはいかがでしょうか。


  


Posted by toyohiko at 15:58Comments(0)社会を考える

2022年11月04日

「遊び」と脳と非認知能力を考える




 2018年アメリカ小児科学会では「子どもに遊びを処方するように、すべての医師に推奨する」というような声明がなされました。

 皆様方もお感じの事と思いますが、近年遊びに関する様々な状況が変化してきています。例えば、外で遊ぶ時間・・・、そして、ゲーム機など電子デバイスのディスプレイにむかう時間・・・。

 日本国内でも、「開かれた学校」と言われてきた授業以外での学校の使われ方は、2001年に起きた大阪の小学校の事件を境に考え方が大きく変わってきました。
 世代によっては、放課後、校庭で友達と遊んでから帰る・・・という事は普通の事でしたし、寄り道をしながら虫取りなどをしながら帰る・・・。という事は、ごく普通の事であり、当たり前の事でした。

 しかしながら、現在、子どもたちは、放課後はある意味強制的に帰宅を促され、明確な理由なく学校に居続けることすら難しい・・・という現状になり、帰り路に、道端で遊びながらの下校に関しても、「近所の人たちの学校への通報」によって、子どもたちだけでなく、親までも注意される・・・。というのが現実です。

 心理学者のブライアン・サットンスミスは、「遊びの反対は仕事ではない、抑鬱である」と述べたといわれていますが、まさに現代の子どもたちを取り巻く環境を言い表しているようにも思えます。

 以前は、「遊びは、訓練である・・・」という概念が多くを占めていたという事もあり、「遊び」の重要性について、研究者たちが関心を寄せるということはあまりない状態が続いてきました。

 しかし、増加しつつある衝動的な事件の多さなどに関して、暴力的な衝動が抑えられない傾向が増大している可能性と「遊び」との関係性に関心を持ちはじめた研究者もいます。

 精神科医のスチュアート・ブラウンもその一人です。スチュアート・ブラウンは、テキサスの刑務所で殺人犯を対象に様々な調査を行いました。その結果、彼らの遊びの経歴が一般の人とは大きく異なることがわかったというのです。
 また、6,000人以上の調査によって、子ども時代の遊びは、人格形成に深刻な影響を与える可能性があり、楽観的な認識や、達成感、自己を認識するチカラは「遊び」を通して育まれるのでは・・・。という考え方も提唱しています。

 動物行動学者ゴードン・バーグハートによると、そもそも、遊びとは・・・
  
 ・行動に明確な理由がない
 ・何度も繰り返す
 ・時に大げさ
 ・自然発生的
 ・ストレスがない状態で行われる
 という五つの特徴があると言われています。

 これらの特徴は、ヒトを含む多くの生物に共通して言え、これらの特徴的行動パターンを同じ種だけでない、他の個体と一緒に行うのです。

 この「他の個体と一緒に行う・・・」というところがポイントです。

 「遊び」は、相手の表情を読み取ることで生まれると考えられています。共感から遊びが生まれるのか、遊びが共感を生むのか??については、まだ未解明のところは少なくないですが、少なくともこの二つには密接な関係があると言われ始めてきています。
 発達心理学者のキャシー・ハーシュパセックは、人は遊ぶときには、「他人が何をしたいかと、知ろうとする・・・」その中で、譲り合うことを学び、民主主義のルールの基盤を自然に身に着けていくとも述べています。

 ラットによる実験では、遊び相手がいない状況で育つことで、仲間と一緒に行動するというような社会的スキルの発達に遅れが見られ、意思決定や情動をつかさどる脳の前頭葉皮質の発達が未成熟であったという報告もされています。

 このように。遊びの有無が、脳に影響を与えるという可能性も示唆されています。

 と同時に、哺乳動物の構造は基本的には同じとされていますので、この結果は動物の世界だけ・・・、という事で片付けてしまっていい問題なのでしょうか。

 テネシー大学では、遊びと困難に挑戦する能力との関係も研究されています。この研究では、遊びの経験が足りないことが、1回の社会的敗北により、相手に対して簡単に逃げてしまい社交不安の状態に陥り易いという報告を、ハムスターを使っての実験を通じて行っています。

 遊びの時間の減少とともに、メンタルヘルスの問題は増大しているとされています。この二つのことは、別の出来事としてほっといてもいいのでしょうか?

 アレン・オブ・ハートウッド卿夫人 であるイギリスの造園家、福祉活動家のマージョリーアレンは、「心が折れるより、骨が折れたほうがまし、」という言葉を残したとされています。

 つまり、昔から「遊び」とメンタルヘルスとの関係について気付いていた人も多かったのだと思います。

 遊びは探索とも異なり、何かを調べるのが探索、その何かをつかって行動するのが遊びと考えられています。遊びは天性の資質であり、故に、遊びたいという衝動は、種の垣根をも超えてしまうとも言われています。

 ヒトが多くの生物を触れ合うことが出来るという事も、この「遊び」という天性の資質からなのかもしれません。

 近年の研究では、「危険な遊びのほうがより効果的」であるという事も解ってきたそうです。

 カナダの発達心理学者 マリアナ・ブルッソーニは、子どもにとってのリスクの役割は、危険を通してけがを予防したり、体の機能やどうすれば快適でいられるか、その中の仕組みまで担っていると言います。

 「怪我がないことは大切なことではあるが、少ないことによって失うことも考えなければならない。」というような考え方の人たちも増えつつあります。

 米国のフィラデルフィアでは、遊びの中にはスリルが大切という観点から「危ない遊び」というジャンルを体系化し、怪我をする可能性は、「世界を知り・・・自分のちからを試すチャンス」であり、恐怖心を制御する方法を学ぶ最も有効な手段であるという考え方のもと、「遊びやすい・・・」を「まちづくり」や「都市計画」に活かしていこうといような動きも出てきています。

 親自身が、外での遊びを知らない世代に入ってきた現在、「外は、危険がいっぱい・・・」という、親たちが抱いている社会への認識は実態とあっているのだろうか。「めったに起こらない危険と、こどもの成長にかかわる遊び・・・」とのバランス。

 「遊び」の効果としては、賢く、勇敢に、さらに優しくなるということが、動物の研究では明らかになっています。遊びは、脳を鍛えることにもつながり、生物の進化の本質を根差すものかもしれないとさえ言われ始めています。

 大人が手出しせず、自由に遊べる環境・・・を、多くの人たちで支えることが出来ると素敵ですよね。


  


Posted by toyohiko at 11:53Comments(0)社会を考える

2022年10月22日

公助と共助の違いを考える




 「日本人は、共助が苦手である・・・」という話を耳にすることがあります。この理由として、相手に対する恐怖感や自己責任主義的な社会的風潮によって自助と公助を重んずる傾向が強く、共助が苦手であるという事も同時に言われています。

 ところで、自助と共助の境界線は、「自分の責任・・・」とか「あの人の責任・・・」というような感覚で、仕分けをしてしまうと思いますが、自助も共助も「自分自身」が課題解決の当事者に入っているという事になります。
 また、共助と公助の境界線も同じように、自分自身の感覚で線引をしますが、公助には「自分自身」が課題解決の当事者ではない・・・という考え方がそこに入ってきますので、そこには大きな違いが存在します。
 
 一般的に、公助の場合は政治や行政などの極めて公共性の高い機関によって問題を解決していくという考え方になります。

 言い換えれば、身近の人たちではなく、顔の見えにくい立場の人たちに課題解決の責任を一任するという事になります。ここでのポイントは、「自分以外の顔の見えにくい立場の人」に委ねることに対してのハードルの高さをどのように考えるかです。

 日本人は、「共助が非常に苦手である・・・」ことからすれば、このハードルが低い人が多い・・・という事になります。
 
 「共助が苦手である・・・」という事の真偽については、様々な議論もあると思いますが、World Giving Index(WGI)という国際的な調査の結果、2009年から2018年の10年間の調査で、125ヶ国中、日本は残念ながら107位。
その中でも、Q1の「人を助けたか・・・」という「共助」に関わる項目については125位と最下位でした。さらに、直近の2021年度版の報告では総合で114ヶ国中最下位とランクダウンしているという結果を真摯に受け止める必要があると言わざるを得ません。

 「ハードルの低さ・・・」という視点から考えれば、「これが、大切なことはわかるけど・・・やるのは自分じゃないよね・・・」という心理状態の人が多いという解釈もできます。
 このような心理状態になってしまうのには、日本人の同調性の高さや、目立つことを避けるという傾向ともつながっているのかもしれません。

 自助から、いきなり公助に飛び越えてしまうような傾向が強くなってしまうことで、「会社の責任・・・」とか、「社会の責任・・・」というように実体の見えにくいものに対して責任転嫁してしまうことが多くなってしまう状態は決して良いことではありません。

 「サラリーマンだから・・・」とか、「どうせ・・・だから。」などのフレーズも、ある意味、実体のない偶像化されたものに対して自分以外の人格に責任を転嫁してしまう境界線を越えてしまった瞬間を自ら表現しているのかもしれません。

 課題解決という視点から考えると、実体のない他者に委ねる課題が積みあがってしまえば、どういった状況になるかは明白です。かといって、自分だけで解決していくことが難しいからこそ、他に委ねていると考えれば、自分自身も含めた仲間と一緒に解決していく場面が増えることは大切なことです。

 しかも、他者に委ねてしまうような課題解決の方法では、納得のいく結果になる可能性も低くなってしまいます。だからこそ、たとえ苦手であったとしても自分自身が関わる形での課題解決が必要なのです。

 「人は与えてもらうときよりも与えることの方が、より強く幸福感を感じる」と言われています。そんな場面が日常生活の中で体感する機会が多くなることは素敵な事かと思います。

 そのためにも、自身の問題として積極的に関わることができやすいための心理的安全性が非常に大切なことのひとつになるのではないのでしょうか。
 過去においての、「対応してもらえなかった・・・」というような経験は、確かに自分自身が積極的に関わることに対する大きなハードルになってしまいます。しかしながら、あくまでも過去の経験であり、この過去をアップデートするのは自分自身です。

 「言っても、変わらない・・・」という言葉がありますが、「言わなければ、もっと変わらない・・・」という姿勢もひょっとしたら必要なのかもしれません。

 多くの場合、お互いの得意分野や責任の範囲などの境界が曖昧ゆえに、「やってくれると思っていた・・・」などの、コミュニケーション不足による失敗を経験したことがある方も多いと思います。

 だからこそ、「やって欲しいこと・・・」と「任せて欲しいこと・・・」をお互いの関係性の中で、明確に伝えあうための自己開示性が欠かせないものになってくるのではないのでしょうか。

 自助から、いきなり公助へ・・・というステップではなく、頼るチカラも使いながら、仲間と一緒に自らも関わるという形で、身の回りの課題解決に取り組んでいくことは、課題解決のスピードアップとともに、「与えることによる、幸福感」も感じることができるのかもしれません。


  


Posted by toyohiko at 09:35Comments(0)社会を考える

2022年10月14日

「新しい時代のコミュニケーションとは何か・・・」を考える




 コロナ禍という言葉とともに、日常においても様々な行動変容が起こってきています。その代表的なものが、リモートと呼ばれる様々なITを活用したコミュニケーション手法です。

 また、手法だけでなく「伝え方・・・」の変容においても大きな波が訪れつつあります。その大きな波の一つが「叱る」という行為からの転換です。
 「そもそも、叱らないと人は育たないのか・・・」という言葉が注目されるように、従来の価値観では「多様性を損ない、同調性や受動的な人格形成につながる・・・」というような考えの方も多くなりつつあり、叱責はもちろんのこと「叱る・・・」という行為について見直しが急務になってきています。

 この二つの社会の変容に関わる共通点は共感なのではないかと思います。

 例えば、「リモートワークでも、情報のやり取りは十分に出来る・・・」という事なのだとは思いますが、何となく「相手が何を考えているのかが・・・、今までと違って理解しにくい・・・」と思ってしまったり、「情報だけが伝わって・・・目の前に相手がいるのだけど・・・何となく孤独を感じる」というような感情になる事はありませんでしょうか。

 「脳トレ」で著名な東北大学加齢医学研究所所長の川島隆太氏によれば、コミュニケーションが深まってお互いを理解し、共感するようになると、脳のある部分の活動が同期する現象が起きることが明らかになっています。
その一方で、オンラインの場合には、会話は続いているのに、脳の同期が行われないということが解ってきたと言います。

 その理由として、現状のオンラインの仕組からすれば、何枚もの静止画で構成されているという技術的な性格上、脳の非常に精密なシステムからすれば、画面に映っているものはリアルな人では無いという認識をしてしまうためと考えられています。
 さらに、静止画の組み合わせという特徴ゆえに、「視線が合わない・・・」ことが挙げられます。目と目で語り合うこと、相手の表情をつかむことがどうもうまくできないなどの理由で脳の同期がうまくできないというのです。

 人間の脳は、他者との相互作用によって、孤独を感じないというシステムが発動するような仕組みになっているそうで、リモート中心の活動が常態化することによって相手と心のやり取りができている実感が得られず、孤独になっていくとも言われています。


 また、「叱る・・・」という行為に対し、臨床心理士の村中直人さんは、叱るという行為の攻撃的な側面に注目する必要があると述べています。

 そもそも、叱るという行為は、親、教師、上司など、権力を持つ者から行われている行為と考える必要があります。つまり、叱るか叱らないかの基準は権力者次第という事になりますので、「自分の叱る権力・・・」について常に意識する必要があります。

 叱るときの動機は、「こうあるべき・・・」という想い描いた姿とのギャップを埋めるためになりますので、自分や自分たちの考えが正解だという想いが募り、「こうあるべきだ」が増えれば増えるほど、叱りたくなるために「自分たちが持っている常識を常に疑う姿勢」が大切だと言われています。

 そもそも、「叱る・・・」ということがやめられない理由のひとつに、「叱ることには一定の効果がある・・・」と感じているためだと思いますが、「叱ることで、相手を正しい状態に導くことができるけれども、何らかの副作用がありそうだからやめたほうがいい・・・。」と考える人も多いのではないのでしょうか。

 村中氏によれば、「叱ることで相手を正しく導くことができるというのは、思い込みです。叱ることで、学びや成長を促進したいのであれば、まったく意味のない行為です。」と言い切ります。

 一般的に、攻撃を受けてストレスが強くかかると、人の中では危険回避のための生理学的反応の一つとして「闘争・逃走反応」と呼ばれる現象が起きます。
 「叱る」という行為によって、行動の変化が起きるのは、この「闘争・逃走反応」そのものになりますので、熟慮型の思考能力が押さえつけられている状態、つまり、学ぶ力が低下している状態であり、自己決定などからすれば遠くかけはなれた脳の状態であると考える必要があります。

 脳は、過度なストレスなどを受けているときには、知的な思考を支える脳の部位の活動は大きく低下してしまい、前頭前野ネットワークが弱くなったり、高次認知に対する分子的な損傷まであるという研究報告も数多くありますように、「相手の意見に共感し、自らの意思で行動を変える・・・」というには程遠い結果に導いてしまうという認識が必要なのだという事になります。

 だからと言って「叱る・・・」ことは、まったくもって駄目であるという事でもなさそうで、本人もしくは、他者に身の危険が降りかかろうとしている時や、ひどい言葉で相手を傷つけている時などの、すぐにでもその行動をやめさせなくてはならない事態についての危機介入には有効と考えられています。

 但し、気をつけなければいけないのは、その危機的な言動を終わらせたら、叱るほうも、「叱る・・・」という行為を終了させることが大切です。

 まさに、「その時、その場で、その事だけを・・・」ということになりますね。

 これらの事例のように、実際に伝えようとする側の本人が「どのように考えているか・・・」は、なかなか伝わらないことが多いことも現実として数多くあります。

 言葉だけでない視線や体感としての非言語コミュニケーションによって、脳の反応にともなう共感につながっているか・・・が、これから変化し続ける社会にとって、失ってはならない大切なもののひとつとして考えていく必要があるのかもしれません。



  


Posted by toyohiko at 11:27Comments(0)社会を考える

2022年09月16日

「のび太のお母さん」の口癖を考える




 のび太と言えば、アニメドラえもんのメインキャストの一人として人気のキャラクターです。
その、のび太のお母さんが小学生ののび太に対して、よく言っているフレーズに「宿題やったの・・・?」があります。

 この言葉を聴いて、何を感じますでしょうか。

 そもそも、学校が授業時間外に次回までにやってくることを指示している習慣がある国は少ない・・・という現実はさておき、「やったの・・・?」という言葉の裏側にある、「どうせやってないんでしょ!」というニュアンスを感じ取ってしまう方も多いのではないでしょうか。

 この会話に続く返事に、「いまやろうと、思ってたのに・・・」や「やる気が無くなった・・・」というようなフレーズが良くあるということからしても、言っている本人の意図に関わらず「信頼されていない・・・」というニュアンスが伝わってしまうからなのだと思います。

 勿論、両者の関係性もあるかもしれませんが、このようなケースは、「やってもらおう・・・」と声を掛けたら、「やる気が無くなってしまった・・・」というように、伝えようとする本人の意思とは正反対の形で相手に伝わってしまう典型的なケースの一つです。

 このような関係は、ビジネスの世界で言えば「相手にうまく動いてもらえない・・・」状態ともいえますが、このような経験をした人は多いのではないでしょうか。

 この、「相手にうまく動いてもらえない…」原因のヒントが、のび太とお母さんのやり取りにあるのかもしれません。

 つまり、知らず知らずのうちに相手が否定的に感じる言葉や表現の選択をしてしまうことで、いわゆる「琴線に触れる…」という事態を招き、やる気を阻害している可能性を考えなければいけないということです。

 そもそも、人の脳は、危機管理的な本能として「えっ…」とか、「もやもやする…」というような感情に耐えることが難しいとされています。
 その「耐えられない…」状況に対してどのように対処するかといいますと、今の自分を正当化するための理由(言い訳)を探し始めて、その理由に対して固執しはじめる…という特性があるということを理解しておく必要があります。

 「ダイエットは、明日から…」という思考などがそれにあたります。

 つまり、健康のためには、食べ過ぎには注意しなければいけないことはわかっていても、目の前の、「食べたい…」を正当化するためには、「明日から…」という理由をつくり出し、強化してしまう性質があるということです。

 「わかっちゃいるけど、辞められない…」のではなく、「わかっているから、辞められない…」なのかもしれません。

 このような反応になってしまう原因については、様々あると思いますが、一番影響を受けるのは、他者からの攻撃的な要素を感じ取ることで、反射的に起きてしまう脳の防御反応として多くの人が本能的に持っているものと考えられています。

 様々なコミュニケーションには、このような脳の癖を理解した上で行うことが、スムーズに目的を果たすためには大切な事になると考える必要があります。

 例えば、「常識的に考えれば・・・」とか、「普通は・・・」というフレーズを、相手の行動や結果に対して使いがちになるかと思いますが、これも防御反応を誘発する典型的なフレーズの一つです。

 このような言い回しの背景には、「相手と自分は、同じである・・・」という前提があるからこそ・・・という考え方が必要とされています。つまり、「自分だったら・・・思う」とか、「自分だったら、・・・と言われると嬉しい・・」という事を、無意識のうちに、そのまま相手に当てはめてしまうために、相手の脳の「もやもやの感情」を呼び起こしてしまうからです。

 「このような価値観が絶対・・・」なのではなく、「このような価値観もある・・・」と考えられることが出来れば、使う言葉の選択も変化させる必要があります。

 その一例が、ネガティブリストによるコミュニケーションであったり、「相談モード」と言われるものです。

 「ちょっと、相談に乗ってくれない・・・」というフレーズから入ることで、相手との関係性を対等であるという感覚に持っていく事が出来るために、話の内容をしっかりと聴いてくれることにつながり易いというのです。

 とはいえ、そのようなフレーズをテクニックとして理解してしまえば、言葉から伝わるサインと、態度や声のトーンも含めた表情などの非言語コミュニケーションによるサインとの矛盾が生じてしまいます。
 その矛盾が伝わってしまえば、「何か変だ・・・?」というサインになり、脳は「もやもや・・・」をさらに強く察知し、より強い防御反応につながってしまうという事も理解しておく必要があります。

 だからこそ、「言葉を変えてみる」というのは、言葉を通じて態度だけでなく相手に対する姿勢も変えるということが必要になるという意識が大切になるのです。



  


Posted by toyohiko at 13:33Comments(0)社会を考える

2022年09月02日

学びと健康との関係を考える




 「小・中・高の12年の教育を修了していない人は12年すべて受けた人に比べて死亡率が2倍高い」というような研究報告があるそうです。このように、一見、関係が無さそうな、「教育」と「健康」という二つの関係について関心を寄せている研究者も多いと言われています。

 その多くは、教育の格差によってもたらされる食生活の格差や、予防医学に基づいた生活習慣などによって引き起こされる可能性と考えられています。

 医師で医学博士の東京大学大学院医学研究科社会医学専攻公衆衛生学分野特任研究員の柳澤綾子氏によると「小中高の12年の教育をすべて受けていない人は12年すべてうけた人に比べて死亡率が2倍高い」という結果について、「それなら教育歴12年以上というカテゴリーにみんな入ったら死亡率が半分になるんでしょ? じゃあ、全員義務教育で小中高校と、12年やったら長生きするじゃない? その中でさらに保健の授業を増やしたらみんな健康になるでしょう?」ということではないと指摘しています。

 12年間の教育を受ける中で、知識などの認知能力のみでなく、「自分の未来を予測する力」でもある「非認知能力」が身についているかどうかという事が重要なのだと言います。

 例えば、特定の疾病に対して、どのような合併症があって、その症状がどのように変化していくのかといった知識があるからと言って、病状が改善するわけではありません。

 知識そのものより、その知識に伴い「将来、自身の身体に起こりうるリスク」に対してリアリティをもって、あらかじめ自身をコントロールするチカラがなくては意味がないという事になります。

 特に糖尿病などの生活習慣病も含め、自覚症状がないまま進行していく疾病は少なくありません。

 しかしながら、その後をイメージする力が欠如したままだと、行動の変化が伴わない為に、病状がどんどん進行してしまうというわけです。だからこそ知識を単なる知識として終えるのではなく、「自身の行動」につないでいく事で、自身の健康状態を維持向上させるというような非認知能力が備わっているかどうかが重要だというのです。

 つまり、「知ってはいるけど・・・、やらない」という事では、どうしようもない。という事になりますし、このような差が、教育の差によって引き起こされ、ひいては健康状態の格差にもつながってしまうと考えられているというのです。

 「そんな、大げさな・・・」と思われる方もいるかもしれませんが、「非認知能力」の差は、目先の欲求に対する対応の差に大きく関係しているともされています。

 子どもに対して、今すぐ食べてしまうならお菓子を2個だけ、もう少し待てるなら3個あげるという条件を提示する実験などで、すこしでも待てばたくさんもらえるのに、今ある目先の快楽に負け、多くの子どもがお菓子を2個食べることを選択してしまうのと同じような話です。

 このような実験の事例でもありますように、未来により大きな利益があると頭では理解していても、思わず目先の欲求に負けてしまう人が多いというのが現実です。
身体に悪いとわかっていてもタバコを吸ってしまったり、お腹が空いていると目の前の食べ物やアルコールを暴飲暴食してしまうことも同じです。

 さらに、このような非認知能力の差は、人間関係にも表れることがあるとされています。

 自己中心的な思考や、短絡的な対応を優先してしまいがちになる事で、孤立につながってしまうようなケースは、その一例ともいえます。

 「友人が居ない人は、タバコを1日に2~3箱吸うのと同じくらいの健康リスクを抱えている」とも言われていますが、非認知能力の差が孤立を招き、健康にも影響を及ぼしてしまうという認識は大切なことの一つだと思います。

 「病気になる前に、病気にならないために・・・」を基本とする「予防医学」という考え方は、良く聞かれるようになりましたが、その一方で、「わかり難いものを、大切にする・・・」という、大きな壁があるのかもしれません。

 そのためにも、「先を見通すチカラ」でもある、非認知能力を高めるための学びが、健康の維持向上にもつながることを理解する必要があるのかもしれません。

  


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2022年08月26日

朝食と健康との関係について改めて考える




 朝食の是非も含めた健康に対する有用性については、現在においても様々な議論がなされています。
また、20代を中心とした若年層の朝食の欠食率については、未だ20%を越える水準が続いており、2016年3月の「第3次食育推進基本計画」で、2020年までに若い世代の欠食率を15%以下にするという目標も立てられたほどです。

 その一方で、2019年の調査などでは、朝食も含めた食事の改善に取り組めない理由として一番多かった内容が、「仕事や家事・育児などが忙しくて時間がない」という結果からしても、健康と社会環境との密接な関わりも伺えます。

 朝食に関しては、「食事は、空腹になった時に食べればいい・・・」という考えがある一方で、熱中症予防の視点から考えた時の水分補給としての役割や、体内時計との関係性を考慮した時間栄養学の視点などからも、「朝食べるからこその、健康上の利点・・・」に関する研究報告が多くあることも事実です。

 このような、様々な研究報告の中で、多くの方が興味を持っていると思われるものとしては、体重に関する影響です。
 
 名古屋大学大学院生命農学研究科の小田裕昭准教授らの研究グループは、ダイエット目的もふくめた、習慣的に朝食を食べない「朝食欠食」が、体重を増加させてメタボリック症候群へつながる可能性を大きくするだけでなく、筋肉を萎縮させてロコモティブシンドロームやサルコペニアの危険性も増大させる可能性についての報告をしています。

 小田准教授らのグループは2018年にラットによる実験で、高脂肪食摂取の状態で朝食欠食をすることによって、体内時計の異常を引き起こし体重増加につながるというメカニズムを遺伝子レベルで解明したという報告をしています。

 さらにその後の研究で、高脂肪食ではなく、普通食を摂取した場合での実験においても、朝食欠食が体内時計の異常を引き起こし、体重が増加するとともに、筋肉の萎縮などの「筋力の衰え」をもたらすことがわかったというのです。
これらの症状も、前回の実験の結果同様に、朝食欠食により各臓器の体内時計が異常になるためであると報告しています。

 いままでは、「食事」=「カロリー摂取」という考え方が一般的だったために、「いつ食べる・・・」という事に対する違いや重要性について、あまり関心を寄せるかたも少なかったかと思いますが、体内時計を中心に考える「時間栄養学」の概念がでてきたことで、生活習慣の見直しに関しての多様なエビデンスが示されるようになったと考えることができるのかもしれません。

 結果として、小田准教授らの研究は、朝食欠食の習慣が、メタボリックシンドロームの危険性を増加させるだけでなく、老年期には筋肉萎縮が促進され、ロコモティブシンドロームやサルコペニアの危険性を増大させることに繋がることを明らかにしたのです。

 私たちは、生活していく上で「正解を知りたい・・・」のではなく、「自分にとって都合の良い情報を信じたい・・・」というバイアスと常に闘っています。

 もし、「朝食を食べない」ライフスタイルの正当性を、「朝起きた時に、お腹がすいていない生活」を改善することからの回避・・・だとすれば、朝食と健康の関わりについても、単に身体の仕組の話だけではなく、「自分の周りの当たり前・・・」という社会環境に飲み込まれてしまっているゆえの「正常性バイアス」からの脱却から始めなくてはいけないのかもしれません。



  


2022年08月19日

「体内時計は植物にもあるのか」を考える




 体内時計は、睡眠の質や食欲だけでなく、食べたものの代謝のコントロールなど身体の恒常性を支える様々な機能に関わっていることが解ってきています。
 人間を含めた哺乳類の体内時計はあらゆる細胞に存在し、その機能を脳の中心部下面にある視床下部の中に司令塔の機能を持ち、神経細胞のネットワークを通じて全身のリズムを調整していると考えられています。

 このように、多くの生物は体内に時計のような機能を持つことで、24時間の周期リズムを自ら刻み、地球の自転に伴って起こる昼夜の様々な変化に対応しており、このリズムを刻む機能を概日(がいじつ)時計と呼んでいます。

 この概日時計の機能は、植物にもあるのでしょうか・・・?

 奈良先端科学技術大大学院大学の遠藤求助教によりますと、植物は光エネルギーを利用することで光合成をおこなっているために、光環境の変化に対して同調することで自らの生命を維持することは大変重要な機能の一つになるとしています。

 特に、多くの植物は自分の意思で移動できないこともあり、昼夜での葉の動きなど様々な工夫をしていることは、なんとなくお気づきの方も多いのかもしれませんが、このような葉の開閉運動なども概日時計が関与しているというのです。

 さらに、二酸化炭素と酸素のガス交換や蒸散を行っている気孔の開閉も概日時計の制御下にあるとされています。

 このように、明暗や日照時間の長短も含めた環境の変化にあわせ、より効率的に対応することが植物自身の成長に大きな影響を与えるからだと考えられています。

 実際に、明暗のサイクルを人工的に20時間にした場合と、28時間にした場合を比較した実験では、成長が24時間サイクルの場合と比較して半分程度しかないという結果も報告されています。

 このことは、概日時計のリズムとその植物を取り巻く外的環境のリズムがあっていると成長するが、両者のリズムがずれることで成長が阻害されることが示唆されています。

 更に、開花のタイミングや昆虫を引き寄せるための香り成分を出すタイミング、その植物にとって外敵となる生物から身を守るための防御物質を出す仕組みに至るまで、より効率的なタイミングで行うために概日時計が関わっているというのです。

 人間にとっての概日時計については、時間栄養学という概念が広まることによって、健康の維持向上やアスリートのパフォーマンスの向上など、今後様々な可能性があるとされています。

 このような植物の概日時計には、「自ら移動できない存在である植物であるからこその機能・・・」として、環境の変化に適応するためにより効率的に自らのエネルギーを配分する役割も見えてきたような気がします。

 とはいえ、生命の神秘を解き明かすことは、社会利用のためだけでなく、知への探求に基づく持続可能な共存のための生命への敬意なのかもしれません。


  


2022年08月12日

光合成という生命誕生の歴史を変えた仕組みを考える




 そもそも、「植物の色は何色なのでしょうか・・・?」の問いかけに、多くの人は「緑色」と答えるでしょうが、「植物の色は透明である・・・」という考え方があることはご存知でしょうか。

 岡山大学 異分野基礎化学研究所 構造解析研究分野の沈建仁教授によれば、植物に含まれる葉緑素は光の中の、赤色よりの長い波長と紫から青にかけての短い波長の部分を吸収する性質があり、真ん中の緑色の波長の光が吸収されずに反射されるために、植物は緑色に見えるのだそうです。

 この葉緑素が含まれる葉緑体によって植物は光合成をおこなうのですが、この光エネルギーから、水を分解して酸素をつくり出すという私たちヒトを含む多くの生物の生命の基盤ともいえるメカニズムについては、長い間解明されていませんでした。

 光合成の仕組としては、葉緑素の分子が光を吸収し、葉緑素から光エネルギーの影響を受けることで電子が飛び出します。葉緑素から電子が飛び出した結果、電子が足りなくなるために、隣の分子から電子を奪いとる・・・という状況が起こります。

 このような、反応が連続して起こることで、隣の葉緑素からは電子を奪い取れなくなり、植物中の水分子の電子を奪いに行くわけです。そして、水分子から電子を奪い取られる行為が4回続くことで、水分子が、水素イオンと酸素分子に分解されるのです。

 沈建仁教授は、「ただ葉緑素と水があればいいか、というとどうやらそうでもない・・・」らしく、その電子の奪い合いを誘発するための触媒となるマンガンとカルシウムという存在があり、しかも非常に複雑なたんぱく質の化合物に囲まれた構造になっていることが解ってきたとしています。

 現在は、貴金属や高価な触媒を利用しての人工光合成についての成功事例はあるものの、生命誕生の起源にもなる重要なメカニズムに関しては、実験室レベルでの様々な再現性実験にも関わらず、現代の科学をもってしても酸素が実際に出てくる反応そのものを再現できていないというのが現状のようです。

 光合成のメカニズムの特徴を植物の一つの営みとしての視点ではなく、生態系や社会を支える仕組みとして考えてみれば、「高効率での光エネルギーの利用」、「光エネルギーの吸収・電子伝達・水分解反応の適切な分業」、「安価で豊富にあるマンガンとカルシウムを触媒にしている」という、これらの特徴をもった水を電子源として有機物と酸素、そして水素を産生するシステムです。

 光合成のメカニズムの研究の目的には、人工光合成という環境問題も含めた持続可能な社会に向けての課題解決の一つにつながる可能性を求めているからです。

 化石燃料によって支えられている、現代の文明社会にとって、「脱炭素社会」は大きな社会課題になっていることは事実です。

 人工光合成が、「生態系に関する課題解決の切り札である」というような、利用するという視点だけではなく、現代の叡智をもってしても再現しえない命をつなぐ仕組みに対してさらに学ぶ、という事だけでなく畏敬の念をもって支えていく事も大切にしたいものです